第十三話
アパートへ向かう道中、空は薄紫色を消し去り、冷たい月明かりが支配する夜へと変わっていった。
ローズマリーはルキーノの吐き出す紫煙の影に張り付くように歩く。二人分の乾いた足音だけが、生臭く湿った路地に響いている。
「誰だ、あの男。やけに馴れ馴れしく話しかけてきやがったが」
「知らない」
肩越しに投げかけられたルキーノの問いに、ローズマリーは遮るように答えた。その態度に、彼は苛立ちで震える指先で次のタバコに火をつける。狭い踊り場を上がる足音が反響してやけに耳障りだった。
「……なぜ、すぐに帰らなかった」
ルキーノは極めて平静を装いながら呟いた。諌める気などないが、外の「日常」に彼女が触れるたび、自分たちの築き上げてきた檻の強度が損なわれるような、得体の知れない焦燥が彼の胸を焼いていた。
「なんでもない」
いつも通りの無機質な返答。それでも、その声の奥には「反抗心」のようなものが混じっていて、ルキーノは左の瞼を一瞬痙攣させた。
「あの男が警察だったらどうする。お前のその『子どもごっこ』のせいで、俺が捕まるだろ」
「自分だけの心配なんだ」
「当たり前だろ。捕まってみろ、俺なんざ終身刑になるか、消されて終わりだ」
「私の心配はしないんだ」
子どものような駄々に、ルキーノの足が止まった。
「……俺になんて言ってほしい?」
ローズマリーはただ無言で睨みつけ、親に叱られた子どもが不服そうに耐えるような瞳で見つめていた。静寂の空間の中で、近隣の部屋から漏れ出るテレビの音や、遠くの汽笛さえ聞こえてきそうな静寂。それからルキーノは目線を外し、鼻で笑った。
「心配したぞ、ローズマリー。パパを困らせるんじゃない。……とでも言えば満足か?」
彼女は答えなかった。ルキーノは呆れたように頭を掻いた。
従順なナイフだったはずの少女が、外の匂いを知り、子どもとしての輪郭を取り戻していく。それはルキーノにとって、最も恐れていた事態だった。
「今更子供ぶるのはやめろ。お前は俺で、俺たちは使い捨ての駒だ。面倒を起こすな」
「……そういう時もあるでしょ、『子ども』なら」
その一言が、ルキーノの堪忍袋の緒を切れさせた。彼女の胸ぐらを掴み、力任せに壁に押し付ける。
「頼むから、俺をこれ以上キレさせるな。何のためにお前をここまで育てたと思ってる? 父性を感じたからだと? 違う」
ローズマリーの細い喉元を、ルキーノの骨張った左腕が硬く固定する。壁と腕に挟まれるようにして気管を圧迫され、喘ぐように彼女は息を吐き出した。それでも、彼女の視線はルキーノの腰元に覗くナイフの柄を捉え、挑発するように笑った。
「自分と同じ……底辺のゴミがいなくなるのが、怖いんでしょ。それならここで、首を掻き切ってみせようか」
「やれるもんなら、やってみろ。お前が恐れているのは、子どもになれないことだ。無意味なゴミのまま、終わるのを怖がってるくせに」
ゴミと呼ばれた者同士、鏡合わせの憎悪が交差する。
先に動いたのはローズマリーだった。彼女はルキーノの左腕を掴み、固定して体を翻す。一瞬で腰元へと手を差し込み、ナイフに手を伸ばした。だがその直後、柄を握った瞬間、彼女の手を覆うように握り潰した。ローズマリーは眉根を寄せ、何度も引き抜こうと踠くが、岩のように固く動かなかった。
ルキーノは握り潰したまま、踠く彼女の目を見つめる。茶色い瞳には、焦燥と恐怖で怯える十年前の自分が映っている気がして、握る指先が、壁に押し当てる腕が次第に強くなっていった。
だが、彼女は苦痛に口を歪めながらも、ルキーノの目を絶対に離さなかった。
「何を、焦っているの。そんなに私を閉じ込めたいなら、何でボールなんてくれたの」
ルキーノは鼻で笑い、ふと握っていた手の力を緩めた。その隙を逃さず、ローズマリーはナイフを引き抜き、彼の喉元へ切先を突きつけた。だが、その刃は激しく震えていた。
「やれよ。どうした、怖くなったのか?」
歯を食いしばり、情けないほど震える手を見て、ルキーノは躊躇うことなく刃を掴み、刃先を喉元へと突き立てた。僅かに肉に食い込み、滴っていく血が彼の白いTシャツを汚していく。
「やれよ。両親を殺し、お前から『普通の子ども』ってやつを奪った俺を」
彼の瞳は酷く冷え切っていた。あの日に自分も、彼自身もゴミと呼んだ時と同じ、全てを諦めたような顔。
ローズマリーは怒りに染まった瞳から、ほんの少しの恐怖で息を呑んだ。
「出来ねえか、ん? ……なら教えてやるよ、殺した時のこと。お前の母親が最期に何て言ったと思う? 『クソ野郎』だ。あの女、今のお前みたいに情けねえ顔だったぜ」
自分の母を侮辱されたローズマリーは怒りに染まり、刃を掴むルキーノの手を横に切り裂いた。喉元から、指から血が噴き出す。彼は短い呻き声をあげながら手を押さえたが、その視線はローズマリーを離さなかった。
ローズマリーは怒りと絶望、そして言いようのない悲しみが混ざり合った、崩れそうな顔をしていた。
「少しでも……ルキーノの作った、オッソ・ブーコが好きになってたのに。なんで? なんで、私に、少しでも優しくしたの」
ローズマリーはその場で項垂れた。
冷たいコンクリートに滴ったルキーノの血と、彼女の瞳から溢れた水滴が混ざり合っていく。
「優しさなんて俺に求めるな。ボールも、飯も、ペットに気まぐれのおもちゃを買い与えるようなもんだ」
ローズマリーは涙で濡れた眼差しで見上げた。最初から期待していたわけではない。それなのに、この男の中にほんの僅かでも「人間」を残しているのかと思った自分に、本音を隠して人間の振りをして嘲笑うこの男に腹が立つ。
「クソ野郎……」
その瞳から子供としての渇望が消え、目の前の男に向けられる純粋なまでの殺意が滲んでいる。
ルキーノはそれを見て、満足げに、そして深い安堵を湛えて笑った。




