第三章:見えないルールは絵に描け!渋滞した脳のほぐし方(幼児期編)
「自閉スペクトラム症、および注意欠如・多動症――いわゆる、ASDとADHDの併発、混合状態ですね」
児童精神科の狭い診察室。
医師の口から放たれた無機質な文字列が、真依の鼓膜を容赦なくすり抜けていった。
真依は、パイプ椅子の座面に指先を血の気が引くほど強く押し付け、天井の一点を見つめていた。
視界が激しく歪み、医師の声が遠い水底から響いているように錯覚する。
(どうして。どうして私の子供が。私の何が悪かったの? 育児書通りに、あんなに一生懸命、自分を削って育ててきたのに……!)
真依の隣で、三歳になる息子の裕太は、診察室の隅にある丸椅子の背もたれを狂ったように叩き続けていた。
コンコンコン、と一定のリズムで響くプラスチックの音が、真依のすり減った神経をガリガリと削っていく。
「真依、先生がお話をされているよ。裕太を止めないと」
高野の声が耳元に届いた。
その声は、かつて真依を恐怖させた「完璧な笑顔のトーン」ではなかったが、別の意味で完全に死んでいた。
高野の視線は裕太の激しい動きを追うことができず、ただ自分の膝の上でぎゅっと握りしめられた、骨張った自らの両手へと落とされていた。
「わかってる……わかってるわよ、あなた……。裕太、やめなさい。お願いだから静かにして!」
真依は叫び、裕太の小さな身体を無理やり抱きすくめた。
裕太は激しく身をよじり、真依の顎をその小さな頭で突き上げる。
ゴツン、と鈍い痛みが走り、真依の目からついに涙が溢れ出した。
家に帰っても、そこは安らぎの空間ではなかった。
かつて二人を悩ませた「溢れそうなゴミ袋」や「玄関の段ボール」の比ではない。
リビングの床は、裕太がひっくり返したおもちゃのミニカーと、引きちぎられた絵本のページで埋め尽くされていた。
突発的な行動を繰り返すADHDの特性と、独自のこだわりに固執するASDの特性。
その二つが裕太の中で激しく衝突するたび、家の中は嵐が吹き荒れたような惨状になった。
「高野くん、お願いだから次のスケジュールを教えてよ! 私、もう次に何をすればいいのか、頭がパニックで働かないの!」
真依はキッチンの床にへたり込んだまま、頭を抱えた。
高野は、壁に貼られたお手製のタイムスケジュール表の前にフリーズしたまま立ち尽くしていた。
彼の指先が、細かく、ミシミシと震えている。
「僕の予定では……18時30分に裕太の入浴、19時00分に夕食として構築されているんだ。でも、裕太が18時15分にミニカーを投げつけて僕の眼鏡を飛ばした。そのせいで15分間のタイムラグが発生し、僕の脳内シミュレーションが……すべて破綻した。次の行動を、どう選択すれば最適解になるのかが分からない……」
高野は笑顔を作る余裕すら失い、ただ両手で頭を抱えて壁に背中を預けた。
彼の心の声は、かつてないほどの自己嫌悪にまみれていた。
(僕は大人のASDとして、自分の取扱説明書を手に入れたはずだった。それなのに、我が子の予測不可能なダブルの特性の前に、僕のシステムは完全にハングアップしている。真依を支えたい。完璧な父親でありたい。誰かに『よくやっている』と認めてほしい。なのに、僕は自分の脳のパニックを抑えることすらできない、役立たずの障害者だ……!)
「もう嫌……。なんで我が家だけがこんなに地獄なのよ!」
真依の悲鳴のような泣き声が、荒れ果てたリビングに虚しく響き渡った。
数日後。限界を迎えた二人は、すがるような思いで、美佐子の待つ実家へと向かった。
裕太は実家に着くや否や、リビングの障子紙を指でブスブスと突き破り始め、お気に入りのミニカーを壁に叩きつけ始めた。
「美佐子さん……もう、私たち、限界なんです。裕太は、ASDとADHDの混合児だって言われました。高野くんの特性だけでも息が詰まりそうだったのに、この子まで……。私、母親失格です。世間のまともな家族が、本当に羨ましくて、自分が惨めでたまらないの……」
真依は美佐子の前で、ボロボロと大粒の涙を流しながら、畳に額を擦り付けんばかりに丸くなった。
彼女の胸の内には、底知れない絶望と同時に、「これだけ傷つきながら頑張っている私を、誰かに肯定してほしい」という烈しい承認欲求が渦巻いていた。
高野もまた、美佐子から視線を完全に逸らし、障子を破る裕太の背中を見つめながら、消え入りそうな声で呟いた。
「母さん。僕の脳のクセが、この子に遺伝したんだ。僕がこの家を、真依を、不幸にしている張本人なんだよ。僕には、父親としての資格なんて、一パーセントも存在しない……」
二人の引き裂かれるような自己憐憫と苦しみが、リビングの空気を重く支配する。
しかし、その絶望のド真ん中をぶち抜いたのは、やはり美佐子の、あのあっけらかんとした、遠慮のない大声だった。
「あはははは! なによ二人とも、お葬式みたいな顔しちゃって!」
美佐子は豪快に笑い飛ばすと、ズカズカと裕太の元へ歩み寄り、障子を突き破ろうとしていた小さな手を、むんずと掴んだ。
「ちょっと、美佐子さん!? 笑いごとじゃないんです、裕太は障害が二つも――」
「二つもあるなら、お買い得じゃないの! 得体が知れない宇宙人だった裕太の正体が、これでハッキリしたわけでしょ?」
美佐子は裕太の目線を真っ直ぐに捉え、ニィッと笑いかけた。
裕太は一瞬きょとんとしたが、美佐子の放つ独特のエネルギーに圧倒され、ミニカーを叩きつける手を止めた。
「あのね、真依さん。世間の『まともな家族』なんて、幻みたいなものよ。みんな見せないだけで、家の中じゃドタバタやってるの。あんたは本当によくやってるわよ。毎日本当に死に物狂いで、この二人の『偏屈男』を世間様に通じるように支えてきたんだから。私が保証する、あんたは世界一の母親よ!」
美佐子は真依の痩せた肩を、パシパシと力強く叩いた。
その荒っぽい承認の言葉が、真依の渇ききった心に、信じられないほどの温かさで染み込んでいく。
「母さん……でも、僕のタイムテーブルが……」
「あんたは黙って、私のメソッドを聞きなさい!」
美佐子は高野の言葉をピシャリと遮ると、腰に手を当てて仁王立ちになった。
「高野が小さいころ、下を向いて歩いてた話はしたわよね? 裕太のこれも全く同じ。この子は今、ASDの『こだわり』と、ADHDの『衝動』が、脳みその中で大渋滞を起こしてパニックになってるだけ。だったら、その渋滞を整理してあげる『日差し帽』を、家族総出で作ればいいじゃないの!」
美佐子は机の上から、真っ白な画用紙と太いマジックペンを引っ張り出してきた。
「いい? 純一。あんたは『予定が変わるとパニックになる』のよね。だったら、裕太の突発的な行動を『予定変更のバグ』じゃなくて、『あらかじめ組み込まれたイベント』として、あんたのタイムテーブルに最初から登録しちゃいなさい。『18時~19時:裕太のハプニングタイム(30分の予備枠含む)』ってね。そうすれば、予定通りにいかないことが、あんたの『予定通り』になるでしょ?」
高野は目を見開いた。
彼の脳内の数式に、新しい変数が組み込まれた瞬間だった。
(そうか……。ハプニングそのものをシステムに内包してしまえば、僕の論理回路はクラッシュしない……!)
「そして真依さん」
美佐子はマジックで画用紙に大きく、ミニカーの絵と、×印を描いた。
「裕太に『静かにして』って言っても、この子の脳みそには届かないの。言葉のシャワーは、この子たちにとってはただのノイズ。だから、これを見せるの。ほら、裕太」
美佐子がその画用紙を裕太の目の前にスッと差し出すと、裕太の視線がピタリと絵に固定された。
美佐子は静かに、しかしはっきりとした声で「ミニカー、おしまい。次は、お茶」と言い、湯呑みを見せた。
すると裕太は、あんなに暴れていたのが嘘のように、コトッとミニカーを床に置き、美佐子の手から湯呑みを受け取って、ゴクゴクとお茶を飲み始めたのだ。
「え……? 裕太が、言うことを聞いた……?」
真依は目を見張り、自分の口を両手で覆った。
「言葉じゃなくて、目に見える『形』にしてあげるのよ。お気楽美佐子ばあちゃんの子育てメソッドその一!『見えないルールは絵に描け、想定外は予定に組み込め』!」
美佐子は不敵に笑い、高野と真依の顔を交互に見つめた。
「さあ、純一、真依さん。これからこの家を、世界一面白い『裕太の攻略基地』にするわよ。家族総出の作戦会議の始まりさね!」
リビングを包んでいた絶望の霧が、美佐子のひまわりのような笑顔によって、鮮やかに、そして力強く払拭されていく。高野と真依は、初めてお互いの目を真っ直ぐに見つめ合い、小さく、しかし確かな一歩を踏み出すように頷いた。




