第四話
カーテンの隙間から差し込む朝陽が、網膜を灼くほどに白く、ローズマリーの脳内を強引に覚醒させる。
ベッドでは、ボクサーパンツ姿のルキーノが、殺人者とは思えぬほど穏やかな寝息を立てていた。
ローズマリーは一度伸びをし、音を立てぬようベッドサイドへと歩み寄る。サイドテーブルには、鉄錆のように血がこびりついたナイフが無造作に置かれていた。
鈍く反射するナイフの刃を見つめ、ローズマリーは吸い寄せられるように柄を握る。そして、寝息を立てるルキーノの無精髭の残る喉元、数ミリのところまでナイフを近付け、ゆっくりと下ろしていった。
このまま手首を横へ引けば、簡単に血が吹き出し、この歪な生活は永遠に幕を閉じるだろう。
だが、安らかに上下に揺れる胸板と、無防備に閉じられた瞼が、茶色い瞳を惹きつけ、視線を逸らすことを許さなかった。
ローズマリーは吐息さえも殺し、そっとナイフを元に戻した。
ポケットからウォークマンを取り出し、ヘッドホンを耳へと押し込む。それからカーテンを力任せに引き、その剥き出しの太陽光にルキーノの全身を晒した。
「起きて。朝だよ」
「眩しいな……何だよ」
ルキーノは不機嫌そうに舌打ちし、自身を見下ろすローズマリーを、細めた青い瞳で睨みつけた。
「今日は、ボスに会うんでしょ」
その言葉に、ルキーノのエム・エッセの箱をこじ開ける指が一瞬止まった。彼は忌々しげに顔を歪め、大きなため息をついた。
「めんどくせえこと思い出させやがって。このまま寝ちまえば、今頃ボスだって俺のことなんか忘れてただろうに」
安タバコのきつい香りが部屋に充満し、白い光線が灰色の煙を幾重にも切り裂く。
ローズマリーは、その煙の行方をゆっくりと追った。薄汚れたシンクへと流れていく白煙の先で、染みのついた昨夜のスープ皿を見つける。彼女はルキーノと同じ、深く大きなため息を吐き出した。
◇
ミラノ郊外にある錆びた看板のぶら下がるバールの前で、ローズマリーは一人通りを眺めていた。
店の中では、ルキーノが所属する組織のボスと会合している。自分が連れて来られたということは、裏切り者の掃除か、あるいは大規模な薬物の運搬が控えているということだろうか。
不意に、視界の端で青い色彩が過ぎった。アズーリを纏い、大きなトリコローレの旗を羽織った人々が、弾けるような笑顔で通り過ぎていく。今日はきっと、サン・シーロで大きな試合でもあるのだろう。
子どもも、大人も、誰もが勝利を確信したように笑っている。
ローズマリーはその光景を振り払うように、ウォークマンのボリュームを上げた。
軽快なイタリアンポップが脳内に充満し、街の幸福な雑音が遠くへ追いやられていく。
その時、扉が歪な音を立ててルキーノが姿を現した。
ローズマリーは弾かれたように振り返り、その不機嫌そうな顔を見つめる。
「……何だよ」
「別に」
会話はそれだけだった。ルキーノが通りへ向かって歩みを進めると、ローズマリーも影のようにその後を追う。
何を話し、何を請け負ったのか。何も話すことはない。安タバコの灰色の霧の中へ、その横顔を隠すだけ。
染みの付いた白いTシャツを着て、タバコの灰を路傍に吐き捨てる。肩で風を切るように歩くルキーノの姿を、通りの着飾った人々は訝しげに眺め、目を合わせぬよう慌てて視線を逸らして歩く。
やがて二人は一軒のトラットリアへと辿り着いた。足を踏み入れ、ルキーノは店員の返答を待たずにテラス席へと深く腰を下ろした。向かいに座るローズマリーの姿を、ルキーノは煙の中から見つめた。
「好きなの食えよ」
「お金あるの」
「ボスから前払いでふんだくったからな。贅沢は今日だけだ」
メニューを投げ捨てるようにローズマリーへ渡し、灰皿をリズミカルに叩いてはテーブルを僅かに汚していた。
パスタやリゾットの名前が整然と並ぶメニューを、ローズマリーはじっと見つめる。どれも彼女にとっては想像のつかない未知の味だった。だがその名前の羅列の中、一つだけよく知ったものがあった。
「これにする」
「昨日食ったばっかだろ。俺の料理と食べ比べる気か? 嫌なガキだ」
ルキーノはぶっきらぼうに店員を呼び止めると、コトレッタとオッソ・ブーコ、アマローネ、それからタルトを注文した。
タバコの苦い匂いとチーズの香りが、街の排気ガスと混ざって、建物の隙間から吹き込む風に流れていく。その風の中に、湿った泥のような、カビのような匂いが混ざっている気がして、ローズマリーはブカブカの革ジャンを羽織り直した。そして、フードを目深に被って通り過ぎる人々を目で追っていく。
ミラノの中心街から少しも離れていないこの通りでは、往来を行く人々はハイブランドに身を包んでいる。長かった鉛の時代を乗り越え、空前の好景気に沸くこの国は、明日への希望に浮き足立っている。
だが、その煌びやかな空気の中に、自分たちの居場所はない。
ローズマリーは目を逸らし、建物の隙間に潜む暗い路地裏を見つめた。この華やかさの裏で、時代に取り残された吹き溜まりのような場所が存在する。それが自分たちが生きる場所。
ウォークマンのボリュームを僅かに下げ、静かに目を閉じた。
「……今回の仕事、今夜中に済ませるぞ」
現実に引き戻すように、ルキーノの声がローズマリーの思考を手繰り寄せた。
「汚職の役人だと。終わったら家ごと燃やして、証拠も、そいつが見つけた物も全て消す。終われば倍の報酬を支払うとよ」
ローズマリーは肯定も否定もせず、ただ黙ったまま顔を上げた。ルキーノは相変わらず無表情のまま、ライターの火打石を指で弾かせている。
「……ねえ。お金がいっぱいあったら、ルキーノは何がしたい?」
ローズマリーの茶色い瞳が、ルキーノの瞳を真っ直ぐに射抜いた。灰を弾く指が、一瞬動きを止めた。
「とりあえず、このクソみたいな国から出るだろうな」
「そのあとは?」
「家だろ、車だろ、あとはいい女とか、色々だ」
「それだけ?」
「あ? それだけって……あとは服とか、家とか、いや、家はもう言ったな……ああ、めんどくせえ、何なんだよ。だったらお前は何が欲しいんだ」
「私は……」
ローズマリーは、遠くへ消えていくアズーリの青を思い出しながら、静かに口を開いた。
「私は……サッカーボールが欲しい」
「はあ? 何だそれ。金がなくても買えるだろ」
ルキーノは鼻で笑い、やってきたコトレッタを無造作に口に運んだ。やがて彼は、懐に入った茶封筒から数枚のリラ札をテーブルに叩きつけるように置き、二人はトラットリアを後にした。




