何もできない
「散るな! 背中合わせだ!」
ガレスの声が飛んだ。
五人が動いた。訓練された動きではないが、慣れた動きではあった。ガレスが前、斧のダンが右、槍のロブが左、弓のミラが内側、治癒見習いのケイがその後ろ。
俺は、その輪の外にいた。
「セイン! 縄!」
「はい!」
言われて、はじめて自分の仕事を思い出した。
背負っていた縄を下ろす。狼を追い込むための仕掛けだ。木と木のあいだに低く張って、足を取る。ガレスたちが囲いを狭めて、こちらへ追い込んでくる——そういう手はずだった。
はずだった。
数が、違う。
打ち合わせでは五、六頭という話だった。いま藪の中で光っている目は、その倍はある。
「張れるか!」
「張ります!」
手が震えていた。
縄を木の根に回して、結ぶ。結び方は覚えている。ヨナスに叩き込まれた。ロープワークだけは、屋敷にいたころから褒められていた分野だ。人生でいちばん褒められた技能が縄結びである。
一本目を張り終える。
二本目に取りかかったところで、悲鳴が上がった。
*
音のほうを見て、俺は動けなくなった。
狼が、ダンの脚に食いついていた。
さっきまで、たしかに輪の中にいたはずのダンが、地面に引き倒されている。斧が手から離れて、少し先に転がっている。狼はそれを気にもせず、太腿の肉を咥えたまま、体をひねって引きずろうとしていた。
赤いものが、思ったよりずっと勢いよく飛んだ。
「ダン!」
ガレスが剣で叩いた。狼が離れた。すぐに別の一頭が横から入ってくる。
ロブの槍が二頭目を突き上げる。三頭目が飛びかかる。ケイが叫びながらダンの脚に手を当てる。ミラが矢を放つ。放ちながら下がる。下がりながらもう一度放つ。
俺は、縄を持ったまま、そこに立っていた。
——動け。
思った。ちゃんと思った。
短剣を抜いた。母がくれたやつだ。柄の革はすり切れていて、掌によくなじむ。
抜いたところで、腕が止まった。
近づけば、届く。三歩か、四歩。それだけの距離だ。狼の横腹はがら空きで、俺の短剣は短いが、それでも刃だ。刺せば刺さる。
三歩。
たった三歩。
——動け。
体は、動かなかった。
代わりに、指先に明かりを灯した。老魔術師に習った、唯一の術。
蝋燭ほどの光が、じわりと浮かぶ。
狼は、一頭もこちらを見なかった。
そうだろうな、と思った。夜行性の獣に蝋燭を見せて何がどうなるというのだ。使いどころがあるとすれば、暗い廊下を歩くときくらいのものだ。
俺は明かりを消した。誰にも見られていなかったのが、せめてもの救いだった。
怖かったのだと思う。たぶん、それが正確なところだ。でも、そのときの俺の頭にあったのは恐怖という言葉ですらなくて、もっと薄い、もっと聞き慣れた何かだった。
俺が行っても、どうにもならない。
行かないほうが、みんなのためだ。
——ああ。
これだ。
前世で、俺が何百回も自分に言い聞かせた言葉と、一字一句同じだった。あの部屋のドアの前で、母の足音を聞きながら、俺がずっと唱えていたやつだ。
俺が出ていっても、どうにもならない。
出ていかないほうが、母のためだ。
*
「セイン!! 縄!!」
怒鳴られて、我に返った。
ミラだった。
矢筒が空になったミラが、後退しながら弓で狼を殴っている。その足首に、縄が絡まっていた。
——一本目だ。
俺が張った縄だった。
追い込むために低く張ったやつ。狼の足を取るために。人が下がってくることを、俺は計算に入れていなかった。
ミラの足首に、輪が食い込んでいる。もがけばもがくほど締まる結び方だ。俺が結んだ。ヨナスに褒められた、丁寧な結び方で。
狼が一頭、こちらに顔を向けた。
体が、勝手に動いた。
さっき三歩が出なかったのに、このときは五歩出た。走った。滑り込むようにしゃがんで、縄に手をかけた。
——ここ。
指の腹が、答えを教えてくれる。
食い込んでいるのは一箇所だけだ。輪の内側で、繊維が一本、噛み込んでいる。それを逃がしてやれば、あとは自然にほどける。
爪の先を、そこに差し込む。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
ほどけた。
「!」
ミラが後ろへ跳んだ。狼の顎が、さっきまで彼女の脚があった空間を噛んだ。歯の鳴る音が、真横で聞こえた。
「引くぞ!! 全員下がれ!!」
ガレスの声。
俺は転がるようにして立ち上がり、走った。
走るのだけは、速かった。
*
町に戻ったのは、日が落ちてからだった。
ダンは診療所に運ばれた。脚は残るらしい。ただ、しばらくは歩けない。半年は動けないだろうとケイが言っていた。
依頼は失敗。報酬はなし。むしろ診療代でパーティは赤字だ。
ギルドの一階、隅の卓で、俺たちは黙って座っていた。
誰も俺を責めなかった。
ロブが「数が違いすぎた」と言い、ケイが「情報がおかしかった」と言い、ガレスが「俺の判断ミスだ」と言った。それで話は終わった。
俺のことは、話に出なかった。
出るほどのことを、していない。
「セイン」
ガレスが、俺のほうを見た。
「ミラの縄、お前が解いたんだってな」
「……はい」
「助かった。あそこでミラがやられてたら、隊は保ってなかった」
ミラも顔を上げて、小さく頷いた。
「ありがと。あんた、速かった」
「いえ」
「お前がいて助かったよ、坊主」
——お前がいて助かった。
俺は、頷いた。
上手に笑えていたと思う。
でも、頭の中はやけに静かで、そこにはひとつのことしか浮かんでいなかった。
あの縄を張ったのは、俺だ。
つまり俺は、自分が作った危機を、自分で片づけただけだ。差し引きゼロ。むしろ縄を張らなければミラは転ばなかったのだから、正確にはマイナスからゼロに戻したにすぎない。
それを、助かった、と言ってもらえた。
いい人たちだ。
本当に、いい人たちだと思う。
*
宿に戻って、俺は寝台に腰を下ろした。
蝋燭をつける気にもならなくて、窓から入る月明かりだけで、しばらくぼんやりしていた。
手を、持ち上げる。
右手。何の変哲もない手。剣だこができない手。三歩が出なかった手。
この手にできたのは、結び目をひとつ解くことだけだった。
しかも、自分で結んだやつだ。
「……解錠」
声に出してみた。
前例がない技能。誰も使い方を知らない技能。
要するに、こういうことなのだと思う。
俺の手は、誰かが結んだものにしか触れない。石は割れない。骨は断てない。狼の喉には届かない。ただ、結ばれたものを、ほどく。
それだけだ。
そのそれだけで、今日、一人ぶんの脚を守った——という言い方も、たぶんできる。できるが、それを自分で言い出すのは、いくらなんでも図々しい。
俺は手を下ろした。
前世で、俺は「何もできない人間」だった。
今世では、少しだけ違う。
何もできないわけじゃない。
できることが、あまりに小さいというだけだ。
——どっちがマシなんだろうな。
しばらく考えて、たぶんどっちもマシではない、という結論に落ち着いた。前世の俺なら、この結論を出したところで布団に潜って三日は出てこなかったと思う。今日はそれができない。明日も仕事だからだ。
これを成長と呼んでいいのかどうかは、わからない。ただ、布団に潜れないというだけで、人はけっこう起きていられるものらしい。
窓の外で、犬が一度だけ鳴いた。狼ではない。ただの犬だ。それがわかるくらいには、俺も少しは森を知ったらしい。
一日で覚えたのが、鳴き声の聞き分けだけというのは、なかなかの成果だと思う。
俺は横になって、目を閉じた。
その夜、夢は見なかった。




