第十一話
夕方の日差しが署内を薄暗く照らす頃まで、フェデリーニは判事の事件を忘れるように仕事に追われていた。
やがて報告書が三分の一ほど片付いたところで、彼は自身のコーヒーカップにエスプレッソを入れた。今すぐにでもカフェインを摂らなければ、眠気で頭がどうにかしてしまいそうだった。
真っ黒なエスプレッソを喉に流し込み、ようやく彼は自身の机に腰を据えた。
「ああ……今日はなんだってこんなに事件が多いんだ」
ぼやいた時、思わず口端から漏れたコーヒーを制服に溢さぬよう、左手で口元を拭う。背もたれに頭を預け、そのまま眼球を揉んだ。
「フェデリーニ刑事」
「何だ」
不意に呼ばれた自分の名前に、フェデリーニは目を閉じたまま短く答えた。
「先日バローナ地区で発見された薬物中毒者の死因についてですが、検死の結果が……その、少し妙なんです」
「奴の身辺はすでに割れてたはずだが」
「ええ。売人同士の諍いとの結果ですが……その、喉元の切り口がやけに綺麗すぎるんです」
フェデリーニは重い瞼を持ち上げ、ようやく部下へと向き直る。部下のマテッロ、二年前に入ったばかりの若造だ。制服にはまだ、絶望を知る前のピンとした張りが残っている。
「どういう意味だ?」
「ギャングや売人ならば、荒っぽく掻き切られるものです。ですが今回は、頸動脈だけを正確に、最小限の力で切り裂いている。まるで……」
「……プロの仕事だとでも言いたいのか?」
「ええ。人体の構造を熟知している、暗殺者のような者の……」
「暗殺者」という遺物のような単語に、フェデリーニは鼻で笑った。
「七〇年代じゃないんだぞ。そんな御伽話のようなことがあるか。被害者は無職、ギャングとの関わりはあるが些細な逮捕歴に塗れたただのジャンキーだ。……「暗殺者」なんぞに狙われる理由も、価値もない」
フェデリーニは立ち上がりながら指を振り、空になったコーヒーカップを掴んで給湯室へ向かう。その彼の後を、マテッロは食い下がり資料を回しながらついてくる。
「理由はわからないですが、そうとしか考えられない。それに……『あのリスト』が出てからだって、テロや暗殺が事実だったと……」
「それ以上は言うな」
熱湯のボタンを押したまま、フェデリーニは部下を射抜くような目線で貫いた。やがて、激しい湯気がカップから漏れ出、不意に彼の指に熱湯がかかる。
「あっつ……クソ!」
慌てて手を離すが、それでも痛みは引かなかった。
「いいか、お前はまだ正義の熱に浮かされているのか知らんが、時には見て見ぬ振りをすることだって必要なんだ。でなきゃ、この国じゃ呼吸さえままならない」
「ですが……!」
「俺も、お前と同じだったよ。でもな、長くここにいたら理解る。……今は、ダメなんだ」
マテッロは歯噛みするが、無言でタオルペーパーを彼に差し出すと、資料を冷蔵庫の上に置いて立ち去った。
狭い給湯室の中、フェデリーニは零れ落ちた熱湯をペーパーで拭き上げ、壁に背を預けた。換気扇の回る乾いた音と、遠くの部屋から漏れ出る怒鳴り声が聞こえる。
エスプレッソの黒い水面に映る自分の顔は、酷く疲れ切った中年男の成れの果てだった。あの若い部下のような熱意も、正義も、全てこの真っ黒なエスプレッソと共に飲み下してしまった。
フェデリーニは一口、熱いエスプレッソを喉へ流し込むと、資料を手に取って自身の机へと向かった。
◇
後日、芯から凍えるように冷気が支配する検死室の中、フェデリーニは炭化した判事夫妻の遺体の前に立っていた。
筋肉が収縮し、ファイティングポーズのような姿勢で固まったままの遺体は、かつてミラノの法を守る番人の成れの果て。その隣には胎児のように丸まった小さな黒い塊……これが恐らく彼らの息子だったものだろう。
「……死因は、頸部を切り付けられたことによる失血死。火事による損傷が激しいですが、判事の傷は深く、気管にまで達しています。声も上げられなかったでしょう」
検死官は、脆く崩れやすくなった判事の首元に指を添えた。軽く下顎を押し上げただけで、黒い煤が剥がれ落ち、生々しい傷跡の断層が剥き出しになる。フェデリーニは目を背けたい衝動を抑え、隣に立つ検死官の話に耳を傾ける。
「酷いな。夫人や息子の方も同様?」
「息子のマルコは、母親に覆い被さるようにして亡くなっていましたから……特に損傷が激しいですが、窒息か焼死でしょう。……ですが、問題は夫人の方です」
検死官は、彼女だった遺体の喉元、煤に塗れた気管を指で指し示した。それからその下、大きく切り開かれた胸部を差した。空気に触れて、不自然なほどに淡い色を保ったままの肺がそこにはあった。
「判事の傷は気管にまで達していた。だが、彼女の気管には傷がない。それどころか、肺に煙を吸い込んだ形跡も、熱による損傷も一切ないのです」
フェデリーニの脳裏に、先日、あの若い部下から聞かされた路地裏のジャンキーの報告が蘇る。
「……つまり、彼女は火事の前には死んでいた。それも、判事を切りつけた何者かとは別の、もっと静かな方法で」
ジリジリと唸る白熱灯が、フェデリーニの耳の奥で響いた。同時に、無機質な消毒液の匂いと、肉の焦げついた死臭が鼻を突いて、胃の奥が収縮した。
これは単なる強盗や報復ではない。
ターゲットを確実に仕留める技術と、痕跡を最小限に抑える美学。十年前のあの惨劇と同じ冷徹な、だが確かに存在する意志の匂いがした。
動悸がする。年のせいではない、不吉な予感のせいで、胃が、心臓が、耳の奥で耳鳴りがする。
「……わかった。殺人の線で調べよう。上がこの事件を、「事故」の棚に放り込むまでの短い期間になるだろうがな」
フェデリーニは自嘲気味に笑い、検死官の肩を軽く叩き、その場を後にした。




