第六話
ミラノ郊外、看板すらもない薄汚れたバールから、少し進んだ先のファマゴスタ通り。その通りを、ルキーノは上着のポケットに手を入れ、忌々しげにタバコを咥えながら歩いていた。すれ違う通行人に肩が当たるのも気にせず、眉を顰めて周囲を威圧するように見ている。
ポケットの中には剥き出しの札束が入っている。それを、ルキーノは指が白く強張るほどに強く握りしめていた。ざらついた紙幣が、湿った手のひら貼り付いては何度も握り直している。彼の耳の奥では、未だ耳障りな声が響いていた。
『お前の連れ子、ローズマリーって言ったか? もう十になるんだろ。手癖も体つきも悪くねえ。そこらの娼館に出すか、お偉い方の高級娼婦にでも育てろよ。殺しより、そっちの方がよっぽど稼げるぜ』
ルキーノはその言葉に、グラスを手にしたまま一瞬動きを止めた。だが、テーブルに鎮座する重い札束を見て、すぐに自嘲気味に笑った。そして、グラスの酒を一気に飲み干し、札束を鷲掴みにした。
『……考えとくよ。あいつには、まだ俺のナイフを研いでもらわなきゃならないんでね』
下卑た笑みを湛える幹部の前に数枚のリラ札を放り投げ、逃げるようにしてバールを出て行ったのだった。
通りを歩き出したルキーノの顔には、言いようもない不快感が滲んでいた。あの男が吸っていた不愉快な葉巻きの香りのせいではない。
「……」
ルキーノはその不快感を安タバコの煙とともに吸い込み、通りの往来が怪訝な顔をするのも構わずに深く吐き出した。短くなったタバコを捨てながらもう一本を手に取るが、苛立ちを含んだ指先がわずかに震えて石畳へと落としてしまった。やがて細長く小さなそれは、路傍に溜まった生活排水の泥へと転がっていき、すぐに茶色く変色していった。使い物にならなくなった茶色いタバコを見つめ、大きな舌打ちを鳴らした。
ふと目を上げると、目の前には一軒の雑貨屋があった。
薄汚れて曇ったショーウィンドウ。長いこと放置されたように佇む人形や場違いなほど派手なフレームの中、一つのサッカーボールが置いてあった。埃を被り、蹴られることもなくただそこで待っている。
ルキーノはしばらく、薄汚れたガラスに映った自分を見つめると、店の鈴を鳴らした。
◇
ローズマリーはアパートのソファーの上、ルキーノに蹴られた鳩尾を軽く押さえながらヘッドホンをしている。ぼんやりと窓を眺め、耳から漏れ出るイタリアンポップの軽快な音が静寂の部屋にわずかに響いていた。
帰ってきた同居人の姿を見ることもない彼女の横顔を、ルキーノはしばらく見つめていたが、袋に入ったサッカーボールを彼女の足元へ向かって転がした。ローズマリーは突然視界の端に飛び込んできたボールの行方を追い、彼女は手に取って振り返る。
「……どうしたの、これ」
「金が余ったんだ。いらねえなら捨てろ」
ローズマリーは黙ってボールを手に取り、ルキーノの顔と交互に見つめた。その瞳には、ルキーノへの反抗的な拒絶と、今朝の暴力に対する底知れない冷たさの余韻がまだ残っていた。
彼女は静かに表面を指でなぞってみる。昨夜、自分が焼き尽くした家の庭にあった、あの白く輝くボールとは似ても似つかない安物の革の感触。
だが、彼女はボールをそっと床へ置き、爪先で軽く蹴った。
ルキーノは右足の甲でぴたりと受け止める。そして、軽く踏むようにして蹴り上ると一度、二度とリフティングをしてみせた。意外なほど軽やかで、鮮やかな足捌きにローズマリーは目を見開いた。
「ルキーノ……サッカー、出来るの」
「ガキの頃はこれだけが救いだった。セリエAのスターになって、このクソみたいな生活から這い上がるんだって、本気で信じてた時期もあっただけだ」
ルキーノは自嘲気味に笑い、ボールをローズマリーの胸元へと優しく蹴り上げた。彼女は両手で受け止めると、微かに柔らかく笑った。
狭く薄暗い蛍光灯の部屋、安タバコと湿った血の匂い。その中で、白と黒のボールが、二人の間を細い糸で縫うように往復している。
「……じゃあ、なんで殺しなんてしてるの?」
「俺の足が最初に覚えたのはボールの蹴り方じゃなく、クソ野郎の頭の蹴り方だった。それだけのことだ」
ルキーノは片手でタバコを咥え直しながら、往復するボールの行方を追っている。そのボールが窓からの夕陽の残光を受け、長い影を作っていた。
ローズマリーはルキーノの横顔を覗き見る。目線を落とす彼の顔は、冷徹な殺人者の顔ではなく、今や「夢を失った男」の顔のように思えた。
「ルキーノ」
「なんだ」
「……オッソ・ブーコ作って。私、お腹空いた」
ローズマリーはボールを脇に抱え、まだ痛む鳩尾を摩りながら呟いた。
彼への不信感や反抗心は未だ消えていない。全てを諦めたような顔で、自分をゴミと呼び、自身すらもそう呼んだ言葉も。
それでも、ローズマリーはこの狭い部屋で彼が作る不味くて塩辛い料理を食べる時間を、壊したくないと願ってしまった。




