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第二章:仮面が剥がれた夜と、ばあちゃんのガハハの魔法(親子編)

「自閉、スペクトラム……? 何よ、これ。?」


美佐子は、老眼鏡の位置を人差し指でぐいと押し上げ、白内障の手術を終えたばかりの濁りのない目で、診断書のコピーを凝視した。


その指先が、安っぽいコピー用紙の端を無造作に弾く。


高野は、実家の硬い木製椅子の背もたれに背骨を完璧に密着させたまま、全身の筋肉を限界まで硬直させていた。


視線は机の木目に固定され、そこから一ミリも動かすことができない。母親の口から飛び出すであろう「そんなはずはない」という烈しい否定、あるいは「私の育て方が悪かったのか」という絶望の嘆き。


そのどちらが来ても、自分の脳が防衛反応で完全にシャットダウンしてしまうことを予期していた。


(母さんをがっかりさせてしまった。僕という『完璧な作品』に、致命的な欠陥が見つかったんだ。母さんの期待に応えられなかった僕は、もうこの家に居場所を失うかもしれない。いや、論理的に考えれば、これはただの遺伝的、先天的な脳の特性であり、誰の責任でもないはずだ。落ち着け。心拍数を制御しろ。次の言葉に対する反論のシミュレーションを構築するんだ……)


脳内で罪悪感と防衛論理が凄まじい速度で衝突し、火花を散らす。高野の額に、じわりと冷たい汗がにじんだ。


しかし、次の瞬間、静まり返ったリビングの空気を文字通り叩き割ったのは、高野の精緻な予測マニュアルには一文字も登録されていない、あまりにも不条理な音だった。


「あはははははは!」


美佐子は診断書をポンと机に放り出すと、肉のついた自分の膝をパンパンと小気味よく叩いて大爆笑した。


お腹を抱え、文字通り声を上げて笑っている。


その顔には、一切の深刻さも、隠された悪意も、悲壮感もなかった。


放置されたテレビから流れるバラエティ番組でも見ているかのような、地響きのようなからりとした笑顔。


高野は完全にきょとんとして、口を半開きにしたまま固まった。


思考回路が、完全に砂嵐に覆われたようにフリーズする。


(笑っている……? なぜだ。これは僕の人生を揺るがす重大な告白だ。僕は今、自分の存在の根本にあるバグを提示したんだぞ。なぜ母さんは、僕のこの引き裂かれるような恐怖を前にして、そんな風に笑えるんだ?)


「……母さん? 僕は、笑いごとを言っているのではないんだ。ふざけているわけじゃない。これは医学的に証明された、僕の脳の特性で……」


高野は自分の声をコントロールしようとしたが、いつもより2オクターブほど高く、頼りなく震える声を止めることができなかった。


目線が泳ぎ、美佐子の肩のあたりを泳ぐように彷徨う。


困惑と恐怖でパニックになりかけている息子を前にして、美佐子は目尻に浮かんだ涙を、親指の腹でぐいと拭った。


テーブルの上の湯呑みを引き寄せると、ズズッと遠慮のない音を立てて熱いお茶をすすった。


「だって、おかしいじゃない。あなた今、何か生活で行き詰まって、一歩も動けないくらい困ってる事あるの?」


美佐子は首を傾げ、まっすぐに高野の目を見つめてきた。高野はその強い視線に耐えかねて、すぐにまた視線を湯呑みの縁へと逃がす。


「それは……仕事は順調だけど、その……日常生活において、真依とのコミュニケーションに支障をきたしていて……」


「ないなら、なんてことはないじゃない。あなた、今社会的に立派にお仕事をして、真依さんっていうあんなにかわいいお嫁さんと結婚して、まがりなりにもちゃんと暮らしてるじゃないの。何がそんなに大ごとなのよ」


美佐子の声には、本当に一点の曇りもなかった。


世間体への恐怖も、息子を憐れむような湿っぽさも皆無だった。


しかし、その圧倒的な「お気楽さ」は、高野がこれまで、血を吐くような思いで積み重ねてきた努力の歴史を、一瞬でかき消してしまうようでもあった。


高野の胸の奥で、長年ヘドロのように溜め込んできた澱が、一気に沸騰し始める。


(僕がどれだけ死ぬ気で『普通』を擬態してきたか、母さんは何も知らないんだ。誰も褒めてくれないから、自分で自分を律して、完璧なコンサルタントを演じて、完璧な夫を演じて……そうしなければ、僕は誰からも愛されないと思って生きてきたのに!)


強烈な承認欲求と、それが満たされない絶望が、高野の指先を震わせた。


彼は湯呑みの陶器の表面を、爪が白くなるほど強く、ギチギチと握りしめながら声を絞り出した。


「外では上手くいっていても、家の中では違うんだ! 真依と暮らしてから……ずっと息苦しかったんだ! 24時間、普通の人間のフリをし続けるのがどれだけ地獄か、母さんにはわからない! 限界だったから、だから真依と一緒に病院に……!」


「でも、病院でその自閉なんちゃらっていうのがわかって、あなたの取り扱い説明書ができたわけでしょ?」


美佐子は遮るように、しかし慈愛に満ちたトーンで言った。


「だったら、自分のことが前より分かったんだから、万々歳じゃない。何が悪いのよ」


「……っ。母さん、言葉が軽すぎるよ! 僕は今まで、ずっと死ぬ気で我慢してきたんだ!」


高野はついに椅子から立ち上がった。激しい感情の波に身を任せ、両手を握りしめて叫ぶ。


完璧に整えられていたマッシュベースの髪が、乱暴に揺れた。


「周りに合わせるために、いつでも明るく、非の打ち所がない夫でいようと、どれだけ気持ちを削ってきたか……! 僕は母さんに、その苦しんできた僕の人生を、頑張りを、少しは認めてほしいんだ! よく耐えてきたねって、その気持ちをわかってほしいんだよ!」


初めて露わになった、高野の剥き出しの承認欲求。


張り付けた笑顔の仮面が完全に剥がれ落ち、そこにはただ、母親に「よく頑張ったね」と言われたいだけの、迷子のような子供が泣いていた。


しかし、美佐子はふう、と深く、しかし重苦しさのない息を吐くと、窓の外の青空を見るような目で、静かに首を振った。


「あんたね、みんなそれなりに苦しんで生きてるのよ。誰もがすいすい、何の苦労もなく生きてるわけじゃないわ。それぞれ言わないだけでね」


美佐子は椅子から立ち上がると、高野の正面へと歩み寄り、その細い両肩を、温かく、少し手荒に揺さぶった。


「あなた、自分のことばっかり被害者みたいに言うんじゃないわよ。立派なタワーマンションに暮らして、あんなに綺麗でかわいい奥さんと結婚できて、会社でもエースだって言われて。これ以上、世間の何が不満なの? 恵まれてることに感謝しなさい」


「でも、母さん……僕の脳の構造は、普通の人とは……決定的に違って……」


「そういえばさ」


美佐子は高野の言い訳を、これまた小気味よくバッサリと遮った。


彼女の目が、ふっと優しく、懐かしそうに細められる。


「あんたが小さいころ、いっつもいっつも、頑なに下を向いて歩いてることが多くてねえ。首を直角に曲げて、地面ばっかり見てるの。私、何でだろう、この子は地面の虫でも探してるのかな、それとも私の顔を見るのが嫌なのかなって、一時期はちょっと悩んだりもしたのよ」


高野はハッとして、涙のたまった目で美佐子を見た。そんなこと、自分でも忘れていた幼少期の、感覚の記憶だった。


「でもある日気づいたの。あんた、後頭部に強い日差しが当たるのが、皮膚が焼け付くみたいにたまらなく嫌だったのよねえ。言葉で上手く言えないから、下を向いて自分の頭を守ってたのよ」


美佐子は愛おしそうに、高野の乱れた髪を大きな手でくしゃくしゃと撫でた。


「だから私、どうしたっけ? 首の後ろまでしっかり隠れる、あのダサい日差し帽子を買ってきて、あんたの頭に無理やり被せてみたじゃない。そしたらどうなったか覚えてる?」


高野は小さく首を振った。記憶の霧の向こうで、何かが繋がりかけている。


「あんた、帽子を被った瞬間にね、急にパッと顔を上げて、前を向いて、ものすごい勢いで笑いながら走り出して行っちゃったのよ。世界が急に開けたみたいにね。それからはもう、外で下を向いて歩くことなんて一度もなくなったわ」


美佐子は楽しそうに目を輝かせ、高野の顔を覗き込んだ。


「あんたは昔から、ちょっと人とは『困るポイント』がズレてただけ。そして、その解決策もちょっと特殊だっただけ。小さいころ、何か困ったことがあるたびに、私に『なんで? なんで?』って、狂ったようにいつも聞いてきたじゃない。学校のチャイムの音が頭に響いて痛いのはなんで? みんなが一度に喋ると頭が爆発しそうなのはなんで? って。そのたびに私、あんたの的外れに見える話を、逃げずに、よーく聞いてあげたでしょ? 忘れたの?」


高野の胸の奥が、ドクンと大きく波打った。

(ああ、そうだ。母さんは僕を拒絶していなかった。僕が『なんで?』と世界のバグを問いかけるたび、母さんはそれを『変な子』と切り捨てず、付き合ってくれていたんだ……)


美佐子の屈託のない笑顔と、泥臭くも温かい語り口が、高野のガチガチに固まっていた理性の城壁を、そして「自分は不幸な障害者だ」という歪んだ自己憐憫の殻を、内側から心地よく溶かしていく。


「自閉スペクトラム症」という、人生の終わりを示すかのような重い烙印を押されたつもりでいた高野は、母にとってはそれが、単なる「ちょっと風変わりで愛おしい我が子の、いつもの困りごと」の一つに過ぎないのだと、魂の深いところで理解した。自分のこれまでの苦しみも、必死の擬態も、母は「それなりに大変だったね」と、独自の不器用なやり方で、すべて受け止めてくれていたのだ。


「さてと! 泣いてる暇はないわよ。真依さんをこれ以上泣かせないために、お気楽美佐子ばあちゃんの子育てメソッドを、もう一度あんたの頭に叩き込んであげなきゃね」


美佐子はエプロンの紐をグッと力強く結び直し、不敵にニィッと笑ってみせた。


高野の手にある心療内科の診断書は、いつの間にか、彼を縛る絶望の呪いから、二人の未来を切り開くための「具体的な攻略本」へと、その姿を劇的に変えようとしていた。



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