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あのときは、何人目の深層の出来事だったか。
その深層は例に漏れず、茶色一色の世界だった。
その茶色一色の風景は平坦な荒地であり、タクヤの印象的には、ムーアかヒースといったところだった。タンブルウィードらしきものがあちらこちらに転がっていく様は、まさに荒地の殺伐とした風景。この深層の持ち主の心はとても荒んでいるのではないだろうか、と、素人のタクヤでもわかりやすい、それは風景だった。
その、転がっているタンブルウィードのうちのひとつが、気がつけばタクヤの足元に転がってきていた。大きさとしては、遠くの方で転がっている物よりずいぶんと小さめで、両手で持ち上げられるくらいの大きさだった。見下ろしたそれは枯れ草が固まったもの、というのではなく、よくわからない黒い線みたいなものがごちゃごちゃと固まっているように見えた。例えるなら、紙にペンで書き損じた時に、ぐちゃぐちゃと書き殴って消す、あのようなものだ。一見、無害に見える物だった。だから、タクヤは何の気なしに足元に転がってきたそれを持ち上げようと、屈んで手にしたのだ。
好奇心はあった。
タクヤは深層に降りるが『浄化』を施さず、橘について行くだけなので、半分くらいは観光気分だった。
タクヤの足元に転がってきた、この正体不明のタンブルウィードみたいな物は、どのような感触なんだろうと、興味が湧いた。触っても大丈夫だと思った。
それに、今まで降り立った深層で、何か危険な目に遭ったことは、いちどもなかった。
油断、と言えば、油断だった。
病んでいる者の深層に降りる、ということの危険性が理解できていなかった。
タクヤと橘が深層から戻る度に、月島がさり気なくカウンセリングをしているその意味が、本当はわかっていなかった。
持ち上げようと手にしたソレは、タクヤがその手で触れたとたん、一瞬でタクヤの両手を真っ黒にして、消えた。ただ、タクヤの両手を黒く染め上げたのは一瞬であり、黒くなってしまったと焦った瞬間、タクヤの手は光を放ち、光が収まったあとの両手は元に戻っていた。
けれども。
ホッとしたとたん。
気分不快が、タクヤを襲ってきた。
それは、気分不快、どころの話ではなかった。
どう、表現して良いのかわからない、体調の悪さ。
以前に降り立った『彼』の深層での澱みが肺を侵してくる、あの感覚と似ていた。
が、そのときとは比較にならないくらいの気分不快。気持ちの悪さ。
あのタンブルウィードのようなものがタクヤの手を真っ黒に染め上げ霧散した際に、何かを蒔き散らしたのだろう。視覚的には空気が濁っているようには見えないが、息を吸う度に空気の澱みがタクヤの肺を確実に蝕んでいく感触があった。
蝕むだけでなく、肺に何かがへばりつく感覚。その何か、を例えるなら、タールのような粘着のあるモノ。
タクヤは、近くに居るはずの橘に気分不調の現状を訴えようとしたが、肺にへばりついたタールのようなモノで声が出せなかった。たちまち立っていられなくなり、知らず、しゃがみこんでしまっていた。いずれ、橘がタクヤの変調に気がつくだろうが、それまでタクヤはこの気持ちの悪さを我慢しなければならないのだろうか、と悲観し始めたとき。
「永良さんっ。」
この場に居るはずのない月島の、タクヤを呼ぶ声が聞こえた。
気のせい、かと思ったが。
「永良さんっ。」
再び、今度はタクヤの間近で、月島の声が聞こえた。
タクヤがしゃがみこんだ姿勢から、顔を上げると。
そこは。
月島の診察室に隣接する事務室だった。
「永良さん。わかりますか?」
タクヤの眼前には、心配顔の月島。
「僕、」
今先ほどまで、月島から依頼のあった深層へ、橘と一緒に降りていたはずだった。現実に戻ってきた記憶はなかった。深層で、気分が悪くなりしゃがみ込んだだけの動作だった。
なのに、タクヤは今、現実の世界の、月島の事務室で、深層へ降りるときに座っていた椅子に、腰を掛けてうつむいている状態だった。
「僕、」
何がどうなっているのか、と問おうとしたがタクヤは問うために開けかけた口を噤んだ。
なぜなら。突然に。
何もかもが、億劫になったからだ。
プツンと、タクヤの中にある何かの糸が切れた感覚。
なぜ、自分は月島の診察室で、自身のプライベートの時間を削ってこのようなことをしているのか。
手伝うことが、タクヤにとっての意味があるのか。
それに、タクヤのこれくらいのちっぽけな手伝いで、何かが変わる、とでも考えていたのか。なぜそのような思考に至っているのか。至ったのか。
小さな、とても小さな存在でしかないタクヤが、何をどう足掻いたって、何かが変わるわけがない。
その証拠に、タクヤは誰からも本当は必要とされていないではないか。
といったそれは、その感情は、どこからともなく湧いて出るようにタクヤへ襲ってきた、例えるのなら、虚無。
それに加え、次いで湧いて出たモノは。
タクヤが汗をかきながらも、喜んで尻尾を振るに値する相手なのか?この、月島という人物は。
といったような思考。
その思考が、タクヤの心を少しずつ占め始める。
タクヤの中で、虚無という闇が静かに、静かに蝕み。そのうえ、その虚無は、タールのように重く粘り気のある、漆黒の、濃い、とても濃度の高い闇だった。
ソレがゆっくりと、ゆうるりと、タクヤを飲み込んでいく。
そのとき不意に、
「永良さん。」
柔らかな、静かなタクヤの名を呼ぶ声。
呼びかけられ、タクヤは弾かれたように、顔を上げ眼前の月島を見た。




