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第五話

 月が皓々と照らす深夜一時半を過ぎたミラノ郊外。

 近隣の家々の窓から漏れ出る淡い灯りが視界の端で揺れる中、二人は一軒の邸宅を路地裏の闇から見つめていた。

 時折、近隣のカーテンの隙間から人影が見えるが、やがて明かりが消されて通りが完全な闇に包まれた時、数分の間を置いて二人は家へと向かった。

 裏口の鍵をルキーノが針金の形を器用に変えて弄る。かちゃりという小気味良い音が響き、扉が慎重に開けられた。ローズマリーは辺りを警戒しながら、闇の中で動く物がないか目を凝らす。

 ルキーノに続いて扉へと侵入する直前、ローズマリーの視界の端に庭の光景が映り込んだ。土埃のこびりついたサッカーボールと古びた小さな三輪車。持ち手には蜘蛛の巣が張り、主の成長とともに長いことその役割を終えていたようだった。

 ローズマリーは振り払うように庭から目を逸らし、ルキーノに続いて室内へと侵入した。


 標的の寝ている寝室は二階、一段ずつ、足音を殺して階段を昇り、扉の前で無言のまま二人は目線を交わしてドアノブを開けた。

 中にいたのは、キングサイズのベッドで寄り添うように眠る男とその妻であった。二人はそれぞれ枕元に立ち、音もなくナイフを喉元に添えると、一気に横へと引き抜いた。迷いなく、深く、鋭く。

 彼らはすぐに目を開くが、言葉はすでに失われていた。部屋に響くのは、気管の奥で泡を立てる湿った音のみ。

 ルキーノは二人が事切れるのを見送ることさえせず、ライターの火をリネンカーテンにつけた。ぱちばちと不吉な音を立て、ゆっくりと黄金色の火が部屋を侵食していく。


「終わりだ、行くぞ」

「うん」


 巻き込まれぬよう足早に部屋を出て、ルキーノの背を追いかけるように階段を降りる時、ローズマリーは後ろに微かな気配を感じた。

 振り返ると、暗がりに一人の少年が立っていた。

 その少年は、あの日フェンスの向こう側でサッカーボールを蹴っていた少年だった。少し皺のついた青いパジャマの裾を握り、暗闇の中、呆然とした瞳でじっとローズマリーを見つめている。

 その瞳に宿っているのは恐怖よりも、崩れゆく日常への理解を拒むような深い虚無だった。

 静寂の中、彼らの視線が交差する。

 彼はやがて、火の手が上がり始めた部屋へ弾かれたように駆け出した。


「マンマ! パパー!」


 悲痛な叫び声が飲み込まれゆく部屋を、ローズマリーはしばらく見つめていた。だが、ルキーノの急かす声でようやく視線を外し、少年の声を背に受け、二人は足早に路地裏へと帰った。


 ドブネズミの這う路地裏で、二人は燃えゆく家を静かに眺めた。

 崩れていく建物の轟音に掻き消され、少年の叫び声はもう聞こえなかった。その代わり、近隣の住民が通報したであろう遠くからの甲高いサイレンの音が静かな夜を裂き始めていた。

 真っ暗闇の中、ローズマリーの瞳には全てを飲み込んでいく劫火が映っていた。

 火は二階から全体へ広がり、庭に整然と並んだ花々やオリーブの木を飲み込んでいく。

 あの火の粉の中、二度と使われることのない小さな三輪車も、明日を待っていたサッカーボールも、等しく灰に変わってゆく頃だろう。

 一つの家族の歴史が燃え落ちる焦げ臭い匂いの中、隣のルキーノから漂うエム・エッセの安っぽい煙と、路地裏の湿った泥濘の匂いだけがやけに鼻に突いていた。



 翌日の九時、二人はカビ臭い安アパートの一室で、ローズマリーが買ってきたサンドウィッチを手にブラウン管を眺めていた。

 画面には、速報として昨夜二人が火を放った邸宅の残骸が流れている。白黒のノイズ混じりの画面には、笑顔の判事一家の家族写真と燃え盛る家の映像が交互に映し出され、失われた幸福を無機質な音声で報じていた。

 焼け尽きた瓦礫に混じり、あの小さな三輪車が無惨な姿で横たわっている。


「どうして、殺さなきゃいけなかったの。子どももいたのに」


 ローズマリーは咀嚼していたサンドウィッチの新鮮なトマトの青臭さに、あの少年達の清涼な汗の匂いが混じった気がして、思わず目を落とした。


「俺たちが殺したのは正義の味方なんかじゃねえ。あいつも、利権を守ろうとして裏切った汚い役人の一人だったのさ」


 興味なげにルキーノはジッポライターをカチカチと弄りながら、無言のまま流れるニュースを見つめていた。


「俺たちはただ、上の命令に従ってりゃいいんだ。金さえあればなんとかなる」

「お金って、そんなに大事なの」

「少なくとも俺にとってはな。タバコも酒も買える。ガキのお前でも、金さえあれば好きなサッカーボールがいくらでも買えるだろ」


「でも……子どもは、殺したくない」


 ジッポライターの閉まる音が大きく響いた。

 その言葉にルキーノは立ち上がり、ローズマリーの見上げた瞳を冷たく見下ろした。手にしたジッポをポケットにしまいながら、彼女の鳩尾を力任せに蹴り上げる。

 突然の鈍い衝撃に、ローズマリーはソファーから床に転げ落ち、肺の中の空気を全て吐き出した。


「甘ったれんな。なら、お前が数日前に殺した薬中のクソッタレはなんだ? 子どもじゃねえから殺したってのか? そんなガキの理屈、この国じゃ通用しねえんだよ」

「そんなこと……子どもは……ただ、守られてるだけだから」


 胃から迫り上がる苦い胃液を飲み込み、震える声で絞り出す。その言葉は、自分を育てたルキーノへの無意識の拒絶のように響いた。


「守られてる? 笑わせんな。あいつらは、親が積み上げた金の上で座ってるだけだ。もし、見逃したガキが将来警察にでもなったら? 大人になりゃ殺すのか? 大体、通報されてモンタージュを作られたらどうする。お前が言ってるのは、自分だけが気持ちよくなりてえだけの、ガキの我儘だ」


 ルキーノは氷のように冷たい瞳を向けたまま、覗き込むようにして屈んだ。


「俺たちは、政府上層部と不戦条約を結んだマフィアの末端……いや、それ以下のドブネズミだ。政府が公に出来ないゴミ拾いを任されてるだけなんだよ。ドブネズミが生きるためにやることはなんだ? 綺麗な餌を選り好みすることか? 違う。汚ねえ泥の中を這い回って、上が食い残した骨を奪い合うしかねえんだよ」


 ルキーノは灰を弾き、その手に持ったままブラウン管に映される正義の判事に賛辞を送る政府役人を指差した。


「見ろ。あいつらは上等な服を着て、綺麗な言葉で俺たちを裁く。だが、その裏で俺たちにナイフを握らせてるのはあいつら自身だ。……ローズマリー、この世界に守られるべき無垢な存在なんてのは存在しねえ。あるのは守る金がある奴と、奪われるだけのゴミだ」


 ローズマリーはその無機質な目に、僅かに抵抗するような炎を宿らせた。


「じゃあ……私もただのゴミなの?」


 彼が自分を拾ったのは他でもない、道具としての利用価値を見出すため。だが、今目の前のルキーノから放たれる言葉は、そんな思想も人生さえも踏み躙る言葉ばかりだった。


「……ああ。俺も、お前もな」


 全てを諦めたようなルキーノの青い瞳は、安タバコの白い煙に隠れた。外から差し込む淡い光線が、二人の間を割くように、舞い上がった埃を白々しく輝かせていた。

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