第十二話
バローナ地区郊外、入り組んだ路地裏には少年たちの甲高い声と、壁にボールが弾ける音が響いている。
「右だ! 右行け!」
「マッテオ、パスだ!」
ローズマリーはその喧騒の中にいた。向かいのマッテオが手を挙げ、彼女のマークについたアレッサンドロの脇をすり抜けて、正確にボールを蹴り渡す。マッテオは軽やかにトラップすると、ドリブルで蹴り出してゴールへと駆け抜けていく。パオロもすかさず彼を止めようと足を投げ出すが、ボールはその横を通り過ぎ、ゴールの枠の中へと叩きつけられた。
「よし! 見たかよ今の!」
「……すごいね、マッテオ」
「ありがとう、君のおかげだよ! えっと……そういえば、名前なんて呼んだらいい?」
不意に問いかけられ、ハイタッチをしようとしたローズマリーの手が一瞬止まった。こんな陽の当たる場所で、自分の本当の名前を明かすべきか。彼女は逡巡するが、すぐに顔を上げた。
「……レイでいいよ」
「Lei? 変な名前、呼びやすいからいいか。レイ、君のおかげで勝てたよ」
「ううん、マッテオが誘ってくれなかったら、……ずっとサッカーなんて一生知らないままだった。ありがとう」
少しだけ口角を上げたローズマリーの顔を見て、マッテオは少し照れくさそうに視線を外した。「大袈裟だな」とすぐに咳払いをして、ボールへと向き直る。
それからすぐに再開して、何度か試合を行った。空が薄紫色になる頃、少年たちの「日常」は終わりを告げる。
「マッテオ! 夕飯だよ!」
「アレッサンドロ! 帰って宿題やるんだろー?」
遠くから親達が呼ぶ声が、狭い空き地の中で反響する。
マッテオとアレッサンドロと、みんなの名前。その中に、自分を呼ぶ声はない。
「レイ、また明日!」
そう言って彼らは迎えにきた大きな手の中で吸い込まれるように、暖かな光と匂いの漏れる家々へと帰っていく。
ローズマリーは一人、その場に残された。だが、この日はすぐに帰らず、脇に隠していた自身のボールを手に取り、一人壁に当てていた。時折窓の上階からアパートの住人が睨みつけ、「うるさいぞ!」と怒鳴りつけてくるが、彼女はそれを無視して、むしろより強くアスファルトの壁に蹴り出した。
だって、それが『普通の子ども』でしょう?
彼女はポケットからウォークマンを取り出し、ヘッドホンを耳に当てた。再生ボタンを押すと、イタリアンポップの軽快なリズムが脳内を支配する。それから、ルキーノがあの日見せたリフティングを真似てみる。膝の上へ乗せて、一度、二度。地面に落ちて、また拾い上げて膝へ乗せる。
アパートへすぐ帰らないのは、単に反抗心からだった。自分をゴミと呼び、そのくせ放ったらかしにするあの男への些細な抵抗。
いつからだろう。
少年達の「日常」の匂いを知ってしまった日からか、あの日子供を殺してしまった時からだろうか。それとも、鳩尾を蹴られた日?
どれも違う。きっと、ずっと前から知っていた。自分には帰る場所がないということ。だから、マッテオたちの「母親」が困ったように笑って連れ帰る姿を、ルキーノには決して期待できない温もりを、模倣せずにはいられなかった。
ローズマリーは薄闇に溶けていく路地の中、独り自嘲気味に笑った。それからリフティングを繰り返し、大きく跳ね上げて壁にぶつけた。その衝撃音が、彼女がこの世界に存在する唯一の証のように思えた。
◇
夜の八時、フェデリーニは仕事を早々に片付け、逃げるようにして帰路へとついた。
愛車のフィアットを走らせ、街灯のオレンジ色に照らされたドゥオーモを横目に、ナヴィリ地区のダルセナ川沿いにあるアパートへと向かっていた。助手席には、乱暴に脱ぎ捨てられたコートが置かれている。そのクリーム色の薄い生地の下には、判事の汚職の証拠、モンタージュ写真、バローナ地区の暗い資料が覆い隠されている。
今日は結婚記念日だ。尚更だろうか、自身の事務机に、これらを隠す勇気はなかった。
あの曲がり角を曲がればすぐに家に着く。今年は冷えたパスタを一人で啜ることもないだろう。妻と子ども達と共に、テーブルを囲めることが出来るはずなのだ。
交差点でウインカーに手を掛けようとした時、開け放たれた窓から吹き込んだ湿ったミラノの風が、コートの端を捲った。
その風が、どこかの家庭から漂ってきたであろう夕食のローズマリーの香りを運んできた。
その瞬間、手が止まった。ブレーキを踏み込み、路傍で立ち止まる。助手席のコートの衣擦れと、止まりきらないエンジン音が、自身の鼓動を急かしている。
静かな車内で自身を叱責するように独言、だが足が吸い付いたように動かない。
背後からの突然のクラクションに、フェデリーニは再び顔を上げた。見上げたアパートの三階に、暖かなオレンジ色の光が漏れ出ている。そこには自分の帰りを待つ「正しい人生」が待っている。それなのに、異様なほどの沈黙を放つ助手席のそれが、フェデリーニのハンドルを固定した。
「アクセルを踏め。家へ帰るんだろう」
彼は一度ハンドルを強く叩いた。ギアを叩き込み、アクセルを踏み抜く。フィアットのエンジン音を静かな住宅街に響かせ、彼は家へと続く曲がり角を背に、鉄錆の匂いのするバローナ地区へと向かった。
バローナ地区の境界を超えた途端、街は煌びやかな虚飾を剥ぎ取られ、鉄錆と湿ったコンクリートの匂いが支配していた。フェデリーニは愛車を通りに停め、薬物中毒者の殺された路地へ向かって歩く。壁を埋め尽くす荒っぽいグラフィティと、鉄格子のようなシャッターが並んだ通りでタバコに火をつけた。
「来たところで、何が変わるってんだ……」
自嘲する声は、点在するトラットリアから漏れ出る安ワインに酔った笑い声にかき消された。
中心から少しも離れていないこの地区の建物の隙間から、煌びやかなドゥオーモが僅かに見えるのも、ミラノという街の格差を見せつけられているようだった。
焼き尽くされる前のタバコを路傍に投げ捨て、フェデリーニは足早にその場から去ろうとした。だが、路地の奥からボールの跳ねる大きな音が反響した。
薄闇の中、彼は眉を顰めて奥へと目を凝らす。疲労か、年のせいかよく見えない。
彼は路地裏の闇へと足を踏み入れる。ボールが跳ねてフェンスに当たる音、漏れ出た微かな音楽。フェンスの内側で、一人の人影が見えた。暗闇に慣れた目が、華奢な姿を捉える。ウォークマンのヘッドホンを耳に押し付け、サイズの合っていないぶかぶかの革ジャンを羽織る少女。
「こんなところで何してる。危ないぞ」
少女はヘッドホンをずらし、フェデリーニの方へと視線を向けた。
「帰りたくないの」
周りには親も、友人の姿も見えない。十代前半だろうか。声は酷く凪いでいて大人びているが、語尾には僅かに幼さが混じっている。
まだ多感な時期なのだろう。喧嘩をして、小さな冒険のような反抗でも起こしたのか。
「親と喧嘩でもしたのか」
「……まあ、そんなとこ」
彼女は短く答えると、足の下に挟んだボールを蹴り上げ、膝の上で器用に跳ねさせる。そして、ボールを一度大きく蹴り上げ、ゴールへと叩きつけた。
あまりにも鮮やかな足捌きに、フェデリーニは純粋に驚愕してみせた。
「驚いたな。随分上手いんだな」
「練習してるの。あの子達と同じになれたらなって」
「チームに入りたいのか?」
「ううん、『普通の子ども』。……それになりたいの」
その言葉の歪さに、フェデリーニは訝しげな顔をした。
「君は、普通じゃないのか?」
少女は鉄格子のようなフェンスへと近付き、指をかけてフェデリーニを至近距離から見つめた。檻の内側から外の世界を窺うような瞳で、彼の目をじっと。
「おじさんは、どう思う?」
フェデリーニも彼女の瞳を覗き込んだ。
茶色い瞳の奥は濁り、子どもにしてはあまりに無機質で、空虚ささえ感じた。
そして再び吹き込んだ風が、ローズマリーの香りとともにかつての記憶を運んできた。彼は眉を顰めるが、彼女の目は逸らすことを許さぬように捉えられている。
「……君は」
「おい、うちの子になにしてやがる」
背後から放たれた男の声が、静寂を切り裂いた。一人の男がタバコを咥えながら、フェデリーニを威圧するように二人の間に割り込んだ。男が目で少女に合図すると、彼女は無言でそれに応えた。ボールを脇に抱え、フェンスから男の後を追い、その場から立ち去ろうとする。
漂うのは、警察署の取調室で嗅ぎ慣れた、暴力の気配を隠す安タバコの匂い。狭い路地に、男の吐いた煙がすぐに充満していく。
「……子供の前でタバコはやめた方がいい。健康に悪い」
不快感を露わにし、目を細めたままフェデリーニは男の背中へ言葉を投げた。男は足を止め、肩越しにフェデリーニに冷たい視線を向けると、路傍に唾を吐き捨てた。
「よその教育方針に、いちいち口出してくんなよ」
男と少女は、寄り添う親子というよりも、獣とその影のように見えた。彼はフェデリーニの目の前でわざとらしくタバコを捨て、路地裏の闇に消えていった。




