灰喰いの噂
隊を失った冒険者が、まず知ることになるのは、自分の値段だ。
Fランクの単独で受けられる依頼を、俺は掲示板の端から端まで数えた。
『荷運び(東門〜倉庫) 銅貨八』
『溝さらい(南区) 銅貨十二』
『薬草採取(半日) 銅貨十』
『猫の捜索 銅貨五』
猫が銅貨五枚である。猫の名誉のために言っておくと、これは猫が安いのではなく、俺が安いのだ。
俺は溝さらいを受けた。
理由は単純で、いちばん高かったからだ。銅貨十二枚。宿代が一泊銅貨十枚なので、丸一日働いて、寝床と汁物一杯ぶんが残る。前世の派遣時代でもここまで直球の日銭生活はしなかった。あのころは少なくとも、部屋があった。
*
十日ほど、そういう仕事を続けた。
荷を運び、溝をさらい、薬草を摘み、猫を探した。猫は見つからなかった。三日目に飼い主のほうが「戻ってきました」と言いに来た。銅貨五枚は満額もらえた。世の中には理不尽な成功もある。
その十日で、俺の腕は少しだけ太くなった。
これは本当だ。荷運びというのは要するに毎日重い物を持ち上げる作業なので、続けると体は変わる。ヨナスの木剣を十七回受けて痺れていた手首が、いまは麻袋を四つ担いでも震えない。
——遅すぎる成長だ。
十五で、荷運びで、ようやく手首が固まる。マルクは同じ十日で、たぶん狼の三頭も倒している。
それでも、体が変わっていくのは、悪い気分ではなかった。
数字にならないものが自分の中に増えていくというのは、Fのままの人間にとって、けっこう大事なことだと思う。
*
十日目の朝、ギルドの空気が変わっていた。
掲示板の前に人が集まっている。
「灰喰い、また出たってよ」
「北の街道か?」
「今度は東だ。商隊が三つやられた」
灰喰い。
盗賊団の名前だ。この一か月、少しずつ噂が大きくなっていた。最初は「西のほうに荒っぽいのが出た」くらいの話だったのが、いまは名前がついて、被害の数が数えられている。
名前がつくというのは、たぶん、そういうことだ。
「セイン、聞いたか?」
マルクだった。相変わらず大剣を背負って、相変わらず嬉しそうな顔をしている。
「はい。灰喰いですよね」
「ギルドが討伐依頼出すって噂だぜ。Dランク以上だってさ」
「そうですか」
「俺、来月Dに上がれそうなんだ。間に合うかな」
「間に合うといいですね」
俺は本心からそう言った。
言ってから、自分でも少し驚いた。前世のころなら、こういう場面で心の底が少しだけ黒くなっていたと思う。うまくいく人間の話を聞いて、自分と比べて、勝手に沈む。得意技だった。
いまは、あまりそうならない。
理由は簡単で、比べる余地がないくらい差がついているからだ。並んでいれば嫉妬もするが、視界の外にいる相手には嫉妬すらできない。
……これはこれで、けっこう悲しい発見だった。
*
その日の依頼は、下水だった。
正確には「南区下水路の点検補助」。役所からの委託で、報酬は銅貨十五。溝さらいより高い。高い理由は、現場に行けばすぐわかった。
臭い。
町の下水路は、石造りの立派なものだった。ハルグは古い町で、この下水は二百年以上前に造られたものだという。造りはいい。造りはいいのだが、二百年ぶんの何かがそこを流れ続けている。
「新入りか」
案内役の役人は、五十がらみの疲れた男だった。名をベルンといった。
「はい」
「吐くなら最初に吐いとけ。中で吐くと片づけが増える」
「……努力します」
「努力するんだな。じゃあ行こう」
*
作業自体は単純だった。
水路の壁に亀裂がないか、詰まりがないか、格子が壊れていないかを見て回る。ベルンが記録を取り、俺が灯りを持ち、詰まりがあれば掻き出す。
灯りを持つ係だ。
指先に蝋燭ほどの明かりを灯す術が、この日はじめて実用に供された。老魔術師の顔が浮かんだ。あの人はきっと、教え子が下水でこれを使うとは思っていなかっただろう。
「便利だな、それ」
ベルンが言った。
「油代が浮く」
「はあ」
「うちの役所は油代でいつも揉めてる。あんた、来月も来い」
俺は、思ったより深く頷いた。
必要とされる、というのは、内容を問わず効くものらしい。
*
三時間ほどで、南区のあらかたを回り終えた。
戻ろうとしたところで、ベルンが足を止めた。
「そっちは行かなくていい」
彼が顎で示したのは、水路の分かれ道だった。
本流から左に折れる、細い枝道。俺たちが歩いてきた通路より少し狭くて、水がほとんど流れていない。
「使ってないんですか」
「使えないんだ。奥で塞がってる」
「詰まってるんですか」
「いや、塞いである」
俺は灯りを上げた。
暗がりの奥に、通路が続いているのが見えた。壁は同じ石造り。ただ、こちらのほうが古い。石の積み方が違う。
「誰が塞いだんですか」
「知らん」
ベルンは肩をすくめた。
「俺がここに来る前からだ。記録にも残ってない。役所の連中は『昔からああだ』としか言わん」
——昔からああだ。
聞き覚えのある言い回しだった。
理由も知らないまま鱗を守る家。理由も知らないまま神の話をしない世界。そして、理由も知らないまま塞がれている水路。
この世界は、誰も理由を知らない案件をやたらと抱えている。
「見てきてもいいですか」
「なんで」
「点検の範囲かなと」
ベルンはしばらく考えて、それから手を振った。
「五分だ。深追いするな」
*
枝道は、思ったより長かった。
三十歩ほど進むと、空気が変わった。
臭いが薄い。水が動いていないからだ。代わりに、乾いた土のにおいがした。地下なのに、乾いている。
そして、突き当たりに、それはあった。
——壁?
いや、違う。
石板だった。
通路をちょうど塞ぐ大きさの、一枚の石板。周囲の石壁とは色も質も違う。明らかに後から嵌め込まれたものだ。
灯りを近づける。
表面に、文字とも図形ともつかないものが、びっしりと刻まれていた。
細い線が幾重にも重なって、円を描き、円が別の円と交わり、その交点にまた別の記号が置かれている。ハルグの町では見たことのない意匠だった。学問所の教科書でも見た覚えがない。
術式だ。
魔法の心得がほとんどない俺でも、それくらいはわかった。魔力を通した痕跡が、線の内側に沈んでいる。
つまり、誰かが、意図して、ここを封じた。
——なら。
俺は手を伸ばした。
自然に、そうしていた。この一か月半、結び目を見つけるたびにやってきたことだ。指先を寄せれば、どこがどう噛み合っているのかが、勝手にわかる。
石板に、指が触れた。
——何もない。
冷たい石の感触だけがあった。
引っかかりがない。糸口がない。「ここ」がない。
俺は少し驚いて、もう一度触れた。掌全体を当ててみた。線をなぞってみた。円の中心に指を置いてみた。
何も、返ってこない。
蔦の絡んだ塀と同じだ。鳥の巣と同じだ。
——嘘だろ。
これは、明らかに人が作ったものだ。誰かが目的を持って、時間をかけて、丁寧に刻んだものだ。俺の靴紐より、祠の布切れより、よほど強い意思が込められている。
なのに、俺の指はそれを「結び目」だと認識しない。
そういうことか、と思った。
俺の手が触れられるのは、たぶん「縄」なのだ。縄と、錠と、紐と、編んだ髪と、封鉛。物と物とを縛りつけているもの。
術式は、そうじゃない。あれは物を縛っているんじゃなくて、たぶん、もっと別のものを縛っている。
だから届かない。
俺は手を下ろした。
役に立たない、と自分に言うのは、この日で何度目だろう。数えるのはやめている。
灯りを持ち直して、戻ろうとした。
——そのとき。
指先が、また動いた。
勝手にだ。
石板ではない。石板の、下のほう。
床に近い位置。石板と石畳の境目のあたり。
そこに、何かがある。
俺はしゃがみ込んで、灯りを近づけた。
石板の下端に、鎖が回してあった。
床の環に通して、石板の縁の穴に通して、しっかりと縛ってある。二百年ぶんの汚れをかぶって、ほとんど床と同化していたが、たしかに鎖だ。
そして、鎖が交わる箇所には、封鉛が押し当てられていた。
俺の指が、そこで止まった。
——ここは、届く。
はっきりと、わかった。
錠前を見つけたときと同じ感触。ミラの足首を見つけたときと同じ感触。
ここは、解ける。
つまり——この石板は、術式だけで塞がれているんじゃない。
誰かが、術式を刻んだうえで、わざわざ鎖をかけ、交わった箇所を封鉛で固めている。
そんなことをする理由は、ひとつしか思いつかなかった。
術式だけでは、足りなかったのだ。
「おーい、時間だぞ」
遠くでベルンの声がした。
俺は封鉛から指を離して、立ち上がった。
「……いま行きます」
自分の声が、少し掠れていた。
戻る道すがら、俺はずっと、同じことを考えていた。
——誰が。
何を。
こんなに念入りに、閉じ込めておきたかったんだ。




