第八話
アパートの扉を開けると、部屋の中は安タバコの煙の灰が充満していた。
そこにはすでにルキーノがいた。無言のままブラウン管を眺め、椅子の上で浅く腰掛けている。ローズマリーは何も言わずに横を通り抜けようとするが、彼女の纏う「日常」の微かな汗の匂いがルキーノの鼻を突いた。
「どこに行ってた」
ルキーノはブラウン管から目を離さず、低く唸るような声で言った。ローズマリーもまた、彼を見ることなく背を向けて答えた。
「……『友達』と遊んでた」
この生活にあまりにも不釣り合いな言葉に、ルキーノは肩越しに彼女の後ろ姿を見据えた。
「『友達』? そんなもん、必要ねえと教えたはずだ。余計な繋がりは俺たちの首を絞める」
「だって、この部屋には何もない」
ゆっくりと振り返るローズマリーは、無機質な空虚な瞳ではなく、静かな怒りが滲んでいた。
「学校も、遊びも、何もない私は、ただこの部屋でルキーノを待ってるだけ。つまらないよ」
「暇なら薬でも売ってろよ」
「……そんなの、『子どもじゃない』」
ルキーノは鼻で笑い、短くなったタバコをローズマリーの足元に投げ捨てた。
「『子どもじゃない』、ね。その平和ボケしたガキと遊んで、お前は『子ども』になれたのか」
「……わからない。でも、一緒にサッカーして、ゴールしたらすごいって褒めてくれた」
「へえ。そりゃよかったな。……名前は明かしてねえだろうな」
「言ってない。あの子達の名前はわかる。マッテオとレオナルド、シルヴィオ、アレッサンドロと……」
「ああ、いい。いい」
彼女の羅列する少年達の名前に、ルキーノは鬱陶しげに手を振って遮った。それから流れるテレビに目線を合わせ、灰を弾いてただ床を汚すのみだった。
「名前を知られてねえなら、別になんだっていい」
そう言ってベッドへと向かい、横になって背を向けた。
「ご飯は食べないの」
「今日は疲れた。腹も減ってねえ。お前一人で好きなもん食え。金なら俺のジャケットに入ってる」
ローズマリーが剥がれかけた壁紙に掛かった革ジャンに目を向ける。ポケットには彼が何年も使い古したような革財布が入っている。彼女は静かに壁際へと向かい、ポケットを弄った。ざらついた革の感触、今更新調する気もないと言って、そのまま忘れられたようにひび割れている。
ローズマリーはそれを自身の革ジャンのポケットに押し込んだ。ずっしりと重い、中には小銭が大量に入っているからだ。面倒だからと、紙幣ばかり使う彼の悪い癖。
重くなったジャケットを羽織り直し、ローズマリーは扉を開けて外へと踏み出した。
夜の七時は家々から漏れ出るオリーブやチーズの匂いが路地裏にまで漂っている。その匂いの中、ローズマリーは一人通りを歩いた。まばらな仕事帰りの通勤客と、レストランのテラス席でグラスをぶつける音と談笑する声。
自分が入り込む居場所のない明るいところ。
今頃、マッテオはあの両親と共に食事を囲っている頃だろうか。何を食べ、どんな言葉を掛けられているのだろう。母親の慈しむ手で、父親の大きな手で抱きしめられることもあるんだろうか。時々、初めてマッテオを見た時のように、ちょっとした反抗をして、彼らは呆れたように笑うんだろうか。
どれもローズマリーは知らない。あの血の匂いのする男から永遠に与えられることのない温もり。
やがて、彼女はいつものマーケットでサンドイッチを買った。今日と、明日の朝の分として二つ。自分のサンドイッチだけ。あの男の食べるサンドイッチはない。これは、彼女の些細な反抗。明日起きたらきっと、彼は文句を言うだろう。もしかしたら、また蹴られるかもしれない。それでも、これが彼女が出来る精一杯の反抗だった。彼が一体どんな反応をするのか……いや、きっと決まっている。
ローズマリーは漏れ出た匂いを肺に深く吸い込んで、それから再びアパートへと戻るのだった。
◇
翌朝、ローズマリーは自身のサンドイッチを淡々と食べていた。ウォークマンのカセットテープが回る音が、締め切ったカーテンの内側で反響している。しばらくしてルキーノがボクサーパンツ姿のまま、不機嫌そうな顔で起きてくる。テーブルを一瞥し、それからサンドイッチを食べるローズマリーと目を合わせる。
「俺のは?」
「ない」
「……そうかい」
それだけ。呆れて笑うことも、怒鳴ることもなかった。ルキーノは何も言わずに彼女の横を通り過ぎ、シャワー室の扉を乱暴に閉めた。
シャワーの熱い湯気が室内に充満する中、ルキーノは壁に両手をつき、熱湯をそのまま頭に被っていた。瞼の裏では、先ほどのローズマリーの冷ややかな目線がこびりついている。
自分の言うことは絶対だと叩き込んできた。感情を殺し、自分の鋭利な「ナイフ」として育ててきたはずだった。だが、彼女が見せる僅かに反抗するような態度……これが俗に言う「反抗期」という生温いものではないことは、彼自身本能的に察していた。
自分は本当の父親ではない。彼女の両親を殺し、この腐った世界への復讐として、自分と同じゴミに仕立て上げる。それが彼なりの完結させるべき物語。
だが、ナイフにしたはずの少女が、今更「子ども」としての輪郭を取り戻したがっている。
『そんなの、子どもじゃない』
昨日の声が、頭の中で何度も反芻される。
ルキーノは微かに震える手で、蛇口を力任せに回して湯を止めた。滴り続ける水滴が、床の亀裂に吸い込まれていく。
「……ああ、そうさ。お前は俺なんだ」
ひび割れた鏡を見つめる。眼窩が落ち窪み、無精髭は生えっぱなしで酷い顔をしている。そんな鏡の中の薄汚れた自分を睨みつけ、言い聞かせるように呟く。
「今更子供に戻るなんて許さねえよ、ローズマリー」
ルキーノは濡れた髪を乱暴に掻き上げると、自身の内側に僅かに芽生えた焦燥感を押し殺すように、再び部屋へと戻って行った。




