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第三話

 一九八九年、ミラノ。

 小さな肩を隠すほどブカブカの、使い古された革ジャンを羽織る少女が一人、夕闇の街を歩いている。

 ポケットの中で絶えず指先を動かし、バラになった薬物の袋と、ざらついたリラ札の感触を確かめながら歩くのが彼女の癖だった。髪は肩につく前に鏡も見ずにナイフでざっくばらんに切られたのだろう。不揃いな毛先が歩くたびに首筋を刺激する。少女はその不快感を振り払うように時折首を掻きむしり、正面から近付く男に無機質な目線を向けた。

 少女は掠れた声で値段のみを告げた。男は鼻を鳴らし、丸められた紙幣を少女へ押し付ける。目を落とし、素早く紙幣を指で弾く。だが、明らかに少なかった。


「ねえ、少ないよ」

「よく見ろ、合ってんだろ。大体そんな安物のヤクで金貰おうなんざ、ガキが百年早えんだよ」


 男は侮辱の言葉と共に路傍に唾を吐き、背を向けた。少女は歩き去るその背中を見つめた。瞬きもせず、ただじっと。


 薄暗い路地裏の吹き溜まりで、男は手に入れた薬物を紙の上で器用に縦一文字に揃えている。期待に鼻を鳴らし、丸めたリラ札を鼻に当てて白い粉へと近付いた。

 だが、それを吸い込もうとした直後、視界が暗転した。背後から忍び寄った影が、男の目を完全に遮ったからだ。男が驚愕の声を上げるより早く、喉元の頸動脈を正確に、果物ナイフの冷たい刃が横一文字に切り裂いた。鮮血が飛び散って、足元に散った白い粉の上にドス黒い紋様を描き出した。


「てめえ、クソガキが……」


 振り返り、男は自分を殺した少女の顔を仰ぎ見る。震える手を伸ばすが、力無く虚空に手を下ろし、自ら粉を隠すように倒れ込んだ。


「ごめん、よく聞こえなかった」


 少女はウォークマンを片方だけずらし、無機質な声で答えた。そのまま、まだ温かい男の懐を漁り、本来受け取るはずだった残りの金を抜き取った。


 ルキーノから教わった殺し、薬物の捌き方、すべてをあの男の鏡合わせのように模倣する少女。彼女は、殺された母親が最期に作った料理から香っていた、あのハーブの名を冠したかつての赤子。


 果物ナイフに付着した血を男のシャツで乱暴に拭うと、ローズマリーはアパートへの路地を辿る。ルキーノから言い渡された分を全て売り払った頃には、ミラノの街並みは薄紫色に染まっていた。

 煌びやかなブティックが並ぶ大通りを避け、剥がれかけたW杯のポスターと、卑猥な落書きが放置された裏路地へ足を踏み入れる。その直前、フェンスで囲まれた空き地の中で、ボールを蹴る少年達の笑い声が響いた。

 イタリア代表のアズーリを誇らしげに着込み、上等なスポーツシューズで土煙を跳ね上げている。

 ローズマリーは足を止め、ただじっと、彼らのボールの行方を追っていた。

 やがてボールは通りに逸れ、大人たちの怒鳴り声と少年達の「逃げろ!」という無邪気な笑い声が夕闇に溶けていく。彼らは一陣の風のように、ローズマリーの目の前を走り去っていった。

 少年達が過ぎ去った後の風は、微かな汗の匂いが残っていた。ルキーノ達の放つ、あの湿った汗や死の匂いとは違う。清涼で、血の匂いを知らぬ、誰かに守られた自由の香り。

 ローズマリーはその匂いを一度だけ吸い込み、すぐに吐き出した。そして無表情のまま、光も届かぬ裏路地の闇へと消えていくのだった。



 テーブルには、使い古されたオッソ・ブーコの入った鍋と、指紋の付いたワイングラス、洗い残しのこびりついた白い皿が二つ、所在なげに並んでいる。

 鍋のまま置かれた料理からは、アルコールの飛び切っていない、きつい赤ワインの匂いが漂っていた。

 ルキーノは無造作に仔牛の肉の塊を皿に盛り付けると、ローズマリーの前へと乱暴に差し出す。


「……薬はどうした」

「全部捌いたよ。文句言ってきた奴がいたけど、ルキーノが言った通りに殺した」


 ルキーノは彼女の返答に満足そうに鼻を鳴らすと、受け取ったリラ札の束を手慣れた手つきで弾いた。ローズマリーはその指の動きを盗み見てから、フォークを幼児のように握りしめた。大きな口を開いて肉を掻き込む。

 金をポケットに押し込んだルキーノは、獣のように喰らう少女の姿に目を細め、腰元のナイフを抜いてテーブルに突き立てた。


「お行儀が悪いんじゃねえか。同じことを言わせるな。次は、このテーブルがお前の心臓になる」

「……わかった」


 ローズマリーは木目に浅く突き刺さるナイフを一瞥し、フォークを握り直した。

 静まり返った部屋に、陶磁と金属の当たる甲高い音が神経を逆撫でするように響く。その中に、どこかの部屋から漏れ出ている母親の呼ぶ声が混ざった。


「ねえ。どうして、私には母親がいないの」


 ローズマリーは呼吸をするように静かに問いかけた。彼女の頭には、ボールを蹴る少年たちの笑い声と清涼な汗の匂いが過ぎっていた。


「お前の母親は俺が殺した」


 目の前の食事を咀嚼するように、当然の如くルキーノは一度足りとも彼女の目を見ることなく答えた。

 だが、ローズマリーは特段驚きはしなかった。

 物心ついた時から、自身が他の子供とは決定的に違うことは理解していた。ルキーノが繰り返す殺しと情事、鉄錆と死の匂い。その中で育った彼女にとって、ルキーノが本当の父親でないことも、彼が両親の命を奪った張本人であることも、想像に難くない、当たり前の日常の一部だった。

 癖っ毛で脂ぎった黒髪、常に誰かを睨みつけるように吊り上がった青い瞳のルキーノ。対して自分は、ストレートの茶髪に、無気力に垂れ下がった茶色の瞳。鏡を見るまでもなく、自分たちは何一つ似ていなかった。

 だから、ルキーノが本当の父親でないことも、両親が彼によって殺されていたことも、それは特段の驚きはなかった。


「そうなんだ」


 一言だけ返し、ローズマリーは再び肉を口に運んだ。


「知ってたかのような口振りだな」

「知らない。けど、そうだろうなって」


 赤黒いスープに映る、自身の無気力な顔を見つめように目を落とすローズマリー。その姿を、ルキーノは真っ赤なワインをグラスに注ぎながら上目に見据えた。


「お前、最近俺に似てきたな」

「……それは嫌だな」

「反抗期か? お前をここまで育ててやった恩くらいは、感じてほしいね」


 ルキーノは吸い殻を自身の食べ残した汁の中に投げ捨て、ナイフを引き抜いた。その手に持ったままローズマリーの頭を乱暴に撫でる。

 その手の温もりも、ローズマリーの心には何の感情も湧かない。

 彼の行動には意味などない。殺しも盗みも、自分を生かしたことも。彼の犯した罪は衝動以外の理由はなかった。全ては気まぐれか、あるいは将来の道具としての投資に過ぎない。

 ローズマリーは乱れた髪を手櫛で梳き、鍋からもう一杯のスープを掬った。

 このオッソ・ブーコは、彼の作る唯一の料理だ。年に数回、彼の気が向いた時だけ作る、自分にとっての家庭の味。殺人者の作るこの匂いだけが、ローズマリーをこの場所に留める唯一の鎖だった。

 スープを飲み込んだ時、ベッドの上で横になろうとするルキーノが口を開いた。


「……そういえば、ボスがカラブリアの連中と手を握ったらしい」

「カラブリアって」

「南の田舎者いなかもんだ。麻薬のルートを差し出す代わりに、資金洗浄のシステムを借りるんだと。そっちの方が儲かるらしい」


 ローズマリーはベッドを盗み見ながら、退屈そうにスープの中に残った仔牛の骨を弄っている。


「……もしそいつらが来たら、殺してもいいの」


 ルキーノは、その茶色い瞳を見つめ返した。

 そこに、かつての赤子のような無垢な光はない。無機質で、ルキーノ自身の殺意と暴力性を磨き上げた鏡のような暗い瞳。

 やがて視線を逸らし、天井の闇を見つめた。


「好きにしろ。だが、俺より先に死ぬなよ。……俺にはまだ、弾除けが必要だからな」


 サイドテーブルに置いたワインを喉に流し込み、ルキーノはそのまま眠りについた。

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