記録者リーナ
「読めません」
俺がそう答えると、エルフの少女の目が、目に見えて曇った。
「読めない」
「はい」
「じゃあ、なんで報告書に『術式らしき刻印』って書いたの」
「見たことのない模様だったので、たぶん術式だろうと」
「……当てずっぽう?」
「当てずっぽうです」
彼女は額に手を当てて、天を仰いだ。三日ぶんくらいの落胆が、その一動作に凝縮されていた。俺が何かを台無しにしたわけではないのに、なぜか申し訳ない気持ちになる。この感じは前世でもよく味わった。
「ごめんなさい、時間を取らせて」
彼女は言って、踵を返しかけた。行ってしまう。
なぜだかわからないが、俺は口を開いていた。
「でも、鎖は解けました」
彼女の足が止まった。
「……鎖?」
「石板の下に、鎖と封鉛がありました。それは解けたので、石板を動かせました」
「解けた、って」
「ほどきました」
「鍵は」
「使ってません」
彼女がゆっくりと振り返った。
「もう一度言って」
「鍵は使っていません」
沈黙が落ちた。さっきまで俺を見限りかけていた目が、まったく違う色になっていた。
*
「食堂に行きましょう。奢るわ」
「はあ」
「いいから来て」
腕を掴まれた。エルフというのは、もっとこう、木漏れ日の中で静かに佇んでいる種族だと思っていた。学問所の教科書にもそう書いてあった。教科書というのは、あてにならない。
ギルドの隣の食堂で、俺たちは向かい合った。彼女は麦粥を二つ頼んで、片方を俺の前に押し出すと、腰の革筒から巻物と炭筆を取り出した。準備が早い。
「あなた、名前は」
「セイン・ヴェルグです」
「歳」
「十五」
「わたしはリーナ・シルヴァレイン。歳は百二十七」
麦粥の匙が止まった。
「……百二十七」
「そう」
「あの」
「なに」
「見た目、俺と同じくらいですけど」
「エルフだもの」リーナは当たり前のように言った。「百二十七なんて、うちの里ではまだ子ども扱いよ。門番のじいさんには『小娘』って呼ばれてる」
「じいさんは、おいくつで」
「八百くらい」
俺は匙を置いた。情報の桁が合っていない。八百歳から見れば百二十七は小娘で、その小娘から見れば十五の俺は何なのだろう。卵か。
「……失礼ですけど、俺、あなたにとって何に見えます」
「若い」
「それだけですか」
「他に何があるの」
なるほど。エルフは残酷である。悪気なく残酷というのが、いちばん処理に困る。
*
「で、解錠の話」リーナは炭筆を構えた。「実演して」
「ここでですか」
「ここで」
彼女は自分の三つ編みを肩から前に回すと、その先を留めている革紐を指した。
「これ」
「……いいんですか」
「早く」
俺は手を伸ばして、革紐に触れた。ある。三つ編みそのものと、それを留めている紐。二つの結びが重なっている。紐のほうだけ。ひとつ、ふたつ。ほどけた。
「ほら」
「え——」
言い終わる前に、三つ編みの先が、ぱらりと解けはじめた。留めが外れたので、当然そうなる。
「ちょっと!!」
「あっ、すみません」
「編み直すのに十分かかるのよこれ!!」
「本当にすみません」
前にも同じことで怒られた気がする。俺の技能は、女性の髪に対して構造的な問題を抱えているらしい。
リーナは器用に髪を編み直しながら、それでも目だけは俺の手を見ていた。
「今の。魔力を使ってないわね」
「使ってないと思います。俺、魔力はほとんどないので」
「なのに解けた。触っただけで」
「触った、というか——」俺は言葉を探した。「どこが引っかかってるか、指でわかるんです。そこを、ちょっとだけ逃がしてやると、あとは勝手にほどけます」
リーナの手が止まった。編みかけの髪を持ったまま、彼女は俺を見た。
「……それ、記録に残ってる技能じゃない」
「そうらしいです。ギルドの記録係にも、前例がないと言われました」
「そうじゃなくて」彼女は身を乗り出した。「エルフの里の記録にもないの。わたし、里の書庫を全部読んだのよ。八百年ぶんある。『解錠』はあった。盗賊の技能でしょ。でも、あなたのは違う」
「字が違うと言われました」
「字だけじゃない」リーナは炭筆で巻物に何か書きつけた。速い。「盗賊の開錠は、錠の構造を知る技能なの。だから錠にしか効かない。あなたのは、鎖にも、封鉛にも、髪にも効く。……つまり、対象が『物』じゃない」
俺は、匙を持ったまま彼女を見た。
「そうです」
「え?」
「そうなんです。俺もそう思ってました」
はじめて、話が通じた気がした。三日かけて実験して、紙に一行だけ書いた結論。誰にも話していない結論。
「解けるのは、誰かが結んだものだけです。石は解けない。木も解けない。蔦も、鳥の巣も解けない。でも、人が縛ったものは解ける。……たぶん俺が触ってるのは、物じゃなくて、結んだ意思のほうです」
リーナは、しばらく黙っていた。それから炭筆を置いて、両手で顔を覆った。
「あの」
「待って。整理させて」
*
麦粥が冷めるころ、彼女はようやく顔を上げた。
「話すわ。わたしのこと。……わたしは記録者よ。里を出て、遺跡を回って、記録を取っている」
「ギルドの依頼で?」
「まさか。誰にも頼まれてない」彼女は自分の革筒を、少し乱暴に叩いた。「勝手にやってるの。自費で。だから貧乏」
麦粥を奢られたことを、俺は少し反省した。
「なんで、そんなことを」
「うちの里ではね」リーナは言った。「誰も、昔の話をしないの」
俺の背筋が、少しだけ伸びた。
「昔の話、というのは」
「大戦の前後。千年前あたり。里には八百歳を超えた人が何人もいるのよ。祖母なんて千二百よ。あの時代を生きてるの。実際に、その目で見てるの」
「見てるんですか」
「見てる。なのに、誰も話さない」彼女の指が、巻物の縁を撫でた。「子どものころから聞いてる。何度も。何十回も。『まだ早い』って言われるの。それだけ。百二十七年ずっと」
まだ、早い。俺は、口の中でその言葉を転がした。夢の中で銀髪の少女が言った言葉と、同じだった。
「里だけじゃないわ」リーナは続けた。「人間の町でも同じ。神殿がない。祈る場所がない。神様の名前を誰も知らない。それを誰も変だと思ってない。おかしいと思わない?」
「思います」
即答してしまった。リーナが目を見開いた。
「……あなた、思うの?」
「はい。実は最近、同じことを考えていて」
俺は下水の話をした。上水路を塞ぐには過剰すぎる術式のこと。石板をどけても術式が消えなかったこと。そして、それを誰も不思議がらなかったこと。「上水路を塞ぐのにあんな術式が要りますか」と聞いたら、質問の意味がわからないという顔をされたこと。
リーナは、一言も口を挟まずに聞いていた。聞き終えて、彼女は静かに言った。
「そう。そういう顔をされるの」
「されますよね」
「されるのよ」
俺たちは、しばらく黙って麦粥を食べた。生ぬるかった。味は、悪くなかった。
*
「セイン」
「はい」
「依頼したいの」リーナは背筋を伸ばした。「ハルグの東、丘を三つ越えたところに遺跡があるの。地図には載ってない。わたしは去年見つけた」
「調べに行ったんですか」
「三回行った。三回とも、入れなかった」
「入れない」
「入口が封じてあるの。石の扉で、術式が刻んである。わたしは術式を読めるから、内容はわかる。『閉じよ』って書いてあるだけ」
「読めるんですか」
「読めるわよ。エルフだもの。読めるけど、解けないの」彼女は自分の手のひらを見た。「解呪の術は使えない。里で習わなかった。習おうとしたら、また『まだ早い』って言われたわ」
俺は、なんと言えばいいかわからなかった。
「で、術師を探してたんですか」
「探したわ。町に三人いた。三人とも断られた。『あんな古い術式は触れない』『何が出るかわからない』『金額が合わない』」
「まあ、そうでしょうね」
「そうなの。そうなのよ」リーナは息を吐いた。そして、俺を見た。「でも、あなたは術式を解く必要がないかもしれない」
「え」
「石の扉よ。石板と同じ。もし——もしあの扉も、術式だけじゃなくて、何かで留めてあるなら」
俺は、下水の石板を思い出した。刻まれた線には、指が届かなかった。でも、床すれすれの鎖には、届いた。
「……確かめてみないと、わかりません」
「確かめてほしいの」
彼女は言った。それから、少しだけ言い淀んだ。百二十七年ぶんの経験で言い淀むところを見ると、ここが本題らしい。
「先に言っておくわ。報酬は安い。銀貨三枚。……たぶん、この町の相場だと荷運び十日ぶんくらい」
「まあ、そうですね」
「危険はある。中に何があるかわからないから」
「はい」
「それでも」
リーナは俺を見た。まばたきをしなかった。
「あなた以外に、頼める人がいないの」




