監視者の千年
雪が強くなったので、坑内に戻った。
二人も入ってきた。リリスは翼を消し、ベルゼは畳んだままだった。坑口は低いので、彼は身を屈めて入った。翼が壁を擦って、埃が落ちた。
「狭えな」
「文句を言うなら外にいてください」
「言ってねえよ。感想だ」
オズルは、二人を見て、動かなかった。
「じいさん、驚かねえのか」ベルゼが言った。
「百二十四だぞ」
「それが理由になるか」
「なる。……八十年、口が動かんかった男だ。翼の生えたのが二人来たくらいで、いまさら驚くか」
彼は、そう言って、火に手をかざした。
*
俺は、火の向こうに座った。
「千年の話を、聞かせてもらえますか。何をしていたか、順に。……全部は無理だと思いますけど、覚えているところだけ」
「全部、覚えております」
彼女は、そう言った。俺は、聞き返した。
「全部?」
「はい」
「千年ぶん、ですか」
「千と、十七年ぶんでございます」
俺は、そこで少し黙った。
「……日にちも?」
「はい」
「じゃあ、たとえば、五百年前の春分の日に何をしていたか」
「南の街道におりました。雨が降っておりました。商隊が三つ通りました。荷はいずれも塩でございます。……その日、街道で子が一人生まれました。母親は名をエリンと申しました。子は三日後に死にました」
坑内が、静かになった。
「あなた、それを全部」
「はい」
「千年ぶん」
「はい」
「……忘れないんですか」
「忘れられません」彼女は、いつもと同じ顔で言った。「わたくしどもは、眠りません。眠らぬものは、忘れません。……人が忘れるのは、眠るからでございます」
「そうなんですか」
「そう聞いております」
「誰から」
「知りません」
ベルゼが、鼻を鳴らした。
「こいつのは病気だ」
「病気?」
「全部覚えてるってのはな、便利じゃねえんだよ。……俺は忘れる。正確に言えば、置いてくる。覚えてても仕方ねえもんは、どっかに置いて歩く」
「置けるんですか」
「置ける。俺は置ける。こいつは置けねえ」彼は、リリスのほうを顎で示した。「だから、俺のほうがまだマシだ」
*
「話を戻します」俺は言った。「千年、あなたたちは見ていた。それは聞きました。……見ているだけでしたか」
リリスの手が、わずかに動いた。膝の上で組んでいた指が、一度だけ組み替えられた。
「いいえ」
「何かしたんですか」
「……いたしました」
「例を挙げてもらえますか」
「はい」彼女は、少し考えるような間を置いた。それから、こう言った。「ハルグより北東へ、六日ほどの場所に、ミルナという村がございます」
「ミルナ」
「はい。……戸数は四十二。人口は二百七です」
「その村が、どうかしたんですか」
「わたくしが、守っております。八十年ほど」
俺は、そこで火を見た。八十年。人間の一生ぶんだ。
「どうやって守るんですか」
「飢えさせません」リリスは言った。「凶作の年は、他所から運びます。病が出れば、その日のうちに治します。獣が出れば、始末いたします。争いが起きれば、間に入ります」
「……それ、全部ですか」
「全部でございます」
「八十年、一度も飢えてないんですか」
「一度も」
「一人も死んでない?」
「寿命の者は、死にます。それ以外では、八十年で一人も」
俺は、その数字を頭の中で並べた。二百七人。八十年。飢饉なし。疫病なし。獣害なし。争いなし。前世の日本でも、そんな村はない。
「……すごいですね」
「はい」
彼女は、そう答えた。初めて、彼女の声に、何かが混じった気がした。誇り、と呼ぶには薄い。だが、明らかに何かが乗っていた。
「あなたが、いなくなったら、どうなるんですか」
その質問に、彼女は答えなかった。
*
「ベルゼは」俺は、そちらへ振った。「あなたも、何かしたんですか」
「した」
「何を」
「壊した」彼は、壁に背を預けていた。「三年前だ。南に、ヴァレンって港町がある。知ってるか」
「名前だけ」
「あそこは、貴族が七家で仕切ってた。港の使用料と、船の税と、荷の検めを全部握ってた。……三代続いて、腐ってた」
「腐ってた、というのは」
「税が六割だ」
「六割?」
「六割だな。あと、逆らった漁師は船を焼かれる」
「それで、何をしたんですか」
「力を貸した」
「誰に」
「元奴隷の若えのがいた。カイルって名だ。二十歳そこそこだったな」ベルゼは言った。「そいつに、力をやった。……俺の力を、少し分けた」
「どうなりましたか」
「三か月で、七家が全部倒れた」
「勝ったんですね」
「勝った」
「じゃあ」
「三年経った」彼は言った。「いま、あの町の税は五割だ」
俺は、その数字の意味を、少し遅れて理解した。
「……一割しか」
「一割しか下がってねえ」
「なんでですか」
「知らねえ」彼は、あっさり言った。「わからねえんだよ。壊した。全部壊した。七家は残らず倒れた。……なのに、いまの町は、前とだいたい同じだ。誰が上にいるかが変わっただけだ」
「その、カイルって人は」
「上にいる」
*
坑内が、また静かになった。火が、細くなっていた。フェンリスが薪を足した。彼は何も言わなかった。ずっと黙って聞いていた。
「……千年だぞ」
ベルゼが言った。俺に向けたのではなかった。壁に背を預けたまま、天井のほうを見ていた。
「千年、俺たちは何かをした。こいつは村を守った。俺は町を壊した。他にもある。数え切れねえほどある」
「はい」
「で、いまの世界を見ろ。神殿がねえ。神の名前がねえ。誰も昔の話をしねえ。エルフは森に籠もって、ドワーフは炉を守って、獣人は折れた刃を拝んでる。……千年前と、何が変わった」
彼は言った。
「千年、俺たちは何もしてねえ」
俺は、何も言わなかった。言うことが、思いつかなかった。代わりに、頭の隅に置いておいたものを、そこで取り出した。
*
「リリスさん。さっき、八度目だと言いましたよね」
彼女の指が、また組み替えられた。
「申しました」
「あの言葉が書かれたのが、千年で八度目だと」
「はい」
「じゃあ、俺の前に、七人いたんですね」
「……」
「その七人は、どうなったんですか」
長い沈黙があった。雪の音が、坑口から入ってきていた。降る音というものが本当にあるのかどうか、俺は知らない。だがそのとき、たしかに何か聞こえた。
「亡くなりました」
「七人ともですか」
「七人ともでございます」
「病気で?」
「さまざまでございます」
「……さまざま」
「はい」
俺は、そこで、頭の中の何かが引っかかるのを感じた。引っかかったのは、彼女の答え方ではなかった。数字だった。
「一つ、確認させてください。その七人も、依代でしたか」
「はい」
「あなたたちは、その七人のところへ行きましたか」
「参りました」
「七度とも?」
「七度とも」
俺は、火を見た。そして、そこで初めて、それを声に出した。
「じゃあ、なんで、まだ復活してないんですか」
坑内が、静かになった。
「千年、あなたたちは待っていた。復活させたかった。……そして、八回、依代が現れた」俺は言った。「七回、失敗したってことですか」
「……」
「七回とも?」
「……」
「七回とも失敗するって、そんなことがありますか」
リリスは、答えなかった。ベルゼも、答えなかった。
俺は、二人を見ていた。雪が、坑口の外で降っていた。火が、細く燃えていた。
そして、俺の頭の中で、これまでのの何かが、初めて別の形に並び替わろうとしていた。




