第十話
彼が現場へと向かうと、そこは焼け落ちた邸宅の残骸があった。既に規制線が張られているが、近隣の野次馬たちが、好奇心と恐怖の入り混じる顔で見つめている。メディアや新聞の記者たちも、大きなカメラを手に、現場へと向かうフェデリーニの周りを囲っている。
彼はまとわりつく記者達を、鬱陶しげに手を振って通り過ぎた。多くの監査官や警察が焼け落ちた残骸の中、立ち尽くすように足元を見ている。
「マテッロ。状況はどうなってる?」
「すでに遺体は搬送しています。まだ調査中ですが、時間帯からして放火かと」
「そうか。邸宅を狙った強盗の末、証拠を消すために放火したか」
「そうだと思ったのですが、焼け残った金庫の中は手付かずのままで……。彼らが好むような腕時計や金目のものがそのままなんですよ」
「……金庫は今どこに?」
マテッロが指差した先、押収した金庫が庭先のブルーシートの上で開けられていた。腕時計や書類、リラ札の束が大量に広げられている。ブルーシートの上でそれらを見つめ、フェデリーニは金庫の中を覗き見る。三〇センチ角ほどの大きさの内部は、僅かに残された金品が散らばっていた。顔を半分ほど覗き込み、左の金属板の隅に小さな穴を見つけた。
「なんだ、これ」
彼は慎重に指をかけ、中身をこじ開けた。驚くほどあっさり開いたそこには、あまりに地味な茶色い封筒が取り残されていた。
「書類ですか?」
マテッロの問いかけに答えることなく、フェデリーニがその茶封筒を指で広げて覗く。中にはいくつかの口座帳簿が入っていた。さらに奥へと目を凝らすと、数枚の取引記録が見える。送金先は確認出来ないが、安全な金庫の中でさえ隠したがるものだ、おおよそ愛人か、個人の管理する口座であろう。
「何がありましたか」
「……いや、過去の裁判記録が書いてあるだけだ。俺が署まで持ち帰るよ」
申し訳ないという顔をするマテッロの肩越しに、フェデリーニは上層部の乗る車が停まっているのを見つけた。目を細め、それからの彼の肩を二回ほど叩き、ふと笑って見せる。
「大したことはない。それに、下着泥棒の証言内容や、長ったらしい裁判官の名前を何人も書くなんて、面倒な仕事はしたくないだろ」
車から降り立つ上層部の影に、十年前の隠蔽の記憶が過ぎる。フェデリーニは茶封筒をコートの懐の奥へ詰めると、目を逸らすように背を向けた。
そして、改めて無惨な焼け跡を見つめる。煤けて空気の抜けたサッカーボール、タイヤがひしゃげた小さな三輪車が横たわっている。十年前の事件、この国の闇を暴こうとしたアドリアーノ判事の、恐怖で見開かれた死体を思い出す。
彼は友人だった。まだ極右のテロ活動やマフィア、ギャングの存在が強かったあの時代。前日も、彼を邸宅まで護衛のため送迎をしていた。一度彼は暗殺されかけていたから、友人である自分が護衛を頼まれたのだった。
いつ頃生まれるのか、どんな名前で、生まれたらレストランを予約してアマローネを開けようと話していた。それなのに、深夜の闇の中、音もなく彼らは殺された。
陣痛に苦しむ臨月の妻を思い、その痛みを和らげようと一瞬窓を開けたその隙に。
彼の記憶には、友人夫婦の凄惨な死体と、不釣り合いなほどのローズマリーの香りが未だ鮮明に刻まれている。その香りは、フェデリーニにとってトラウマであり、彼が唯一克服できない記憶であった。
◇
フェデリーニは本部へと戻り、資料室の埃っぽい部屋の隅で、茶封筒の中身をばら撒いた。
資料が語っているのは、この国の縮図だ。判事個人のルクセンブルク銀行の口座と、見覚えのある政府役人の名前。送金元には、来年のW杯や地下鉄建設で私服を肥やす複数の大手建設事業者が名を連ねている。好景気に沸くこのミラノの煌びやかな表通りのすぐ裏で、鉛の時代から続く古い癒着が今も脈打っている証拠だった。
「……また、この国に消されたのか」
正義を名乗りながら横領に手を染めた彼に賞賛を送る気はない。だが、共に焼かれた彼の一人息子を思うと、胃の奥が焼けるように痛んだ。
自身にも息子と娘がいる。上層部からの圧力に屈し、様々な事件を「不慮の事故」と片付けざるを得ない唯一の理由。愛する者達の平穏は、この汚れた沈黙の上で辛うじて成立している。
フェデリーニは深くため息をつき、冷めきったエスプレッソを飲み干した。泥のような苦味がやけに喉に絡みつく。
机の上では、判事名義のルクセンブルクの口座通帳が二つ、その存在感を放つように重く鎮座している。
ローマの惨劇と、ミラノの不審な火災、そして、忘れられない古い目撃証言。
椅子に深く沈み込むと、数日の徹夜のせいで頭皮が酷く痒く、脂っぽい嫌な匂いが鼻を突いた。このまま帰れば、娘や妻に小言を言われるのは目に見えている。
ふと、テーブルの隅にポツンと置かれたカレンダーが目に入る。今は三月だと言うのに、一月のまま忘れ去られたように時を止めている。フェデリーニは震える指でそっと捲り、現在の三月を露わにした。
「……そういえば、今月は結婚記念日だったな」
ここ数年、記念日はいつもテロの事後処理や、汚職の証拠をシュレッダーにかける仕事に費やしてきた。
フェデリーニはカレンダーを弾き、テーブルの証拠品を隠すようにコートの内側へとしまいこんだ。
制服の裾についた灰を手で払い、資料室を出て、自身の事務机へと向かう。
そこは、相変わらず始末者や報告書の山と、吸い殻が溢れた灰皿とともに乱雑に散らばった彼の戦場。深くため息をつき、フェデリーニは今回の判事事件の報告書を書き上げていった。




