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第二十一章:見えない壁と空気のデバッグ(あるいは:嗅覚過敏の空間防衛ハック)

我が家のリビングの入り口には、ときどき「見えない透明な壁」が出現する。


「う、うう……。頭が、脳の処理メモリが匂いのノイズで100%に……」

夫の純一が、リビングのドアの手前で頭を抱えてフリーズしていた。

その足元では、3歳の裕太も「いや! くさい! おへや、はいらない!」と床にひっくり返って大泣きしている。


今日の夕飯は、真依が腕を振るって作った具だくさんのカレー。

定型発達の真依にとっては「美味しそうな良い匂い」なのだが、超・感覚過敏の回線を持つ純一パパと裕太にとっては、部屋中に充満したスパイスの香りが「脳みそを直接殴りつけてくる情報の暴力」になってしまうのだ。


「もう……せっかく作ったのに。やる気なくしちゃうな」

真依がため息をついた、その瞬間だった。


「ガハハハハ! 匂いってのは目に見えないから厄介だねぇ!」


ドタバタと廊下から現れたのは、我らが美佐子ばあちゃん。お盆の上の湯呑みをお約束のようにガタガタ言わせながら、カレーの匂いをクンクンと嗅いでいる。

その背後からは、上品に微笑む福祉のベテラン・梅子さんも一緒だ。


「真依さん、怒っちゃいけないよ」

梅子さんは優しく真依の肩を叩いた。

「匂いっていうのはね、100人いたら100通りの感じ方がある『究極の主観感覚』なんだ。だからね、『これをすれば全員治る』っていう一発解決の特効薬なんて、この世に存在しないのさ」


「えっ、解決策がないんですか……?」真依が不安そうに純一パパを見る。


「そうさ。相手(匂い)を一概に変えることはできない。だったらね、やり方を変えればいいんだよ。本人の周りの『空気』を、仕組みで徹底的に引きデバッグして守ってあげるのさね!」


梅子さんはそう言うと、リビングの隅にドスンと大きな機械を設置した。――強力な空気清浄機である。


「まずは部屋の空気をこれで強制デバッグ! 滞留した匂いの粒子を物理的に引き算するのさ」


ブォォォーンと空気清浄機がフル回転を始めると、リビングの空気がまたたく間にクリアになっていく。さらに梅子さんは、カバンから見慣れない厳重なパッケージのマスクを取り出して、純一パパの顔にシュッと装着させた。


「そして外出時や、どうしても匂いがつらい時はこれ! 【サージカルマスクのレベル2】さね!」


純一はマスクをつけ、ハッと目を見開いた。眼鏡の奥の瞳が、驚きでギラリと輝く。


「な、何ということだ……! 普通のマスクとはフィルターの防護密度スペックがまるで違う! 医療現場の基準(JIS適合)をクリアした液体遮断・微粒子キャプチャ能力によって、僕の嗅覚センサーに侵入してくるスパイスの化学物質が、物理的にほぼ100%デリートされている……! 脳内のワーキングメモリが一気に解放クリアされていく……!」


「ガハハハハ! その通りさね!」

美佐子ばあちゃんが、純一の背中をバシバシと叩いた。

「『我慢しろ』とか『慣れろ』なんていう根性論じゃなく、空気清浄機とガチのマスクで、本人の周りの空気自体を引き算してバリアを作っちゃえば、誰もイライラしなくて済むじゃないの!」


「なるほど……!」と純一パパが深く納得した横で、真依は、はぁ……とさらに深いため息をついた。


「パパはそれでいいかもしれないけど……裕太は無理よ。そもそも感覚過敏のこの子にとって、マスクの紐が耳にかかるのも、不織布が口元に触れるのも大嫌いなんだから。マスクをつけること自体が難しいのに、もうお手上げじゃない……」


真依は、裕太の小さな手を握りながらうつむいた。匂いからも守れず、マスクもつけられない。手詰まり(エラー)だった。


「ガハハハハ! お手上げ万歳! だったら両手をあげて降参しちまいな!」


美佐子ばあちゃんが、リビングの真ん中で豪快に笑った。


「真依さん、『マスクをつけさせなきゃ』って足し算で考えるから苦しくなるのさ。マスクがつけられないならね、【マスクをつけるというタスク自体を、人生から引き算】しちゃえばいいんだよ!」


「えっ……? マスクをつけないで、どうやって匂いから守るんですか?」


隣で梅子さんが、優しく裕太の頭を撫でながら、ノートに新しいお気楽仕様書を書き加えた。


「そうだよ、真依さん。本人が嫌がるものを無理につけさせる必要なんて1ミリもないのさ。マスクがダメならね、本人の周りの空間を『逃げ道』にしてあげればいいだけさね」


梅子さんが教えてくれたのは、マスクがいらない「3つのお気楽空間ハック」だった。


【ハック①】部屋の『2点換気』で風の通り道を作る

「窓を1箇所開けるだけじゃ匂いはこもる。対角線上の窓を2箇所開けて、部屋の中に『風の通り道』を作るの。匂いの粒子が風に乗って外へビュンビュン引き算されていくだけで、部屋の空気の濃度は劇的に下がるんだよ」


【ハック②】『逃げ場所(無臭シェルター)』を1個だけ確保する

「リビングがカレーの匂いでいっぱいなら、裕太くんの寝室だけは絶対に料理の匂いを入れない『無臭シェルター』にするの。そこへ空気清浄機を強にしておけば、リビングに入らなくても、その部屋で安心してお気楽に過ごせるじゃないの」


【ハック③】外では『物理的なディスタンス』を取る

「外出先で苦手な匂い(タバコや香水など)がしたら、マスクで防ぐんじゃなくて、本人の手を引いて『ダッシュでその場から離れる(距離を引き算する)』。これだけでいいのさ」


純一パパは、梅子さんのノートを覗き込んで、激しく眼鏡の位置を直した。


「な、何ということだ……! デバイス(マスク)の装着というハードウェアの修正を諦め、環境(空間と距離)のパラメータを調整するシステム変更……! これなら裕太の肌の感覚センサーを1ミリも刺激せず、匂いエラーだけを安全に回避できる……!」


「そうだよ」と梅子さんは微笑む。「一概に『これが解決策』なんてものは感覚の世界にはないの。だからこそ、できないことはお手上げして引き算する。本人が楽な逃げ道を、大人が仕組みで作ってあげればいいんだよ」


真依は、窓から入ってくる心地よい風を感じながら、すっと肩の荷が降りるのを感じた。


「そっか……無理にマスクをつけさせなくて、逃げちゃっていいんだ」


リビングの空気清浄機が静かに回り、開いた窓からは夕方の涼しい風が通り抜けていく。カレーの匂いはほんのり残っているけれど、風の流れるリビングで、裕太は純一パパの買ってきたチョコレートを、安心した顔でお気楽に口に運んでいた。

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