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第十九章:めくるめく中敷きの迷宮(あるいは:縁側のベテラン現る)

「裕太、お願いだからそれだけは勘弁してぇぇぇ!」


土曜日の爽やかな朝、我が家の玄関には真依の絶望的な悲鳴が響き渡っていた。


3歳の裕太が玄関のたたきに座り込み、新調したばかりの可愛いスニーカーから、中敷き(インソール)を驚異的な器用さでベリベリベリ……と剥ぎ取っている真っ最中だった。

すでにインソールは、裕太の爪によって端っこがボロボロにむしられ、無残な姿で転がっている。


「これで今月三足目よ……。中敷きを接着剤で固めても、翌日には爪で隙間を見つけて剥がしちゃう。3歳児の指先の執着心をナメてたわ。もう打つ手がない……」

真依は頭を抱えてしゃがみ込んだ。そこへ、眼鏡の奥の目をピクリと光らせたパパが現れた。


「フム……。爪先で何かを『めくるイベント』が楽しすぎて止められないバグと推測される。根本解決には、中敷きを特殊な超強力両面テープで靴底ごと十字にガチガチに固定し、爪が入る段差を完全に隠蔽マスキングするパッチを当てるしか――」


「ガハハハハ! 相変わらずお堅いねぇ、純一は!」


突如、すべてを吹き飛ばすような爆音の笑い声が響いた。

廊下の向こうからドタバタと現れたのは、我らが救世主、美佐子ばあちゃんである。


「ばあちゃん! 裕太がまた靴の中敷きを破いちゃって……」

泣きつく真依に、ばあちゃんは裕太の前にどっかと腰を下ろし、ボロボロになった中敷きをひょいと拾い上げた。


「いいじゃないの! 大人は『靴は中敷きを入れて履くもの』って頭がガチガチだけど、裕太は『めくるイベント』が楽しくて満足しただけさね! 剥がしちゃダメって怒るから、余計に隠れてベリベリやりたくなるのさ!」


「しかし母さん、中敷きを固定しないと歩行の際に――」と理屈をこねる高野を、ばあちゃんは手でシッシッと追い払った。

「難しく考えなさんな! 貼ってダメなら、そんなもん最初から無い状態で、そのまま裕太に履かせちゃえばいいんだよ!」


「えっ……? 中敷きなしで、そのまま履かせるんですか!?」

真依が目を丸くした、その時だった。


「あら、美佐子じゃないの。相変わらずガサツで豪快な解決策ねぇ」


開け放たれた玄関の向こうから、上品でおっとりとした、でもどこか芯のある声がした。

そこに立っていたのは、最近この近所に引っ越してきたばかりという、ばあちゃんの幼馴染の「梅子さん」だった。


「おや、梅子じゃないの! ちょうどよかったわ、今お茶淹れるから上がっておくれよ!」と、ばあちゃんは裕太の靴を持ったまま梅子さんを縁側に迎え入れた。


縁側でお茶をすすりながら、美佐子ばあちゃんは「実はさ、うちの初孫の裕太が自閉症とADHDでさ、靴の中敷きをどうしても剥がしちゃって困ってたのさね」と、世間話のつもりで孫の障害の話を打ち明けた。


真依は(初対面の梅子さんに、そんな急にヘビーな話を……)とハラハラしたが、梅子さんは湯呑みを置くと、ふっと優しい目を裕太に向けた。


「美佐子、あんた私が今までどこで何年働いてたか、知らなかったのかい?」


「え? どこって、普通に会社員か何かだと思ってたよ?」


梅子さんはふふっと微笑み、真依と高野に向き直った。

「私ね、障害児施設や放課後デイの現場でね、何十年もたくさんの凸凹ちゃんたちをお世話してきた、ただの福祉のベテラン職員ばあちゃんなのさ」


「ええっっっ!?」「なんですと!?」

真依と高野の叫び声が響く。美佐子ばあちゃんだけが「ひええ! あんたそんな凄腕のプロだったのかい!」とお茶を吹きこぼしていた。


梅子さんは裕太の剥がした中敷きを優しく手にとり、指でその材質を確かめながら言いました。


「真依さん、高野さん、驚かなくていいわよ。現場の目から言わせてもらえばね、美佐子の『外したままでそのまま履かせちゃえばいい』っていうのは大正解。困ってるのは裕太くんじゃなくて、『中敷きがなきゃダメだ』って思い込んでる大人の頭の方だからね」


真依は目から鱗が落ちる思いで梅子さんの言葉に耳を傾けた。


「でもね、もう一歩踏み込んで言うなら、裕太くんはただ悪戯でめくってるんじゃないと思うの。感覚過敏の子たちの中にはね、大人には分からないミリ単位の『足の裏の違和感』を敏感に感じ取って、SOSを出してる子がたくさんいるのさ」


梅子さんは懐かしそうに目を細めた。

「昔ね、施設から家まで車で送る時に、車に乗った瞬間にいつも全裸になっちゃうダウン症の男の子がいたの。周りは『問題行動だ』って大騒ぎしたけど、私たちは違った。車の中は服の締め付けから解放されて、本人が一番リラックスできる空間だったのね。だから車内では全裸で過ごさせてあげて、お家に着いたら、本人のタイミングに合わせて、お洋服を着せて、靴下を履かせて、中敷きを入れて、靴を履いてもらって、外に出た時のタイミングでカバンを背負わせて『さあ帰るよ』って、一通りのルーティンを優しく守って帰ってもらってたの」


真依の胸に、梅子さんの言葉が温かく染み込んでいく。


「だからね、裕太くんの中敷きも、まずは現物をよーく見てみないと分からないけれど、メッシュが嫌なのか、ウレタンの感触が不快なのか、何かの違和感エラーがあるはず。外したままでも本人が痛がらないならそのままでいいし、もし靴を履くのを嫌がるなら、コルクや綿、ジェルシートみたいに、色んな材質の中敷きを試して、本人の足の裏の回線にピタッと合うものを探してあげるのが一番いい気がするよ」


高野はズレた眼鏡をクイと直し、凄まじい筆圧でノートに書き殴った。

『新規参入の外部顧問(梅子氏)により、足底エラーの感覚過敏への根本的デバッグ、およびルーティン保持の重要性がログに記録された』


「ガハハハ! さすが私の幼馴染、言うことが一味違うねぇ!」

美佐子ばあちゃんが梅子さんの背中をバシバシと叩く。


「ちょっと美佐子、痛いじゃないの。あんたのガサツな材質もどうにかしなさいよ」

梅子さんが呆れたように笑う。


その二人のばあちゃんの姿を見て、真依は確信した。

(我が家の地雷原に、今度は本物のプロの味方が加わった……! これからどんな凸凹な毎日になっても、絶対に笑顔で乗り越えられる!)


初夏の爽やかな風が吹く縁側で、私たちは新しい心強い味方と共に、お気楽で大極楽な一歩をまた踏み出したのだった。

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