第四話
宿に着くと、剣は俺の手に戻ってきた。
「本当に、ありがとうございました」
イリアーゼが頭を下げると、先頭の騎士は、わずかに戸惑ったような顔をした。
「……いえ。礼を言われる筋合いのことは、していません。役目でしたので」
「それでも、です」
イリアーゼは、それだけ言うと、軽く頭を下げた。
騎士は、しばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「……我々も、ここに来る道中で、気になる噂を耳にしました。ある村で、ヴァルガらしき魔物の姿を見た、と」
「ヴァルガを見た? どこの村だ」
「王都からここへ向かう途中で聞いた話なので、確かかは分かりませんが」
その話を聞いたイリアーゼの表情が、わずかに引き締まった。
「教えてくれて、ありがとう」
騎士たちは一礼すると、王都への帰路についた。最後にもう一度だけ、先頭の騎士が振り返り、俺と目が合った。軽く頭を下げると、そのまま去っていった。
◆
宿の一室。窓の外は、すっかり暗くなっていた。イリアーゼは、先に部屋に入り、寝台の端に腰を下ろして待っていた。
少し距離を置いていた俺は、遅れて部屋に入ると、剣を隅に立てかけた。
「これから、どうする」
「あの噂、信じてみようと思う。王都方面に向かいながら探そう」
その方針に、異論はなかった。
「それと」
イリアーゼは、剣にちらりと目をやった。
「その剣、同調がもっと深まれば、負荷が和らぐかもしれない」
「本当か」
「うん、多分」
「多分って」
「完全な同調ってやり方があるの。文献に、書いてあった」
「効くのか」
「分からない。でも、やらない理由もない」
イリアーゼは、そこで一度言葉を切った。
「今夜、やってみたいの」
「完全な同調って、どういうことだ?」
◆
俺たちは寝台に入り、互いの服を脱がせ合った。
種族間の身体構造の違いから、通常の意味での性交渉は成立しない。それでも、その夜、二人はこれまでのどんな接触よりも深く、互いの体温と鼓動を分かち合った。
肌と肌が触れ合い、息が混じり合い、鼓動が重なる。イリアーゼの手が俺の背をゆっくりと撫でる。彼女の表情に熱はない。ただ、真剣に、そして穏やかに、この行為を受け入れているだけだった。
俺は拒まなかった。これが、彼女との同調を完成させる唯一の道だと信じていたから。
◆
結局、あまり眠れないまま、朝を迎えた。隣で規則正しく上下する寝息を聞きながら、俺はずっと考え事をしていた。
「おはよー! って、あれ、レオン、もう起きてたんだ」
イリアーゼが、目を覚ますなり言った。それから、大きく伸びをする。
「よし、同調完璧になった感じする!」
いつもの調子だった。
「レオンのおかげだね。ありがとう」
飾り気のない、まっすぐな感謝だった。
だが俺には、その笑顔が、これまでのどんな言葉よりも、胸に堪えるものだった。
「……お前は、何とも思わないのか」
「え? 何が」
「昨夜のこと。俺たちがしたこと」
イリアーゼは、すぐには答えなかった。首を傾げたまま、視線がふっと宙に浮く。何かを探しているような、けれど探す先そのものが見当たらないような、そんな間だった。
「……何とも、っていうのが、何を指してるのか、ちょっと分かんない」
「そういう意味じゃない」
「じゃあ、どういう意味?」
問い返す声に、はぐらかす響きはなかった。ただ、俺の言葉の輪郭を、指先でなぞるように確かめている――そんな仕草だった。彼女の中に、俺の問いを受け止める場所そのものが、最初からないだけだった。
俺は、それ以上、何も言えなかった。
沈黙が、少しだけ長くなった。イリアーゼは、答えを探すのをやめたのか、ふっと表情を緩めると、伸びをするように肩を回した。
「まあ、いいか。とにかく、王都に急ごう。ヴァルガ、放っておけないしね」
イリアーゼはそう言って、屈託なく笑った。
その笑顔を見ていると、もう言葉は出てこなかった。気づけば、彼女を抱きしめていた。
『……レオン、どうしたの?』
昨夜のことは、同調を完成させるための行為だったはずだ。イリアーゼには、誰かを愛するという感情そのものが存在しない。それでも、彼女が俺を大事に思ってくれていることだけは、疑いようがなかった。俺だって、彼女のことは大切に思っている。信頼している。大事だと思っている。
『……私、ここにいるよ』
なのに、昨夜の行為だけは、どうしても素直に受け止められなかった。必要だったと分かっている。それでも、何かが引っかかって離れない。説明のつかない感情が、胸の奥に居座っている。
イリアーゼは一瞬、身体を硬くしたあと、ためらいがちに腕を回して、俺の背中を、ゆっくりと撫でてくれた。
しばらくして、彼女は困ったように呟いた。
『……レオンは、甘えん坊だね』
その声は、いつもの軽さの中に、ほんの少しだけ優しさが混じっていた。
しばらくの間、俺はそのまま、彼女の体温を感じていた。身体の奥に、かすかな温もりが流れているような気がした。
それを感じているうちに、胸の奥に残っていたざわつきが、潮が引くように収まっていった。
気づけば、いつもの自分に戻っていた。
◆
王都方面へ向かうと、噂通りの村があった。
家の壁が抉れ、屋根の一部が焼け落ちている。住人たちは、まだ避難先から戻り切っていないようだった。
「……この爪痕」
イリアーゼが、崩れた家の壁を見つめながら呟いた。
「ヴァルガのものか」
「うん、間違いない。それに、まだ新しい」
「王都に向かってる、ってことだよな」
「多分ね」
イリアーゼは、俺の顔を見た。
「急ごう、レオン」
「ああ」
◆
俺たちは、休むことなく王都への道を急いだ。城壁が見えてきた頃には、地響きのような咆哮が届いていた。城壁の一部が、既に崩されている。
剣を構えながら、俺は口にした。
「……考えてみれば、これ、王命だからやってるわけじゃないよな」
「うん、違うね」
迷いのない答えだった。
「王に命じられたから戦うんじゃない。ヴァルガを放っておいたら、またどこかの村が襲われる。だから倒す。それだけ」
「そうだな」
ヴァルガは、想像を超える巨躯だった。全身を覆う黒い鱗。天を突く角。一歩ごとに大地を震わせる重量感。
「行くよ、レオン」
イリアーゼが詠唱を始めると、これまでで最大の光の紋様が、地面いっぱいに広がった。竜に似た姿の精霊が、咆哮と共に現れる。
「今までで一番、力が入ってる感じがする」
「同調が完璧だと、これくらい変わるのか」
「うん。……でも」
声に、微かな翳りが混じった。
「剣が近くにあるせいで、精霊への魔力供給に、余計な負荷がかかってる。長引かせると、まずいかも」
「……どのくらい、もつ?」
「そんなに長くは。だから、手早く決める」
精霊がヴァルガに突撃した瞬間、俺の身体に、奇妙な感覚が走った。
見えているわけじゃない。それでも、精霊が今どこにいて、次にどこへ動こうとしているのかが、肌の奥で分かった。
ヴァルガの一撃を、精霊がわずかに身を翻してかわす。俺は、その隙が生まれる場所を、動きが起きるより先に知っていた。
考えるより先に、身体が動いていた。懐に飛び込み、渾身の一撃を叩き込む。だが、致命傷には至らない。
「イリアーゼ、精霊をもっと強くできるか!」
振り返ると、イリアーゼの顔から、既に血の気が引き始めていた。
「……いけ、る」
声に、明らかな無理があった。剣の負荷と、精霊の維持、その両方が、彼女の魔力を容赦なく削っていた。
彼女なら、やれる。
『任せる!』
イリアーゼの目が、一瞬、大きく開いた。
「うん。……見ててよ」
イリアーゼの詠唱が、震える声で紡がれる。精霊の輪郭が、最後の力を振り絞るように、一段と濃くなった。
その瞬間、俺の中に、これまで感じたことのない感覚が流れ込んできた。
さっき感じた、動きの気配を追う感覚とは、質が違う。今度は、精霊そのものの輪郭が、まるで自分の身体の一部であるかのように、内側から分かる。ヴァルガの鱗の隙間、力が抜けた瞬間の微かな緩み――視覚では捉えきれない情報が、同調を通じて、直接、体に刻まれていく。
『レオン、目、つぶって!』
咄嗟の指示だった。
理由を考える間もなく、俺は目を閉じた。視界が闇に落ちても、混乱はなかった。むしろ、余計な情報が消えた分、イリアーゼから流れ込んでくる感覚が、一段と鮮明になった。
『今!』
声と同時に、剣を突き出した。
目を開けていれば、きっと一瞬迷っていたはずだ。だが、今は違う。切っ先が向かうべき場所を、体がすでに知っていた。確かな手応えとともに、切っ先が何かを貫く感触があった。
長い咆哮のあと、ヴァルガは地響きを立てて崩れ落ちた。
同時に、イリアーゼの膝が、がくりと折れた。
「イリアーゼ!」
剣を放り投げ、駆け寄った。崩れ落ちる寸前のイリアーゼを、抱き止める。
その身体は、燃えるように熱かった。だが、意識はあった。
「……勝った?」
「勝った。お前のおかげだ」
「よかった……」
イリアーゼはへなへなと俺の腕の中に沈み込みながら、それでも笑おうとしていた。
「魔力切れ、二回目。ちょっと、恥ずかしいね」
「恥ずかしがってる場合か。喋るな、休め」
彼女の呼吸は、しばらく荒いままだった。
さっきまで、あれほど大きな精霊を動かしていたとは思えないほど、腕の中の彼女は軽かった。




