便利屋
報告書を書くのに、二時間かかった。
冒険者が役所に上げる書類というのは、思っていたより様式が厳しい。「発見した物」「位置」「状態」「所見」。所見の欄がいちばん困った。
『石板に術式らしき刻印あり。下端に鎖および封鉛あり。何者かが意図的に封鎖したものと思われる』
書いてみると、ずいぶん物々しい。実際には、汚い下水の突き当たりで十五歳がしゃがんでいただけの話である。
ベルンは俺の書類を読んで、しばらく黙っていた。
「鎖があったのか」
「はい」
「二十年ここにいるが、知らなかった」
「たぶん、汚れで床と同じ色になっていたので」
「……そうか」
彼は書類を折りたたんで、懐に入れた。
「上に出す。返事が来るまで動くなよ」
*
返事が来るまで、六日かかった。
六日である。
その間、俺は溝をさらい、荷を運び、また猫を探した。今度は本当に見つかった。屋根の上にいた。銅貨五枚をもらった。町の猫と俺の関係は、着実に深まっている。
六日目の朝、ベルンが宿まで来た。
「許可が出た。開けていい」
「早かったですね」
「早い?」
「はい」
ベルンは俺をまじまじと見た。
「あんた、役所を知らんな。あれで早いんだ。書類が四つの部屋を回った」
「四つ」
「水路課、営繕課、財務、それから町長室だ。町長室で三日止まった」
「町長は何をしていたんですか」
「悩んでいた」
三日悩んで「開けていい」だけを返してくる役職があるらしい。前世でもそういう人は何人か見た覚えがある。
*
その日の午後、俺たちは再び下水へ潜った。
今度はベルンのほかに、営繕課の職人が二人ついてきた。何かあったときのためだという。
「何かって、何ですか」
「水だ」
職人の一人が言った。
「塞いだってことは、向こうに何かが溜まってる可能性がある。開けた瞬間に押し寄せてきたら、あんた流されるぞ」
言われてみればそのとおりだった。
俺は自分の考えの浅さを反省しつつ、命綱を腰に巻かれるがままにした。この人たちが来てくれてよかった。俺一人だったら、たぶんいま頃、下水と一緒に南の川へ出ていた。
*
石板は、六日前と同じ場所にあった。
灯りをかざす。刻まれた線が、光を吸い込むように黒い。
俺は膝をついて、下端の鎖に手を伸ばした。
「触るぞ」
「はい」
職人が縄を握り、ベルンが記録板を構えた。
指先が、鎖に触れる。
——ある。
六日前と同じ感触だ。はっきりした「ここ」がある。
鎖は、床の環と石板の穴を通して、八の字に回してあった。結び方が古い。俺の知らない結び方だ。ヨナスにも教わっていない。ただ、知らない結び方でも、噛んでいる場所は同じ理屈でわかる。
問題は封鉛だった。
鎖の交差点に、拳大の鉛の塊が押し当ててある。これも「結び」の一部だ。鉛がある限り、鎖はほどけない構造になっている。
——二つある。
鉛と、鎖。順番がある。
鉛を先に。
俺は鉛の塊に指を当てた。
割ろうとしたのではない。割る力なんてない。ただ、この鉛が「くっつけている」場所を探した。
——ここ。
鉛と鉄が触れている、その面。
指が、そこに沈む感覚があった。
かちり。
音がしたわけではない。ただ、頭の中で錠が落ちるときと同じ音がした。
鉛の塊が、ぼろりと崩れた。
「おい」
職人が声を上げた。
「触っただけだぞ、いま」
「はい」
「触っただけで割れるか、それ」
「わかりません」
答えになっていない。答えられないのだから仕方がない。
次は鎖だ。
八の字の交差点。噛んでいるのは一箇所。そこを、ほんの少しだけ逃がす。
三秒。
じゃら、と音を立てて、鎖が床に落ちた。
*
石板は、動かなかった。
「あれ」
「重いんだよ」
職人が呆れたように言った。
「鎖を外したからって勝手に開くか。押すんだ、押す」
三人がかりで押した。俺も混じったが、正直、戦力としては数えないでほしい。
ずず、と石が鳴った。
石板が、指二本ぶんだけ動いた。
その隙間から、空気が漏れた。
——冷たい。
乾いた土のにおいではなかった。水のにおいだった。それも、下水のそれとはまるで違う。冷たくて、鉄っぽくて、かすかに甘い。
「……こりゃあ」
ベルンが灯りを近づけた。
隙間の向こうに、闇があった。
そして、その闇の底で、何かが動いている音がした。
「水だ」
職人が言った。
「流れてる」
*
石板を完全にどけるのに、さらに一時間かかった。
現れたのは、通路だった。
俺たちが立っている下水路より、明らかに古い。石の積み方が違う。壁の高さも違う。何より、そこを流れている水が、透明だった。
湧き水の水路だった。
町の北にある丘の伏流水が、地下でここを通って、南へ抜けている。二百年前——あるいはもっと前に造られた、上水路。
ハルグは慢性的に水が足りない町だ。井戸は浅く、夏になると南区の井戸が枯れる。俺が屋敷にいたころから、そういう町だと聞いていた。
その水が、ここにあった。
石板一枚の向こうで、二百年、誰にも使われずに流れ続けていた。
*
役所は、大騒ぎになった。
翌日には水路課の人間が十人来て、測量が始まった。三日後には町長が視察に来た。半月後には南区の井戸に水が戻る見込みだという。
俺は、そのあたりから完全に蚊帳の外だった。
蚊帳の外なのは構わない。俺がやったのは、鎖をほどいたことだけだ。水路を造ったのは二百年前の誰かで、それを見つけたのはベルンの二十年の勤めがあってこそだ。
ただ、一つだけ、どうしても気になっていることがあった。
石板の術式は、消えていなかった。
鎖を外して、鉛を割って、石板をどけて、それでも刻まれた線はそのまま残っていた。俺の指は相変わらずそれに触れられない。
そして、誰も、それを不思議がらなかった。
「昔の連中は魔除けを彫るのが好きだったんだ」と職人は言った。
「湿気止めじゃないか」と水路課の男は言った。
俺は聞いた。「上水路を塞ぐのに、あんな術式が要りますか」
誰も、答えなかった。
答えなかったというより、質問の意味がわからないという顔をされた。
——その話は、なさいませんよう。
ハルドの声が、また頭の隅で鳴った。
*
報酬は、銀貨二枚だった。
Fランクの俺にとっては、破格である。溝さらい二十回ぶん。宿代の二十日ぶん。
ランクは、上がらなかった。
ギルドの受付で理由を聞くと、担当官は少し困った顔をして言った。
「ええと、これは討伐でも護衛でもないので……実績の欄に書けないんです」
「はあ」
「功績としては記録します。ただ、昇級の判定は別の表を使うので」
「別の表」
「戦闘、危険度、達成難度。この三つで点数を出すんです。今回は、そのどれにも入らなくて」
わかりやすい説明だった。
わかりやすすぎて、反論のしようがなかった。
俺は礼を言って、受付を離れた。
*
「便利屋」と呼ばれるようになったのは、その週からだ。
言い出したのは酒場の誰かで、悪意はなかったと思う。実際、そのあと荷運びの依頼が増えた。「あの便利屋の坊主に頼め」という感じで、名指しの依頼が来るようになった。
収入は増えた。
ランクは、Fのままだった。
掲示板の昇級欄には、マルクの名前がまた載っていた。
『マルク・ドーラン E→D』
灰喰いの討伐依頼は、Dランク以上。彼は間に合ったわけだ。
俺は、その紙をしばらく眺めていた。
嫌な気持ちには、あまりならなかった。
そのことのほうが、少し嫌だった。
比べる気力すら湧かないというのは、慣れなのか、諦めなのか、たぶんその両方で、どちらにしても健康な状態ではない。
「——ねえ」
背後から、声がした。
*
振り返ると、少女が立っていた。
背は俺より少し低い。淡い緑がかった金の髪を、長い三つ編みにして肩から前に垂らしている。旅装の上から、革の筒を提げていた。書類か、巻物を入れるやつだ。
耳が、長い。
エルフだ。生まれて初めて見た。
「あなた」
彼女は、俺の顔ではなく、俺の首から下げた登録証を見ていた。
「セイン・ヴェルグ。Fランク」
「……はい」
「南区の下水を開けたのは、あなたよね」
「そうですけど」
彼女は一歩詰めてきた。
近い。
「役所の報告書を読んだの。『石板に術式らしき刻印あり』って、あなたが書いたって聞いた」
「書きました」
「じゃあ聞くけど」
エルフの少女は、俺をまっすぐ見上げた。
目の色が、薄い緑だった。まばたきをしない。
「あなた、術式が読めるの?」




