副産物
雪の上に、影が二つ落ちた。
俺は、顔を上げた。レクスも、同じ方向を向いた。谷の斜面の、少し上。白い翼と黒い翼が、そこに立っていた。
「呼んでません」俺は言った。
「はい」リリスが答えた。「呼ばれておりません」
「じゃあ、なんで来たんですか」
「あなた様が、書かれたからです」
俺は、坑口のほうを見た。昨夜書いた紙は、まだ火のそばにある。この谷から見えるはずがない。読めるはずもない。
「見えるんですか」
「見えません。……ですが、わかります。あれの名が書かれると、わたくしどもには、届きます」リリスは言った。「千年で、八度目でございます」
八度。俺は、その数を頭の隅に置いた。置いた理由は、自分でもよくわからなかった。
背後で、雪を踏む音がした。三人が坑口から出てきていた。ガルドが先頭で、フェンリスがその横、リーナが少し後ろにいた。三人とも、武器を構えていない。構えても意味がないことを、荒れ地で学んでいる。
「よお」ベルゼが手を上げた。誰も答えなかった。
「愛想がねえな」
「一か月半、どこにいたんですか」俺は聞いた。
「見てた」
「見てただけですか」
「見てただけだ」
俺は、そこで一度、息を吸った。聞きたいことが、順番待ちをしていた。どれから聞くべきかを迷って、それから、迷うのをやめた。
「あのとき、なぜ助けなかったんですか」
「まだ、その時ではないからです」リリスが答えた。
「同じ答えですね」
「同じでございます」
「その『時』は、いつ来るんですか」
「……」
「来ないんじゃないですか」
リリスは、答えなかった。
彼女は、雪の上に立っていた。翼を畳んで、両手を前で組んで、いつもと同じ姿勢で。表情はない。もともと、変わるものがない。
俺は、そこで気づいた。——この旅で、この人の顔は一度も変わっていない。
*
「じゃあ、別のことを聞きます」俺は言った。
「はい」
「昨夜、俺は紙に十四行書きました。そのうち、七行目の言葉を、俺は声に出せません。仲間も出せません。ドワーフの記録係は、八十年出せませんでした」俺は、二人を見た。「あなたたちは、出せますか」
「神の真名だけは、全種族の喉で止まる。人間も、エルフも、ドワーフも、獣人も、竜人族も。紙には書けても、声にした瞬間、音になる前にほどける」
俺は、そこまで言ってから、ベルゼを見た。「だから、誰も『神』以外の呼び方をしない。知らないからではなく、呼べないからです」
ベルゼが、笑った。
「試してみるか?」
「試してください」
「いいぜ」
彼は、翼を畳んだまま、雪の上に立っていた。そして、あっさりと言った。
「千年前、五種族が神を殺した」
雪が、音を吸っていた。そのはずなのに、その一言だけが、やけにはっきり聞こえた。
俺の後ろで、フェンリスが唸った。低い、獣の音だ。ガルドが片膝を落とした。リーナは、両手で口を押さえていた。
俺は、動けなかった。聞いたのだ。この旅で、誰も言えなかった言葉を、いま、耳で聞いた。
「……もう一回」
「なんだよ」
「もう一回、言ってください」
「二回は言わねえ」ベルゼは、肩をすくめた。「一回で十分だろ。……そこの三人、顔が死んでるぞ」
「なんで、あなたたちは言えるんですか」
その質問に答えたのは、リリスだった。
「わたくしどもが、あれの一部だからでございます」
「一部」
「はい」
「神の、ですか」
「はい」
*
彼女は、そこで一歩前に出た。雪が、彼女の足元で音を立てなかった。踏んでいるのに、沈んでいない。
「順に、申し上げます。大戦のとき、神々は殺されました。……あなた様の書かれたとおりでございます」
「はい」
「神が死ぬとき、そこには『残り』が出ます」
「残り?」
「火が消えるとき、煙が出るように」彼女は言った。「意志が、残ります」
「意志」
「はい。……神は、意志の集まりでございました。守りたい、という意志。変えたい、という意志。生かしたい、という意志。滅ぼしたい、という意志。……そういうものが、一柱の中に、いくつも入っておりました」
「人間と同じですね」
「はい。同じでございます」彼女は頷いた。「殺されたとき、そのうちの二つが、外へこぼれました」
守りたい、と。変えたい、と。
「それが、あなたたちですか」
「はい」リリスは、自分の胸に手を当てた。「わたくしは、光の意志の残りでございます。ベルゼは、闇の意志の残りです」
「光とか闇とか、そういう区別があるんですか」
「ございません」彼女は、あっさり言った。「便宜でございます。……守りたい、を光と呼び、変えたい、を闇と呼んだのは、後の者です。わたくしどもが名乗ったのではありません」
「誰が呼んだんですか」
「知りません」
「またそれですか」
「またそれでございます」
「俺たちは、副産物だ」ベルゼが言った。
「え」
「そう呼ばれてた。千年前にな。……神が死んで、そのついでに出たもんだ。誰も作ろうとしてねえ。誰も望んでねえ。ただ、出た」彼は、自分の黒い翼を指で弾いた。「鉄を打つとな、削りかすが出るだろ。あれと同じだ」
「そんな言い方は」
「事実だ」
*
ガルドが、雪の上で立ち上がった。
「……削りかすじゃねえ」
俺は驚いて、そちらを見た。彼は、ベルゼを睨んでいた。
「あ?」
「削りかすじゃねえと言ってる」ガルドは言った。「鍛冶の話をするなら、俺のほうが詳しい。削りかすってのはな、鉄を減らして出るもんだ。減った分だ」
「同じだろうが」
「同じじゃねえ」彼は、はっきり言った。「お前らは、減った分じゃねえ。……あれが死ぬときに、あれの外へ出たもんだろうが。それは、残った分だ」
ベルゼが、黙った。数秒だった。それから、彼は横を向いた。
「……ドワーフは、うるせえな」
「うるせえのは俺の種族じゃねえ。俺だ」
*
俺は、話を戻した。
「あなたたちは、千年、何をしていたんですか」
「見ておりました」リリスが答えた。
「何を」
「世界を」
「ずっと?」
「ずっとでございます」
「どうやって」
「あちこちに、おりました。人の目には映らぬようにして、町に、村に、街道に。……交代で、というわけではございません。二人とも、常に、どこかにおりました」
「千年、休まずですか」
「わたくしどもは、眠りません」
俺は、その言葉の重さを測ろうとした。測れなかった。
千年。眠らずに、見ている。何もせずに。前世の俺は、十年、部屋にいた。あれは長かった。あの十年を、百倍やるということが、どういうことなのか。
「何のために、見てたんですか」
「あなた様を、待っておりました」
「俺を」
「依代を、でございます」
「千年、それだけを?」
「それだけを」
*
俺は、そこで一つ、聞いてしまった。
聞くつもりはなかった。順番も考えていなかった。ただ、口から出た。
「じゃあ、あなたたちは、何のために生まれたんですか」
雪が、降り始めていた。細かい雪だった。谷の斜面に、静かに落ちている。二人の翼にも落ちて、そこで消えていた。
リリスは、答えなかった。
俺は、待った。彼女は、いつも即答する人だった。この旅で、この人が答えに詰まったのを、俺は一度しか見ていない。遺跡で「前例はいたのか」と聞いたときだ。あのときは、一拍だった。
今度は、一拍では終わらなかった。五秒。十秒。
「リリスさん。聞こえてますか」
「聞こえております」
「じゃあ」
「わたくしどもは」
彼女は、言いかけた。そして、止まった。
俺は、その止まり方を知っていた。ハルドが、そうだった。ガルドが、そうだった。リーナが、そうだった。オズルが、八十年そうだった。顔から、表情が抜ける止まり方。
だが、彼女は違った。彼女の顔には、もともと表情がない。抜けるものがない。だから、俺には、はっきり見えた。
——何かが、浮かんでいた。
「ベルゼ」リリスが言った。
「なんだ」
「……あとは、あなたが」
「俺は下手だ」
「わたくしも、下手でございます」
黒翼の少年は、しばらく彼女を見ていた。それから、俺のほうを向いた。そして、いつもの意地の悪い笑い方を、途中まで作って、やめた。
「セイン。その質問な」
「はい」
「千年、誰にも聞かれてねえんだよ」




