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第一話

 鉛の雨を隠すネオンを、一匹のドブネズミが見つめている。

 

 コロッセオを囲む街並みには、好景気に浮かれる広告のネオンが毒々しく滲んでいた。大通りを走るアルファロメオが街灯を反射する水溜まりを跳ね上げ、トラットリアの窓からは、祝いの喧騒とシャンパングラスのぶつかる軽やかな音が漏れ出ている。

 だが一歩路地へ踏み出せば、そこは石畳から腐敗臭とゴミを吐き出す迷宮のようだった。残渣ボックスからは袋が垂れ下がり、辺りでネズミや虫が這い回っている。


 一匹のドブネズミが、崩れたレンガの隙間から、黒く、丸い瞳で、血の滴るナイフを提げる男の姿を映していた。

 男の羽織る革ジャンは雨と返り血で濡れ、破れた肩口から剥き出しの肉が熱気を放っている。

 重い足取りで、男は一軒ずつ扉のノブを次々と回しては舌打ちを返した。傷口から流れる血は、濡れた革ジャンをさらに重く変えている。


 やがて、男は僅かに隙間の空いた窓を見つけると不敵な笑みを浮かべ、隙間から指を差し込んで滑り込むようにして侵入した。

 暗がりにいた家主は驚愕の声を上げたが、男の動きには慈悲も迷いもなかった。手にしたナイフが鳩尾へ深く、正確に突き刺さる。崩れ落ちる家主を一瞥することなく、男は奥の寝室へと足を踏み入れた。


 寝室のベッドには、一人の女が横たわっていた。振り乱された茶色い髪、苦痛に歪む顔、腕の中で大きな腹を守るように背中を丸めている。女は妊婦のようであった。

 男は品定めするように、女の体をじっと見つめる。女の目と男の視線が、冷たい静寂の中で交差する。男は無言のままナイフを振り上げ、迷うことなく心臓を一突きした。

 間近で見た女の瞳は茶色かった。汗の匂い、台所から漂うローズマリーの香りが、鮮烈なほど死の匂いと混ざり合う。女の血の滲む乾いた唇が、死の淵で微かに動いた。


「クソ野郎……」


 最期の罵声に、男は答えることなくナイフを引き抜いた。

 溢れ出した鮮血が白いシーツを侵食し、カーテンの隙間から差し込んだ街灯を反射してどす黒く光っている。男は静まり返った部屋で、ようやく休息を得たかのように、事切れた女の腹へと頭を預けた。


 その時だった。冷たくなり始めた女の肉体の下、聞こえるはずのない鼓動が響いた。

 顔を上げ、耳をぴたりと腹につける。

 確かに鼓動が聞こえる。世界に拒絶されることを拒むような、生きようとする拍動が腹の中から聞こえる。

 男は再びナイフを握り、膨らんだ腹を横一文字に引き裂いた。

 分厚い肉の層の下、羊膜に包まれた胎児が、すでに失われた母の温もりを求めて蠢いている。羊膜はあまりに薄く、ナイフの先を少し突き立てれば、その中身ごと貫いてしまいそうなほど脆かった。

 だが、男は突き立てなかった。

 この退廃に満ちたミラノの片隅で、今まさに死に往く自分。生まれたとて、父も母もいない、そんな絶望的な状況も知らずに踠く命の悲壮を感じた。

 男は喉の奥で静かに笑い、血塗れのナイフをベッドへと放り投げた。

 そして、ポケットから血を吸ってふやけた安タバコを取り出し、火をつけた。


「本当に生きる気があんなら、自分で突き破れよ」


 男の言葉に呼応するように、胎児はその羊膜の下で、必死に手を突き出した。薄い膜は泥のように纏わりつき、小さな手では到底突き破れそうにない。それでも、胎児は何度も、何度も手を突き出し、その度に血に濡れた膜を歪ませた。

 そして、ついに胎児の指先が世界に触れる。

 亀裂は瞬く間に広がり、羊水が泥のようにベッドの下へと溢れ落ちる。胎児は高く、小さな産声を上げた。切り開かれた凄惨な揺籠の中で、母を求めて泣き続ける。

 男はその光景を観察していたが、やがて口端を三日月型に歪めて笑った。


「おめでとう、お前を見逃すのはこれで二度目だな。……あとは自分でどうにかするんだな」


 男はタバコを弾き、死体の上に灰を散らした。そして、産まれたばかりの胎児に向けて、祝福を授ける神父のような手つきでその額に触れた。

 指先に触れる体液は生暖かく、雨で氷のように冷え切った自身の手で、その体温を吸い取るように触れる。

 冷たい感触に気付いたのか、あるいは自分を産み落とした殺人者を見定めるためか。赤ん坊は産声を止め、血のついた手で男の人差し指をぎゅっと掴んだ。

 そして、目を開けた。

 殺した女と同じ、茶色い瞳。ただ男の目をじっと見つめていた。

 男はその手を簡単にへし折ることも出来た。だが、そうはしなかった。胎児の指先が、白く強張るほどに自身の人差し指を掴んでいたからだ。

 今放っておけば、この赤ん坊は数時間のうちに死ぬ。それでも、母を殺した殺人者の自分を、茶色い瞳で祈るように、縋るように見つめ、力強く握るその指先が、かつて自身が殺した同胞の最期の握力と同じだった。

 胎児と自分、二人の体温。そして、失われていく体温を補うように、男は小さな指を握り返した。


「地獄へ行く手土産に、お前を道連れにしてやる」


 茶色い瞳はじっと見つめ、やがて目を閉じた。男は革ジャンを脱ぎ、血の揺籠から赤ん坊を乱暴に抱き上げた。最後の繋がりを断つように、臍帯をナイフで裂く。

 遠くの路地裏では、組織を裏切った男の名を叫ぶ追手たちの怒号が、雨音を裂いて近付いてくる。

 男は名もなき赤子を胸に抱き、一九七九年の冷たい雨が降り頻るローマの闇へと、溶けるように消えていった。

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