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「失礼します。おはようございます。」
タクヤは挨拶をしながら、月島の診察室のドアをスライドして開けた。
「おはようございます。永良さん。」
ドアを開けた先、診察室の部屋の中央に設置している机の傍に、白のスタンドカラーのシャツに黒に近い灰色のスラックスの、いつもの出で立ちの月島が立っていて、タクヤを出迎えた。
「永良さん。今日もよろしくお願いします。」
月島は静かな笑顔で、タクヤに挨拶を返してくる。
彼のその姿は、タクヤが月島のカウンセリングを受けにこのドアをスライドする度に目にしていた光景だった。
一瞬、タクヤは自身のカウンセリングのために来室したのだっただろうか、と思ってしまった。
が。
「もう少ししたらコトネさんが来ますので、コトネさんが揃ったら打ち合わせを始めましょう。」
との、月島のその言葉に、タクヤは今は彼らの手伝いにこの診察室に訪れているのだと、思い出す。
今日は土曜日で、月島のカウンセリングとツカサクリニックの診療は午前のみとなっている。休診日は、この、医療モールに軒を構えている診療所のほとんどが木曜日と日曜日と祝祭日。それと土曜日の午後だ。月島のカウンセリングもツカサクリニックも休診日は、ほかの診療所と同じだった。
タクヤの本職の方は基本、土曜日と日曜日、祝祭日が休みであり、今日はタクヤの仕事が休みであるため、タクヤは午前の診察開始前に来室した。
「体調の方は、どうですか?仕事との掛け持ちは、辛くはないですか?」
月島が、二足の草鞋を履き始めたタクヤの体調を気遣う。
タクヤは2週間ほど前にツカサ医師から時短勤務解除の診断を受け、以降、通常の8時間勤務を行っている。通常通りの勤務へと変更になって直ぐにタクヤは副業申請を人事課へ提出した。タクヤの上司と人事課は、副業する事に対して最初は良い顔を見せなかったが、副業先がツカサクリニック内の月島のカウンセリング室だと知ると、不承不承ながらも許可を下ろしてくれた。
それはたぶんその副業先であれば、タクヤの心が再び不調に陥りそうになったときにはその場に居る専門職が予防的に関わってくれる、もしくは早い段階で治療やカウンセリングが優先的に受けられると、勝手に思ったのだろう。
人事課や上司がそのように勘違いをしてくれたお陰で、タクヤはこうして正式に月島の診察室へ、彼らを手伝うために先週から通えることができるようになっていた。
「大丈夫です。」
タクヤは月島の心配する声に、笑顔で応える。
職場のその目論みはあながち外れではなかった。
タクヤと橘が月島からの依頼で一緒に『浄化』のために深層へ降りたあとは必ず、橘が振る舞う紅茶を三人で飲みながら少しの時間、降りた先の深層の状態や橘が施した『浄化』の様子を雑談のように話す時間が設けられていた。それは、仕事終わりの上司への報告の類いだとタクヤは受け取っていた。けれども、月島へ報告し、『浄化』を施した相手の心の状況を確かに評価はしてはいるのだが、よくよく気を付けてみると、月島の話し方、その会話のキャッチボールはカウンセリングのソレだった。
つまり、月島への報告は、月島が橘やタクヤの報告を聴きながら、橘やタクヤの体調を目配り、カウンセリングをしている状態と言えなくもなかった。
タクヤは、例の『彼』の深層での『浄化』から戻って以降、橘とともに月島から依頼のあるクライアントの深層に降りはするが、『浄化』を施してはいない。それは、あの時に月島から第三者の深層でタクヤの『浄化』の風を渡らせることを禁じられたからだ。
ただ、『浄化』の風を渡らせることへの許可は未だ得られていないが、橘とともにクライアントの深層に降りることへの依頼はあり、タクヤはそれ以降も第三者の深層に降りることはしている。
橘に付き添う形で第三者の深層に降り立つだけのそのようなことだけで、彼らの役に立っているのだろうか、と不安や落ち込みがないわけではない。けれども月島からは、この世界に馴染みがなく慣れていないタクヤは、橘について第三者の深層に降り、色々な深層を見ることが今は大切だと言われている。また、橘ひとりが深層で『浄化』を行っているときよりも、タクヤがそばに居ることだけでも、なぜか橘は『浄化』の行為がずいぶんと楽なようだった。それ以外にも、何かあったときに対処できるよう、バディを組むことは安全性が高まるといった意味合いもある。
なので、タクヤは一応『浄化』との名目で月島から依頼されて、第三者の深層に降りることはしている。降りてはいるが、ソレはタクヤにとって、ホントウに単純に第三者の深層の世界を見ているだけ、といった行為だ。それだけの行為であり、直接的に何かの手伝いや役に立っている感は、ない。
見ているだけ、ならまだ良い。役に立っている感がない、だけならまだ良かった。タクヤはいちど、月島や橘の手を煩わせてしまったことがある。だから本当は、月島からの依頼を断った方が良いのではないか、と思ってしまう自分もいる。
けれども。
実のところ他人の深層に降り立つことが楽しくない、わけではなかった。楽しくないわけではない、ではなく、タクヤには、今日はどのような深層の風景を見ることができるのだろうといった、ホンの少しのわくわく感がどこかにあった。
それは、月島から依頼され降りた先の深層には、さまざまな風景があるからだ。
さまざまとは言っても、誰も彼もが独創的であり、似たような風景はひとつとして無い、ということはなく、似通った風景はある。けれども、それでも誰一人としてまるっきり同じ風景ということはなかった。個々、人それぞれだ。それらを見ることができることは正直に言って、タクヤの当たり前だと思っていたことがそうではないのだといった気づきになった。
けれども、それだけだ。
タクヤにとっての学びになって、終わりだ。深層に降りて、橘のように『浄化』を施したり、違う何かをしてきたりするわけではない。
確かに、さまざまな深層を見ることは、色々な心の様があることの体感だった。月島が言うように、タクヤのような緑の映える、清んだ景色を持つ者は、今までの中で誰一人として居なかった。橘が言っていたように、くすんだ色の単色に近い色合いの深層が、ほとんどだった。『彼』の茶色一色の世界は、珍しいものではなかった。
そのような色合いや景色であっても、人の心はある程度、安定しているのだということも、知ることができた。
何が何でも、タクヤの持つ深層の景色のように、整えなければならないことではないのだということも。他人の心の安定の様は、人それぞれなのだということを、徐々に理解していった。
ただ、それは、タクヤだけの価値観の変化になっただけだ。タクヤのためになっただけだ。
これが彼らの役に立つことなのか、自分にしかできない役割へと繋がる行動なのか、と、どうしても考えてしまう。
それでも、タクヤが橘の『浄化』時に彼女のそばに居ることが、彼女の『浄化』を施す行為が楽になるらしいことから、少しは認められ、求められているのだといったことが、月島の依頼を受け続けるための救いだった。
それに。
そのような内容の依頼であったとしても、この月島の診察室に通う口実となることは、確かだ。それはタクヤの勝手な望みでしかないことだからあまり認めたくはない。けれどもそれが、タクヤの中では大きかった。
「おはようございます。」
タクヤが月島と軽い会話をしているところに、橘が来室した。その橘に月島とタクヤが挨拶を交わしたところで、
「揃いましたので、今日の打ち合わせをします。」
月島のその言葉に、タクヤと橘は軽くうなずくと、それを合図としてそれぞれが椅子に腰を下ろした。
月島の説明によると、今日の月島のカウンセリングを受ける対象者は、橘の『浄化』を受けるのは2回目だとのことだ。2回目であるが、月島からのカウンセリング歴は年単位であり、古参の部類になるようだった。とはいっても、主治医や月島の指示に従い定期的にカウンセリングを受けに来ているのではなく、気まぐれに受けに来る、といった感じのようだ。月島は、対象者との長い付き合いから、橘の『浄化』を試してみることを判断したようだった。
月島は打ち合わせの中で、対象者の名前は明かさない。机に上がる情報は、何度目の『浄化』で、2回目以降であれば前回のあとはどうだったのか、といった内容だった。相手の病名等に関することも、一切タクヤたちに伝えることはない。性別については、対象者を『彼』と呼ぶか『彼女』と呼ぶかでタクヤは勝手に想像をしている。または、月島のコールを待っている対象者を目にしたときに知るといった具合だった。
「1回目の『浄化』後に、『彼女』は私のカウンセリングを指示通りに受けにきています。指示通りに受けに来たことと、そのときの様子から少しは体調が安定してきているように判断しています。」
月島は橘の1回目の『浄化』が上手く働いていると話す。
「なので、今日もコトネさんと永良さんにお願いをしたいのです。」
月島のその言葉に、はい、といった橘とタクヤの返事が重なる。
「助かります。ありがとうございます。」
と、月島は、
「それでは、宜しくお願いします。」
軽く頭を下げた。




