第十八章:「よくやってるね」の一言に、張り詰めた涙が温泉の夜に溶けていく
金曜日の夕方。
いつもなら週末の足音に怯え、息を潜めるように過ごす時間。
しかしこの日、高野家の面々は、街の喧騒から遠く離れた山あいの、鄙びた温泉宿の畳の上にいた。
連日のバグ修正とアップデートで心身ともに限界を迎えていた真依を慮り、高野が「脳疲労の機能回復には、環境の完全なリセットが必要だ」と論理的に提案し、美佐子が「よし、ばあちゃんが最高の秘湯を予約してあげる!」と豪快に便乗して決まった、家族総出の「大休憩ミッション」だった。
山肌を撫でる初夏の風が、宿の古い木造の廊下を吹き抜けていく。
夕食を終え、裕太が高野と一緒に部屋の隅でミニカーを走らせているのを横目に、真依と美佐子は縁側の座椅子に腰をかけていた。
「はぁ……。本当に、静かですね……」
真依は、手元に置かれた温かいほうじ茶の湯気を見つめながら、ぽつりと呟いた。
いつもなら「次は何のパニックが起きるか」と、戦闘態勢の尖った神経が、温泉の効能と静寂によって、じんわりとほどけていくのを感じていた。
「そうねえ。たまにはこうして、都会のノイズを全部山に捨てていかなきゃ、頭のネジが錆びついちゃうわよ」
美佐子はあははと低く笑いながら、真依の少し痩せた横顔を、いつになく優しく見つめた。
その温かい視線に触れた瞬間、真依の胸の奥に澱のように溜まっていた「何か」が、堰を切ったように溢れ出しそうになった。
真依は膝の上で浴衣の裾をぎゅっと握りしめ、消え入りそうな声で言った。
「美佐子さん……私、ここへ来る時も、本当はすごく怖かったんです。新幹線の中で裕太が叫んだらどうしよう、宿の物を壊したらどうしようって……。いつも、どこへ行っても『普通のお母さん』の採点基準が頭から離れなくて。みんなが普通にできていることが、どうして私にはこんなに血を吐くような努力をしないとできないんだろうって。毎日、裕太のパニックを止めるたびに、誰かに『あなたは間違ってないよ』『よくやってるね』って、ただ一言、言ってもらいたくてたまらなかったんです……。そんなの、母親としての甘えだって分かっているのに……」
真依の目から、大粒の涙がポロポロと畳へこぼれ落ちた。
世間の「普通の母親像」という見えない怪物に、たった一人で立ち向かい、傷つき、それでも裕太の手を離さなかった彼女の、これが魂の叫びだった。
美佐子は笑わなかった。
それどころか、いつもよりずっと真剣な、深い慈愛に満ちた目で真依を見つめると、その細くなった両肩を、自分の大きな温かい手でガシッと包み込んだ。
「真依さん。甘えなわけないじゃない。よく聞きなさい」
美佐子は真依の目をじっと覗き込み、一言一言を噛み締めるように語りかけた。
「世間の『普通のお母さん』なんてね、百人集まったって、今の真依さんの足元にも及ばないわよ。あの人たちはね、最初から平らに舗装されたまっすぐな道路を、ただベビーカーを押して歩いてるだけ。でも、真依さんが毎日歩いているのは、道なきジャングルの地雷原なのよ? 右を向いても左を向いてもバグだらけ、いつ爆発するか分からない暗闇の中で、真依さんはたった一人で血を流しながら、裕太のために新しい道を切り開いてきたの。毎日、裕太の脳みその痛みを誰よりも理解しようとして、純一のややこしい理屈を必死に勉強して、現場で魔法みたいに実践してる……。こんな凄いこと、そこらの『普通』を自慢してる人たちにできるもんですか!」
美佐子の言葉は、真依の心の最も深い、乾ききっていた場所に、濁流のような肯定のエネルギーとなって流れ込んできた。
「真依さんはね、もうとっくに一千百億点満点のご立派な母親よ。誰も褒めてくれないなら、この私が毎日、世界中の拡声器を使ってでも叫んであげるわ。『高野真依は、世界一勇敢で、世界一素晴らしい母親だ!』ってね。だからね、真依さん。自分を責めるのはもうおしまい。あなたは本当によくやってる。本当に、本当に偉いわよ」
美佐子が真依の背中を優しく、何度も何度もさする。その手の温もりを通じて、真依がずっと欲していた「絶対的な承認」が、彼女の心を完全に満たしていった。
「美佐子さん……っ、ありがとうございます……! 私、頑張って、よかったです……!」
真依は美佐子の胸に顔を埋め、子供のように声を上げて泣いた。それは悔し涙ではなく、自分のこれまでの苦闘がすべて報われた、救いの涙だった。
――その時だった。部屋の奥の畳から、突如として不穏な空気が漂ってきた。
「違う! 純一さん、そこじゃない! ミニカーは『青』が先なの! なんで『赤』を置くのぉぉぉ!!」
裕太の、あの聞き慣れた「こだわりバグ」の警報が静かな部屋に響き渡った。
見れば、高野が作戦ノートを片手に、裕太とミニカーの線路を並べていたのだが、どうやら良かれと思って「色彩配置の効率化」を勝手に試み、裕太の「青→赤→黄」という絶対の順序ルール(仕様書)をクラッシュさせてしまったらしい。
「ゆ、裕太、待ってくれ! 論理的に言えば、波長の短い青色の次に、視認性の高い赤色を配置するほうが、脳の視覚処理スピードにおいて――」
「いやぁぁぁ! 青が先! パパのバカァァァ!!」
裕太は顔を真っ赤にして、高野の眼鏡をひったくろうと暴れ出した。
「しま、システムが制御不能に……! 真依、かあさん、ヘルプだ!」と、高野がノートを盾にしながら完全におろおろと立ち往生している。
真依がハッと涙を拭って立ち上がろうとした瞬間、美佐子が「はいはいはい!」と、いつものからりとした大声で遮った。
「ほーら見なさい! 勉強ばっかりできるカタブツパパが、可愛い子猿ちゃんのプログラミングを勝手に書き換えて大火事起こしてるわねえ!」
美佐子はあはははと豪快に笑うと、懐からお土産の「温泉饅頭の包み紙(茶色い紙)」をビリリと破り、それを即座にミニカーの線路の間にドスンと置いた。
「裕太、大変! 今ね、線路の真ん中に『温泉の泥怪獣』がドロドロ〜って現れたんだって! だから、青いミニカーも赤いミニカーも、みんな一緒にこの泥怪獣をジャンプして避難しなきゃいけないのよ! ほら、ぶぶーってジャンプ!」
美佐子が包み紙の上でミニカーを大きく跳ね上げさせると、裕太は涙目をピクッと動かし、その劇的な「ルールの書き換え(イベント発生)」に一瞬で目を奪われた。ADHDの「新奇性への飛びつき」が見事に作動し、順序のこだわりが「泥怪獣を倒すゲーム」へと上書きされたのだ。裕太はすぐに「怪獣、じゃんぷ!」と笑顔になり、ミニカーを走らせ始めた。
「ふぅ……。認知の文脈の強制介入……。母さん、助かった……」
高野はズレた眼鏡を直しながら、畳の上にへなへなと座り込み、作戦ノートに凄まじい筆圧で「温泉地における突発的エラーの回避ログ」をメモし始めた。
その光景を横で見ていた真依は、思わず「あらら……」と両手を頬に当て、それから、お腹の底から込み上げてくるおかしさに、くすくすと笑い声を上げた。
(ふふ、やっぱり……。やっぱりうちの家族は、こうじゃなきゃダメね)
ロジックで問題を解こうとするけれど、時々空回りしてしまう不器用な夫。
そんな凸凹を、圧倒的なパワーとユーモアで一瞬にして笑顔に変えてくれる最高の義母。
そして、世界で一番愛おしい、バグだらけの我が子。
世間の「普通」なんて、1ミリも必要ない。この凸凹な3人四脚のチームこそが、自分の最強の居場所なのだと、真依は確信していた。
「さあ、山のご飯のバグも、パパの空回りバグもこれにて完全クリア! 高野、真依さん、裕太が落ち着いたところで、もう一回みんなで湯気いっぱいの温泉にドボンと浸かって、美味しい大極楽作戦会議の続きをしようじゃないの!」
美佐子の明るい号令に、裕太はミニカーを掲げて「おんせん、ごー!」と嬉しそうに飛び跳ねた。高野と真依は、月明かりが優しく照らす温泉宿の部屋でお互いの顔を見合わせ、この愛すべき凸凹な未来をどこまでも一緒にデザインしていく強い信頼と愛を込めて、深く、深く頷き合うのだった。




