第七話
陽の光が埃っぽい部屋に差し込む昼間の時間、捌くための薬を小さなビニール袋に詰め終えると、ローズマリーはソファーに沈み込んでテレビを見つめた。
ブラウン管から流れる間の抜けた音楽が絶えず流れ続けている。動物を模したキャラクターたちが追いかけ回る、ありきたりな子供向けのカートゥーンアニメ。彼女はソファーの上で膝を抱えたまま、じっと砂嵐混じりの画面を眺めていた。
この時間、ルキーノは大抵いない。昨日も結局、彼はオッソ・ブーコは作ってくれなかった。それどころか、ろくに言葉も交わさずに彼はさっさと出掛けてしまった。それから今も帰ってきていない。彼が外で何をしているは知らないし、彼女もそれを問いただす気はなかった。
昨日から何も食べていないせいか、胃の奥がぎゅっと掴まれたような不快感が続いている。回ったままの換気扇がカラカラと音を立てて不快感を煽り、建て付けの悪いシンクからは、蛇口が絶え間なく水滴を落としていた。不規則で、それでいて神経を逆撫でする音。
ローズマリーは音から背を向けるようにソファーに横になった。目線の先では、昨夜ルキーノが転がしたままのボールがひっそりと佇んだまま。
蹴られた鳩尾の痛みはもう消えていた。
ルキーノという男は、自身の罪を分かち合うために彼女を同じ化け物へと育てた。薬の捌き方と、人の殺し方、そして他人とは極力関わるない方法。彼がなりの、歪んだ父親としての教育。
だが、あの時ほんの僅かに見せた「夢を失った男の顔」、それが、いつもの彼とは少し違ったような気がして、胸の奥に引っかかり続けていた。
だがそれも、どうでもいいことだ。
今はただ、世界に自分と水滴と換気扇、ノイズ混じりの間抜けな音楽しか存在しない底なしの静寂が重たい。
その時、腹の音が大きく耳元で響いた。
「……お腹空いた」
その独り言さえ、この湿った部屋の空気に吸い込まれ、一瞬で消えていった。
◇
サンドイッチを買いにマーケットへ向かう道中、ローズマリーはフードを目深に被り、地面を見つめたまま歩き続けた。ポケットの中では、歩調に合わせて釣り銭がかちゃかちゃと虚しい音を立てている。
遠くで響くクラクションや汽笛の音が聞こえるが、平日のためか昼間でも通りは閑散としていた。
夕方になれば、きっとルキーノは帰ってくる。それまでの時間は退屈で彼女にとっての空白の時間だ。学校へも行かず、外であの少年たちのように遊ぶこともない彼女にとって、待つことは呼吸をするのと同じくらい当たり前の日常だった。
アパートへの階段に腰を下ろし、青臭いサンドイッチを頬張る。
味気ない、いつもの味。時折たまごの殻が混じって、砂利を噛むような音が口の中で響く。
だが、この時間だけは穏やかだ。あの湿った匂いから解き放たれ、世界の端っこに腰掛けているような錯覚。そんなことはあり得ないことは理解しているが、それでもフェンス越しの空き地をぼんやりと眺め、細かくなった殻を飲み込んだ。
数時間を過ごした頃、早帰りの少年達が集まり始めた。
七人の少年達が二手に別れ、一人がボールを蹴り出してすぐさま試合が始まる。誰かがスプレーで書いたであろう粗末なゴールに向かって、彼らは声を上げながらボールを追い続ける。ローズマリーは目線だけを動かし、無秩序な熱狂を追い続けた。
手を挙げた少年にボールが渡り、その少年を追って別の少年達がボールを奪い取る。ボールは右へ左へと行き来している。統率が取れているようで、未だ辿々しいやり取り。そこには、ローズマリーの知らない「体温」が、「日常」が渦巻いている。
だが突然少年の一人が、微動だにしない彼女の様子に気味がり、意図せずボールがローズマリーの目の前のフェンスにぶつかった。
「何やってんだよー!」
「なんかあの子怖いよ! おばけみたいだ」
少年がローズマリーを指差して叫ぶ。一人の少年が駆け寄り、ボールを拾い上げながらローズマリーの無機質な瞳を見つめ返した。
「……ごめん、邪魔なら帰るよ」
「いや、いいよ。もし嫌じゃなかったらさ、一緒にやらない? 僕らのチーム、一人足りないんだ」
ローズマリーは少年の目を見つめ返した。同じ年頃の少年、でも纏っている空気は自分とは決定的に違っているとわかっている。なんと答えればよいのか、答えかねていた。だが彼らと自分の何が違うのか、それを確かめるための好奇心が彼女の重い腰を上げさせた。
「……じゃあ、私もチームに入れて」
ローズマリーはコート中央に立ち、ボールを見つめた。
「私、ルールわからない」
「あの四角いゴールにボールを当てればいいんだよ」
少年が指差した先のゴールと、使い古されたボールを交互に見つめる。やがてルキーノの足捌きを思い出しながら、それを模倣するように蹴り出した。
ボールは始め、上手くまっすぐ行かなかったが、数分もすれば彼女の動きは少年達を凌駕し始めた。ルキーノの鏡合わせのような華麗な足捌き。立ち塞がる少年をドリブルで躱し、キーパーの少年が怯えた隙にボールを思い切りゴールへと蹴り当てた。
「Evviva!! 上手いじゃん!」
「おい、レオナルド! ボール避けてどうすんだよ!」
少年たちの歓声と落胆の声が入り混じる中、ローズマリーを誘った少年は駆け寄り、彼女の肩を叩いた。彼女を「お化け」と呼んだ少年も笑顔で声を掛けている。
「あれで、よかった?」
「最高だよ! 本当に初めて?」
驚きの顔で笑いながらも、叩かれた肩を軽く押さえるとローズマリーは再びボールを蹴り出した。
ボールが壁を跳ねる音と、少年たちの歓声は夕方まで続いた。やがて日が暮れ、空が薄紫に染まってフェンスの影が伸びる頃、彼らの親たちがやってくる。
「マッテオー、帰るわよ!」
「マンマ、わかってるー! じゃ、またやろうな」
肩を叩き、マッテオと呼ばれた少年は母親の手を引いて帰っていった。
残されたのはローズマリーだけだった。
去り行く少年とその両親の背中を見送る。母親がマッテオの頬の泥を指で拭い、父親はその大きな手で彼の頭を優しく撫でていた。
ローズマリーは自分の手を軽く頭の上に乗せてみた。ただ冷たく、硬いだけだった。慈しみの匂いも、守られているという安らぎもそこにはない。
彼女はゆっくりと手を下ろし、踵を返してアパートへの薄闇の中を、ただ石畳を見つめて歩く。
帰るべき場所には、きっともうすぐ血の匂いのするあの男が帰ってくるはずだから。




