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第一章:「普通」の正論で責め立てる夫に息ができない」 (夫婦編)

はじめに

毎日、本当にお疲れ様です。この本を開いてくれたということは、あなたは今、我が子の「パニック」や「こだわり」、あるいは世間の「普通」という高い壁にぶつかり、暗闇の中で必死に出口を探しているのではないでしょうか。


「どうしてうちの子は、みんなと同じようにできないの?」


「私の育て方が悪いの?」


かつての私もそうでした。元保育士というプライドがありながら、息子の激しい多動と感覚過敏に振り回され、さらには超ロジック思考で共感ゼロの夫との板挟みになり、孤独で涙を流す毎日。



そんな我が家の地雷原に、ある日「ガハハハ!」と爆音の笑い声とともに突進してきたのが、夫の母である「美佐子ばあちゃん」でした。



ばあちゃんは、専門知識なんて1ミリもありません。

部屋の片付けはがさつだし、お茶はこぼすし、世間の育児書とは真逆のことばかり言います。

けれど、ばあちゃんが放つ「存在の絶対肯定」の言葉は、傷つき、凍りついていた私たちの心を一瞬で溶かしてくれたのです。


「脳みそのクセが違うだけさ! 世間の『普通』なんて気にしなくていいんだよ」



この本は、ASD×ADHDの息子とアスペルガーの夫に挟まれた私が、お気楽な美佐子ばあちゃんから授かった「凸凹育児を笑顔に変えるコツ」の記録です。


どうか一人で抱え込まないでください。この本を読み終える頃には、あなたの肩の荷がふっと軽くなり、「うちの子、もしかして大天才のタマゴかも?」と思えるようになっているはずです。


~「普通」を演じ続けた夫の限界と……診断の瞬間~


真依は膝の上に置いた両手を小刻みに震わせながら、ソファーの端で身を縮めていた。


視界の端に映るのは、一歩も動かない高野の背中だ。彼は部屋着のポロシャツに着替えてなお、定規で測ったように背筋をピンと伸ばし、ダイニングチェアに腰掛けている。


(……どうして、伝わらないんだろう)


真依の胸の奥で、どろりとした鉛のような疲弊が渦巻いていた。


二人の生活が始まってから、家の中は目に見えない「ルール」の地雷原と化していた。


きっかけは、いつも些細な日常の綻びだ。


例えば、キッチンのゴミ箱から溢れそうになっているプラスチックゴミ。


あるいは、通販の大きな段ボールが三つ、狭い玄関の通路を半分以上塞いでいる光景。


「高野くん、お願いだから一度、私の目を見て話して」


絞り出すような真依の声に、高野のが振り向いた。


椅子の脚が床を擦る音さえしない。


彼は瞬時に、一切の歪みもない「完璧で爽やかな笑顔」を顔面に貼り付けた。


だが、その瞳は微塵も泳ぐことなく、真依の瞳ではなく、彼女の眉間のあたりを無機質に凝視している。


そのガラス玉のような目線に、真依は肌が粟立つような孤独感を覚えた。


「見ているよ、真依。僕は君の話を聞いているよ。怒っている理由が僕には見出せないんだ」


高野の声はどこまでも明るく、トーン一つ変わらない。彼はまるでビジネスのプレゼンテーションを行うかのように、整然と両手を広げてみせた。


「怒ってない。悲しいの。どうしてゴミ袋が溢れそうになってても、段ボールの山が玄関を塞いでても、あなたには気にしないの? 私が片付けてって言っても、どうしていつも笑顔のまま無視するのよ!」


「無視はしていないよ」


高野の口角は上がったまま。


(なぜ真依はそんな風に言うんだ? 段ボールはよければ問題ないのに。何が間違っているんだ。ゴミだって収集日じゃないし、そもそも論なぜ小さなゴミ箱で運用するんだ。真依の口から発せられる『無視?』という意味が分からない、今だってこうして会話してるのに――)


「ただ、僕の予定では、ゴミ出しは火曜日の朝七時に行うタスクとして固定されている。真依が『今すぐやって』と理由がなく言われる言葉には、理解ができない。だから自分のペースでやらせてほしい、と笑顔で提案しているんだよ。君の、基準を示してくれなきゃわからないよ。」


「基準って……見ればわかるでしょう!? 溢れそうで、見栄えも悪いし、臭いも気になるから、今やってほしいの!」


「『見ればわかる』と言われても、僕には溢れる危険性があるなら小さいゴミ箱で運用している真依に原因があると思うけどな....。じゃあゴミ箱の蓋が何センチメートル以上溢れたら、という数値を設定してくれないか。そうすれば僕も理解できるよ」


真依は息が詰まった。


目の前にいる男は、本当に血の通った人間なのだろうか。


どれだけ言葉を尽くしても、彼の分厚い理性の城壁にすべての感情が跳ね返されていく。


怒鳴ってくれた方が、まだマシだった。


この非の打ち所がない笑顔のまま、淡々と正論で詰め寄られる恐怖は、真依の精神をじわじわと削り取っていく。


「もういい……。もうその顔で笑わないでよ!」


真依が立ち上がり、寝室へ駆け込んでドアを閉めると、リビングからは一切の物音が消えた。


一人残された高野は、誰もいない空間で、しばらくの間、笑顔の形のままフリーズしていた。


彼の指先が、恐怖を隠すように微かに震え、袖口の奥へと引っ込んでいく。


高野の爪が、自らの手のひらに深く食い込み、血がにじむほど強く握りしめられていた。


彼もまた、外の世界で、そして家の中で「普通」を演じ続ける限界を迎え、底なしの苦痛の沼でもがいていた。


週末、真依はすがるような思いで、大学時代からの親友である恵麻をカフェに呼び出した。


運ばれてきたカプチーノの泡をスプーンで無意味にかき回しながら、真依の目からはボロボロと涙がこぼれ落ちた。


恵麻は真依の痛々しいほどに痩せた肩を見つめ、深刻な面持ちでカップを置いた。


「……もう、限界なの。浮気をしてるとか、暴力を振るわれるとかじゃないの。家に帰ると、自分の正論が正しいと『やめて』と言ってもやめてくれないの自分の理屈をこっちの気持ちを無視して責め立てるの、息もできない。私の寂しさも、怒りも、あの人の気持ちにはじかれちゃうのよ。私、世界で一番孤独な気がする」


「真依、それさ……高野くんのそれ、ただの不器用とか生真面目ってレベルじゃない気がする。一度、ちゃんと調べてみた方がいいよ。もしかしたら高野くん、『発達障害』、その、ASDとかアスペルガー症候群って言われる特性を持ってるんじゃないかな」


「え……? 障害って……だって高野くん、お仕事は誰よりも完璧にできるし、凄く優秀なのよ?」


「仕事のルールは明確だから演じきれるの。でも、答えのない『結婚生活』になった途端に、脳のキャパがパンクしちゃう人がいるんだって。真依、このままじゃあなたが壊れちゃうよ」


「発達、障害……」


その言葉が、真依の脳裏に冷たい冷水のように突き刺さった。


家に帰り、真依は意を決して、書斎でパソコンに向かう高野の背中に声をかけた。


高野は真依の気配を察した瞬間、椅子の向きを滑らかに変え、瞬時にいつもの「満面の笑み」を貼り付けた。真依は震える手で、スマホの画面に表示された大人の発達障害を専門とするクリニックの予約ページを高野に見せた。


「高野くん、あのね……。私たちのこと、もっと良くしたいの。だから、一緒に行ってほしい場所があるの。夫婦のカウンセリングを相談できるところなんだけど……」


高野の目線が、スマホの文字へと移る。


その瞬間、彼の完璧だった笑顔の口角が、ピクリと不自然に引き攣った。


彼の瞳の奥に、これまでに見たこともないような、激しい「恐怖」と「拒絶」の色が走る。


「……カウンセリング? 僕は完璧にこなしている。病気ではない。会社の健康診断でも常にオールAだ。僕の何が異常だというんだ。僕は毎日、死ぬ気で、君の理想の夫を演じきっているのに!」


高野の声が、初めて激しく張り詰めた。


笑顔の形のまま、声だけが鋭く震えている。


その形相は、まるで自分の存在の全設計図を否定されたかのような、壮絶な魂の悲鳴だった。


だが、真依の涙ながらの懇願と、彼自身の脳内で日々繰り返される「周囲とのズレ」による過労死寸前の疲弊が、最終的に高野の頑なな足を病院へと向かわせた。


心療内科の待合室は、驚くほど静かだった。


いくつかの心理検査と、幼少期からの行動特性に関する詳細な問診を経て、医師は淡々と、しかし決定的な事実を告げた。


「自閉スペクトラム症(ASD)ですね。知能が高いために、これまでは『擬態マスキング』、つまり周囲の行動を必死に模倣することで社会に適応してきたのでしょう。しかし、結婚生活という予測不能な密室に入ったことで、そのエネルギーが枯渇してしまった状態です」


診断書に書かれた「ASD」という三文字を見つめる高野の視線は、完全に宙を彷徨っていた。


(病気ではない……。これは僕の『脳の構造』そのものの名前だ。僕が良かれと思って、死ぬ気でコピーしてきた『普通にならなければという気持ち』が、すべて偽物だったというのか)


自分のアイデンティティが足元からバラバラと崩れ落ちていくような、底知れない恐怖。


高野は、自分がこれまで生きてきた世界が、まったく別の色に変色してしまったかのような錯覚に囚われていた。


真依は、その横で彼の震える手の上にそっと自分の手を重ねた。


そこにはもう、かつての拒絶の硬直はなかった。


ただ、迷子になった子供のような無力な温もりだけがあった。


数日後の週末。


高野は一人、実家へと向かう電車に揺られていた。


実家のリビングは、彼が生まれ育った場所であるはずなのに、今の彼にはどこか異郷のように感じられた。


迎えた母親の美佐子は、いつも通り穏やかで、少し過保護な響きを持つ声で彼にお茶を淹れた。


「急にどうしたの? 真依さんとは上手くいってる?」


高野は、運ばれてきた湯呑みの縁を一心に見つめていた。


彼の目線は、母親の顔に合わせることがどうしてもできない。


指先が湯呑みの陶器のざらざらとした感触をなぞる。


脳内では、何百回もシミュレーションした「ご報告」のセリフが、ノイズ混じりのレコードのように空回りしていた。


「母さん。僕は先日、病院に行ってきたんだ」


高野の声は、いつものハキハキとしたトーンを失い、低く、掠れていた。


彼はポケットから、綺麗に四つ折りにされた診断書のコピーを取り出し、テーブルの上へ滑らせた。


美佐子が怪訝そうに眉をひそめ、老眼鏡をかけてその紙面に目を落とす。

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