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第二話

 街灯の灯りさえも届かない、腐った運河の匂いの染み付いた薄暗い路地裏。

 男は夜行列車の貨物室に忍び込み、預かり荷物の洋服を適当に赤子に巻きつけ、ローマの闇からミラノのネオンの中へと逃げていた。

 血を吸って重くなった革ジャンの懐に赤子を捩じ込み、男は獣のような足取りでミラノの場末の娼館へと滑り込んだ。忘れ去られたようなボロアパートは、キツい香水と湿ったカビ、そして排気ガスの匂いが混ぜこぜになった吹き溜まりだった。


 男は無人のカウンターを一瞥すると、置かれていた錆びた真鍮の鍵を引ったくった。軋む階段を一段飛ばしで駆け上がり、そして、扉を蹴破るようにして開けた。

 部屋には、胸元を大きく開けた薄汚れた安物のドレスの女が、退屈そうにタバコの煙を燻らせている。男は挨拶代わりに、赤子をベッドへと放り投げるように押し付けた。


「そいつをどうにかしろ。でなけりゃ喉元を掻き切ってやる」


 訝しげに赤子と男を見つめる女を無視し、男はテーブルの上の飲み残しの安ワインを一気に喉へと流し込んだ。それから、女のエム・エッセの箱を乱暴に指でこじ開け、無造作に一本を咥える。煙を深く肺に溜め込むことだけが、痛みを逸らす唯一の鎮痛剤であるように。

 女は震える手で赤子を抱き上げたが、すぐに高い声を上げて泣き出した。女の香水か、それともまともな人間の温もりが気に食わなかったのか。不器用にあやす女の腕の中で、赤子は狂ったように身を捩り、泣き止むことはない。

 男は苛立たしげに紫煙を吐き捨てると、女の頬を乾いた音とともに平手で叩き捨てた。


「どけ。役立たずが」


 突き飛ばされた女の腕から、赤子を奪い取る。

 すると、赤子は嘘のように沈黙した。目を開け、冷徹な殺人者の瞳をじっと見つめ返す。そして、男の血で濡れた革ジャンの奥、その激しい鼓動に耳を澄ませるように深い眠りについた。


 無骨な殺人者の腕に抱かれ、死の匂いの中で目を閉じる赤子。

 その異様な姿はマリアの救済ではなく、共犯の契りのように思えた。

 腫れ出した頬を押さえ、床に這いつくばったままその不気味な二人の姿を見つめ、女は静かに十字を切った。



 カビ臭い安アパートのソファー、その上で少女は膝を抱え、男がどこからか仕入れたウォークマンを耳に掛け、じっと壁を見つめている。赤子は五歳の少女へと変わっていた。

 壁に映る男の影が激しく動くたび、イヤホンから漏れる軽快なイタリアンポップの裏で、耳障りな女の嬌声が上がる。女が絶叫を上げる間際、男は忌々しげに眉間に皺を寄せると、サイドテーブルのナイフを逆手に取り、迷いなく女の喉元を掻き切った。

 気管へ逆流した血が、口腔内で沸騰するように泡を立て、やがては籠った唸り声と共に沈黙が訪れた。

 男は血の滴るナイフを床に放り捨て、無造作にボクサーパンツを履く。

 タバコを咥え、ライターを指の腹で押し込み一度、二度と火花を散らす。その一連の動作を盗み見るように、少女はゆっくりと茶色い瞳を動かして追った。ヘッドホンを片方だけずらし、ちりちりと燃える音だけが響く部屋に声を落とす。


「サビのドラムと合ってなかった。次は、もっと早くして」


 一人の人間の死に際の声を、リズムのずれとして指摘する少女に、男は煙を吐き出しながら舌打ちを鳴らした。


「うるせえな。……おい、クソガキ。タバッキに行ってこい。今日はマルボロだ、気分が悪い」


 男は財布からリラ札を放り投げると、少女は床に落ちた紙幣を拾い上げる。そこには先ほど飛び散ったばかりの女の血がついている。カーテンの隙間から差し込むネオンを反射して、無機質な茶色い瞳を赤く染めた。

 少女は、ベッドを真っ赤に汚して物言わぬ女の肉塊を一瞥し、無表情のまま踵を返した。


「わかったよ、ルキーノ」


 ルキーノと呼ばれた男は、自身の罪を握ったかつての赤子の背中を見送る。

 もう一度煙を深く肺に溜め込んで、雨の日の匂いを思い出しては記憶とともに吐き出す。


「……いい子だ、ローズマリー」


 カーテンの隙間から差し込むネオンが、彼の吐き出した煙を裂いている。

 重い扉が閉まる音と共に、ルキーノはあの日と同じように、女の裸体の上へと頭を預けた。

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