調停者はいなかった
坑内は、静かだった。
火が小さくなっていた。誰も薪を足さなかった。三十一枚の板が、リーナの膝の前に並んでいる。俺が書き取った紙が、その横に積んであった。
「わかることを、並べましょう」俺は言った。
「並べてどうするの」
「埋まるかもしれません」
俺は、新しい紙を出した。炭を持って、書いた。
『一、四種族が五年かけて武器を四万二千本作った』『二、獣人は前線を担当した』『三、五つ目の参加者がいたが、削られている』『四、対象は削られている』
書きながら、俺は自分の手が止まらないことに気づいていた。三日前、俺はガルドに「あの紋章は何か」と聞いた。彼は言えなかった。俺も言えなかった。リーナも言えなかった。
いま、俺は書いている。
「リーナさん。戦のあと、何が残りましたか」
「……何も」
「そうじゃなくて。記録に」
彼女は、板を見た。
「戦後の記録がないの。この写しは、作業完了で終わってる。……戦がどうなったかは、一行もない」
「勝ったか負けたかも?」
「書いてない」
「じゃあ、他の書庫は」
「同じよ」彼女は言った。「里の書庫も、人間の学問所も、全部『大戦』のあとから始まってる。……あなた、覚えてる? わたし、遺跡で言ったわよね。わたしたちが持ってる記録は、全部、大戦のあとのものだって」
「覚えてます」
「あれ、逆なのよ。大戦の前がないんじゃないの。大戦そのものがないの」
俺は、その言葉を書いた。『五、大戦そのものの記録が、どこにもない』
*
「オズルさん」俺は坑口のほうへ声をかけた。「一つ、確認させてください」
「言えんぞ」
「言わなくていいです。頷くか、首を振るかだけでいいですか」
老ドワーフが、こちらを向いた。しばらく、俺を見ていた。そして、ゆっくりと言った。
「……それは、考えたことがなかった」
「駄目ですか」
「やってみる」
俺は、聞いた。
「削られた『対象』は、人間ですか」
オズルの首が、横に振られた。
「エルフですか」
横に振られた。
「ドワーフ」
横。
「獣人」
横。
「五つ目の種族」
そこで、彼の首が止まった。彼は、動かなかった。頷きもせず、振りもしなかった。
「……それも、駄目みたいですね」
「駄目だな」彼は言った。「頷こうとすると、首が動かん。……面白いもんだ。八十年、口だけだと思っていた」
「じゃあ、種族ではないんですね」
「そう取っていい」
俺は、紙に書いた。『六、対象は、五種族のいずれでもない』
「じゃあ、何と戦ったの」リーナが言った。「魔物? 竜?」
「竜なら、竜と書くはずです」
「そうね」
「魔物なら、魔物と書きます」
「そうよね」
「書かないのは、書けなかったからじゃないです」俺は言った。「書いたのに、あとから削られたんです」
「削る理由がある相手、ってことか」
ガルドだった。彼は、火の向こうから動いていなかった。
「そうです」
「魔物の名前を、千年かけて削る奴がいるか」
「いません」
「竜の名前を、四十日ぶんの灰と一緒に消すか」
「消しません」
「じゃあ、なんだ」
*
俺は、そこで手を止めた。
書けるはずだった。ここまで、俺の手は止まらなかった。止まらないなら、書いてみればいい。俺は、炭を握り直した。
『七、対象は——』
そこまで書いて、俺は待った。手は、動いた。
『七、対象は——神々』
書けた。
炭が、紙の上で止まった。俺は、自分の書いた四文字を見ていた。
書けた。声には出ない。喉が動かない。三日前、ガルドが同じ場所で止まった。俺も止まった。リーナも止まった。なのに、手は動いた。
「……セイン」リーナの声が、震えていた。彼女は、俺の手元を覗き込んでいた。そして、紙を見た。見て、口を押さえた。
「読めますか」
「読める」
「声に出せますか」
「……無理」
「でも、読めますよね」
「読める。読めるわよ。ちゃんと読める」
彼女は、紙を指した。指が、震えていた。
「これ、書けるのね」
「書けました」
「どうして」
「わかりません」
俺は、続きを書いた。書けるとわかったので、全部書いた。
『八、五種族が、五年かけて武器を作り、神々のところへ行った』『九、獣人が前線に立った』『十、戦のあと、神殿は消えた』『十一、神の名は、どこにも残っていない』『十二、神像の顔は削られた』『十三、五つ目の種族も、削られた』
そこまで書いて、俺は最後の一行を書いた。
『十四、調停者は、いなかった』
*
坑内が、静かになった。
俺は、その紙を火のそばに置いた。四人が、順に覗き込んだ。
リーナは、もう読み終えていた。彼女は膝を抱えて、火を見ていた。
フェンリスが読んだ。彼は文字が得意ではない。指でなぞりながら、一行ずつ、時間をかけて読んだ。読み終わって、彼は俺を見た。
「……なあ。これ、俺の読み方が合ってりゃ」
「合ってると思います」
「勝ったのか、俺たちは」
その質問は、予想していなかった。
「わかりません」
「わからねえのか」
「戦のあとの記録が、ないので。……ただ」俺は言った。「神殿がありません。神の名前も残っていません。あの遺跡の像は、顔を削られていました。番人は千年、『守れ』とだけ命じられて歩いていました」
「それは」
「負けた側は、そういうことをされません」
フェンリスが、紙から手を離した。彼は立ち上がって、坑口のほうへ歩いていった。三歩で止まって、また戻ってきた。それを二回繰り返した。
「クソ。……なあセイン。俺は、祭壇を壊した男だ」
「はい」
「壊したときな、俺は何を壊してるか知らなかった。中に何が祀ってあるかも知らなかった。……いま、わかった」
「はい」
「わかったら、余計にわからねえ」彼は、自分の頭を掻きむしった。「俺の先祖が、前線に立ったんだろ。俺の先祖が、行ったんだろ。……なのに、なんで俺は、あの祭壇を拝んでたんだ」
誰も、答えなかった。
*
俺は、ガルドを見た。
彼は、紙を読んでいなかった。火の向こうに座ったまま、こちらを見ていない。膝の上に布包みを置いて、その上に手を乗せている。
「ガルド。ガルドさん」
「……読まねえ」
「え」
「読まねえよ。読まなくても、わかってる」
「知ってたんですか」
「知らねえ」
「じゃあ」
「知らねえが、わかってた」
彼は、そこで初めてこちらを見た。
「坊主。俺は九十二年生きた。うちの街で生まれて、うちの街で育って、炉を見て、鎚を握って、鉄を打った。……一度も、疑ったことがねえ」
「何をですか」
「なんで、うちの街に炉が二百もあるのかをだ」
俺は、息を止めた。
「あの街はな、山の斜面を七段に削って作ってある」ガルドは言った。「あんな作り方をする理由はねえんだよ。平地に作ったほうが安い。水も引きやすい。……なんで山を削ったと思う」
「……鉱脈が、あるからでは」
「鉱脈は、もう三百年前に尽きてる。尽きてるのに、二百の炉が残ってる」彼は言った。「俺は九十二年、それを変だと思わなかった」
*
坑内が、また静かになった。火が、細くなっていた。
俺は、三人を見た。リーナは膝を抱えている。フェンリスは立ったまま、頭を掻いている。ガルドは布包みに手を置いている。
三人とも、俺のほうを見なかった。
俺は、そのとき初めて理解した。
三人は、この四か月半、俺の前で何度も黙った。丘の上で。帰り道で。遺跡で。工房で。俺は、それを「言えないこと」だと思っていた。
違った。三人は、自分の先祖の話をされていたのだ。
人間は、鉄と炭と運搬を担った。エルフは、術式と付与を担った。ドワーフは、鍛造の一切を担った。獣人は、前線に立った。
俺の家は、竜の鱗を三百年守ってきた。リーナの里は、三千年、外を見ないと決めた。ガルドの街は、鉱脈が尽きても炉を二百残した。フェンリスの部族は、遺物の祭壇に子を捧げようとした。
全員だ。
俺は、火のそばの紙を見た。そこに書いた十四行が、四人ぶんの家の形をしていた。




