怪我をしていない夜
知らせを持ってきたのは、ミラだった。
「隊、解散だって」
ギルドの一階、俺が掲示板を眺めているところに、彼女は横から来て、そう言った。前置きも枕もなかった。この人はいつもそうだ。
「……ガレスさんは」
「王都の傭兵団に入るって。ロブとケイもついてく。あたしは、しばらく一人でやる」
「ダンさんは」
「実家に帰った。脚が治っても、たぶん前線は無理だから」
そうですか、と俺は言った。
他に言うことが思いつかなかった。
ミラはしばらく黙って、それから俺の顔を見た。
「ガレス、あんたにも声かけようとしてたよ」
「え」
「やめたけどね」
「……そうですか」
「傭兵団は、戦える奴しか要らないの。あたしが止めたんじゃない。ガレスが自分で気づいた」
正確な人だ、と思った。
嘘をつかないという点で、ヨナスに似ている。この世界には、俺に本当のことを言う人が多い。それはたぶん、恵まれているということなのだと思う。効き目はそれなりに強いが。
「あんた、これからどうすんの」
「わかりません」
「ふうん」
ミラは肩をすくめて、掲示板に貼ってある依頼を一枚剥がすと、受付のほうへ歩いていった。
背中に、俺は言った。
「あの」
「なに」
「髪、変ですか。この前の」
「変よ。三か所ほどけてた」
「すみません」
「別に」
ミラは振り返らずに手を振った。
*
その日は、依頼を受けなかった。
宿に戻って、机の前に座って、しばらく壁を見ていた。
貯えを数える。宿代と食費で、あと二十日ぶんくらい。荷運びの依頼を毎日こなせば、収支はぎりぎり合う。合うが、それだけだ。
Fのまま、荷運びで、二十日。
そのあとは?
——帰るか。
考えて、すぐに打ち消した。帰ったところで、屋敷には俺の居場所がない。というより、俺が家を出た理由がそれだ。
打ち消してから、俺は気づいた。
いま俺、家のことを考えたな。
*
紙を出した。
手紙を書こうと思った。
母に。
家を出てから一か月半、一通も出していない。ハルドが「便りは月に一度でも」と言っていたのに、俺は一度も書いていなかった。書かなかった理由は、特にない。特にないというのが、いちばん悪い理由だ。
『母上へ』
ペンが止まった。
何を書けばいいのか、まるでわからない。
元気にしています。——嘘ではない。ただ、元気の内容が「宿で壁を見ている」なので、書いた瞬間に嘘になる気がする。
冒険者として働いています。——これも嘘ではない。箱を開ける係だったが。
隊が解散しました。——書けるか、これ。
俺は紙を丸めて、新しい紙を出した。
『母上へ お変わりありませんか』
まあまあだ。
『こちらは変わりなく過ごしております』
——鱗、変わりなし。
初代様の帳面が頭をよぎった。
三百年、同じ一行を書き続けた男の記録。あれを笑ったのは、つい五日前のことだ。俺はいま、それと同じことをしようとしている。中身のない一行を、心配させないためだけに書こうとしている。
丸めた。
『母上へ』
『短剣、使っています』
嘘だ。抜いたのは一度きりで、それも振れずに終わった。
丸めた。
『母上へ』
『俺は、優しくありません』
——これは。
書けた。書けたが、これを受け取った母がどんな顔をするかを想像して、俺は手を止めた。
夜、屋敷の広間で、母がこの一行を読む。何のことかわからず、何度も読み返す。それから、たぶん少し泣く。理由もわからないまま。
俺のせいで。
丸めた。
*
気がつくと、丸めた紙が机の上に七つ転がっていた。
七通。
前世では二百通だった。あのころは電子の下書きだったから、丸める必要すらなかった。溜まっていく感覚もなかった。だから二百まで行けた。
紙のほうが、まだ良心的だ。七つで済んでいる。ゴミが目に見えるというのは、たぶん、そういう効能がある。
俺はペンを置いた。
——二回目なんだよな、これ。
同じことを、また、している。
生まれ変わって、種族も国も名前も変わって、それでも俺は同じ机の前で、出さない手紙を書いている。魂というのは、たぶん、こういうところが一番よく残る。
蝋燭を消した。
暗くなって、俺は横になった。
泣くつもりはなかった。泣くほどのことは何も起きていない。隊が解散しただけだ。隊が解散するのは、この町では珍しくもない。
なのに、目の奥が熱くなった。
声は出さなかった。
これだけは、二回分の人生できっちり身についている。うつ伏せになって、腕に顔を押しつければ、音は出ない。壁の薄い家で十年、宿の壁も似たようなものだ。
しばらくして、眠った。
*
——ばさ。
翼の音だった。
顔を上げると、闇があった。
上も下もない場所。あの二晩と同じ闇だ。一か月半ぶりだった。
彼女は、もうそこにいた。
銀の髪。白い翼。表情のない顔。
前と、少しだけ違った。
近づいてこなかったのだ。
少し離れたところに立って、こちらを見ている。降りてこようとして、やめて、また少し寄って、また止まる。判断がつきかねているような、そういう動き方だった。
やがて、彼女は近づいてきた。
手を伸ばす。
前と同じだ。指先が、俺の顔の高さで一度止まる。目の下あたり。
今度は、迷いが長かった。
それから彼女は手を下ろし、俺の腕を取って、掌を当てた。
温かい光が、腕に沈んでいく。
治癒の術。
「……怪我、してませんよ」
俺は言った。
一か月半前と同じ台詞だ。返事も同じだろうと思っていた。つまり、返事はないだろうと。
彼女は、手を止めなかった。
止めずに、言った。
「痛くは、ありませんか」
俺は、息を吸った。
なんでもない質問だった。治癒術師が患者にする、いちばんありふれた質問だ。診療所でダンも聞かれていた。
なのに、喉の奥が詰まった。
痛くはありませんか。
——どこが、とは聞かれなかった。
「……痛いです」
言ってしまってから、自分でも驚いた。
彼女の手が、止まった。
顔が、わずかに動いた。表情と呼べるほどではない。ただ、こちらを見る角度が、ほんの少し変わった。
「どこが」
「わかりません」
「わからない」
「はい」
俺は、笑おうとした。上手に笑えたと思う。夢の中でもこの技術が働くのは、我ながら大した執念だ。
「あの、たぶん、大したことじゃないんです。前も——」
前も、そうだった。
前の人生でも、ずっとこうだった。どこが痛いのかわからないまま、誰にも言わないまま、部屋の中で十年——
「前も?」
「……いえ」
俺は口を閉じた。
言いかけて、やめた。
いつものやつだ。喉の途中で全部ほどけて、消える。言ったところで困らせるだけだ、と頭のどこかが判断する。判断が速すぎて、俺自身が追いつけない。
彼女は、待たなかった。
急かしもしなかった。
ただ、俺の腕に手を当てたまま、しばらくそこにいた。何もない腕を、光で温め続けていた。治すものが何もないのに、術を止めなかった。
それから、静かに手を離した。
一歩下がる。
白い翼が、ひとつ広がる。
「——まだ、早い」
前と同じ言葉だった。
でも今度は、俺のほうを見て言った。
*
目が覚めた。
夜明け前だった。
俺は起き上がって、腕を見た。何も変わっていない。傷もない。
それから、枕に手をやった。
——濡れていた。
前は、乾いていた。
泣いたまま眠ったのに、朝には目の縁も頬も枕も、きれいに乾いていた。そういうこともあるだろう、と思って忘れた。
今日は、濡れている。
はっきりと、冷たく。
俺は枕を裏返して、しばらく座っていた。
意味はわからなかった。
わからないまま、ひとつだけ、思ったことがある。
——今日は、消されなかった。




