腕のいい鍛冶師
リーナは、二日目も歩けなかった。
一日目は担いだ。フェンリスが背負った。二日目の朝、彼女は「歩ける」と言って立ち上がって、三歩で座り込んだ。
「歩けねえだろ」
「歩けるわよ」
「座ってんじゃねえか」
「休憩よ」
「三歩で休憩する奴があるか」
結局、ガルドが担架を作った。木を二本切って、毛布を張って、それだけだ。四半刻もかからなかった。柄だけになった鎚の柄で木を叩いて、枝を落として、紐で組む。彼の手つきは、道具が減っても変わらなかった。
「意外と速いんですね」
「これは道具が要らねえ」彼は言った。「木と紐だ。それだけで組めるもんは、うちの一族は全部やる」
*
問題は、行き先だった。三日目の昼、俺たちは街道の分かれ道で止まった。
「南は王国よ」担架の上でリーナが言った。彼女は寝ていても記録を取ろうとするので、俺が炭筆を取り上げた。「北はドワーフの都市。東はエルフ。西は海」
「全部駄目じゃねえか」
「全部駄目ね」
「なあ、この世界、他になんかねえのか」
「ないわ。……あ、灰の大地があるけど」
俺は、そこでレクスを見た。彼女は、いつもの位置を歩いていた。俺の三歩後ろだ。話を聞いているのかどうかは、いつもどおりわからない。
「灰の大地は、駄目です」俺は言った。
「なんで」フェンリスが聞いた。
「たぶん、レクスがつらいので」
彼女の足音が、止まった。俺は振り返った。彼女は、こちらを見ていた。
「私は、平気」
「平気じゃないと思います」
「行ったことがない」
「知ってます。でも、行ったことがない場所を『行きたくない』と思うことは、あります」
彼女は、しばらく黙っていた。そして、こう言った。
「……うん」
それだけだった。だが、俺はそれで十分だと思った。四か月半、彼女が「うん」と言うのを、俺は何度も聞いてきた。同じ「うん」でも、中身が違うことがある。今日のは、そういうやつだった。
「じゃあ、どうすんだよ」フェンリスが言った。
「歩きます」
「どこへ」
「決まってません。……決まるまで、歩きます」
「そりゃ、決まってねえって言うんだ」
「はい」
「まあ、いいけどな」彼は肩をすくめた。「十六年、俺はそうやって歩いてた」
*
その夜、俺たちは林の中で野営を張った。
ガルドは、火から少し離れたところに座っていた。ヘルグ・ドゥーンを出てから、彼はずっとそうしていた。飯は作る。担架も組む。実務は全部やる。だが、火の輪の中には入ってこなかった。
その夜、彼は酒袋を出した。三日ぶりだった。俺は、それを離れたところから見ていた。
彼は、膝の上に布包みを置いていた。ボルドの遺した、剣ではないもの。それを、布ごと膝に乗せて、酒を飲んでいた。
しばらくして、彼が口を開いた。誰に向けたものでもなかった。俺は五歩離れていた。フェンリスは見張りで、もっと遠くにいた。リーナは眠っていた。
彼は、火を見ながら言った。
「……俺の爺さんの爺さんは、腕のいい鍛冶師だったらしい」
俺は、動かなかった。聞こえていることを、悟られたくなかった。悟られたら、彼は続けない。そういう人だ。
彼は、酒袋の口を締めた。それから、また開けた。飲まなかった。
「うちの家には、爺さんの爺さんの話が伝わってねえ。名前も知らねえ。何を打ったかも知らねえ。……ただ、腕がよかったってことだけが残ってる」
彼は、布包みを撫でた。
「妙な話だろ。腕がいいってのは、何を打ったかで決まる。何を打ったか伝わってねえのに、腕がよかったことだけ伝わってるってのは、おかしいんだよ」
俺は、黙っていた。彼は、それ以上言わなかった。酒を一口飲んで、袋を締めて、膝の上の布包みに手を置いたまま、火を見ていた。
*
夜半に、俺が見張りを交代した。
ガルドは、火のそばで横になっていた。眠っているようだった。俺が火に薪を足したとき、動く影があった。
レクスだった。
彼女は、いつもの見張り位置——外が見える場所——から立ち上がって、火のほうへ歩いてきた。そして、ガルドから三歩ほど離れたところに座った。
俺は、何も言わなかった。彼女も、何も言わなかった。
彼女は、ただそこに座っていた。膝を抱えて、火を見て、ときどきガルドのほうを見た。
四か月半、彼女はガルドに近づかなかった。彼が近づくと重心を落とした。飯を渡すときも、腕の長さぶん離れて受け取った。
いま、三歩だ。俺は、その距離をしばらく見ていた。
*
翌朝、俺たちは林を出た。街道に戻って、南へ一里ほど歩いたところで、フェンリスが立ち止まった。
「後ろだ」
「追手?」
「一人だ。……歩いてる。急いでねえ」
待った。四半刻ほどで、その姿が見えた。
ドワーフだった。老いている。トルグより背が低い。荷を背負っていて、その荷が体格に対して大きすぎた。歩き方が、少しふらついていた。
「オズルだ」ガルドが言った。
「知り合いですか」
「記録係だ。……八十年、街の記録を管理してる」
老ドワーフは、俺たちの十歩手前で止まった。そして、荷を下ろした。息が上がっている。
「……追いつくのに、三日かかった」
「走れよ」ガルドが言った。
「わしは百二十四だぞ」
「若えな」
「言うな」
オズルは、その場に座り込んだ。彼はしばらく息を整えてから、荷の紐を解いた。
中から出てきたのは、板を綴じたものだった。木の板を三十枚ほど、革紐で綴じてある。ドワーフの記録の形式だ。俺はヘルグ・ドゥーンで何度か見た。
彼は、それを地面に置いた。
「持っていけ」
「なんだこりゃ」ガルドが聞いた。
「写しだ」
「何の」
「大戦の記録の」
リーナが、担架の上で起き上がった。
「起きるな!」
「起きるわよ!! 大戦って言ったわよね!?」
「言った」
「見せて!!」
「見せる。だから、寝てろ」
*
オズルは、板の束を撫でた。
「これはな、うちの街が千年持っていたものだ。原本は封印区画の中にある。……いや、あった。あんたらが開けた区画の、さらに奥だ。あんたらは、そこまで行っておらん」
「奥があったのか」
「ある。武器の山の、そのまた向こうだ。……そこに、書庫がある」
俺は、息を止めた。
「書庫」
「そうだ。……千年前の記録が、そのままある」
「なんで、誰も」
「わしは入った。三度な」老ドワーフは言った。「記録係は、代々一人だけ入る。掟だ。……いや、掟じゃないな。掟にも書いておらん。ただ、先代の記録係から、そう申し送られる」
「読んだんですか」
「読んだ」
「じゃあ」
「言えん」
彼は、自分の喉を指した。
「口が動かん。八十年、動かん。……あんたら、その顔をするということは、心当たりがあるな」
「あります」
「そうか」彼は、少し笑った。疲れた笑い方だった。「だからな、これを写した。読めんことは、書ける。声にならんことも、手は動く」
俺は、その板の束を見た。三十枚。ドワーフの記録の形式で、板一枚に文字が二百ほど入る。三十枚で、六千字だ。千年ぶんの記録としては、少ない。だが、この世界のどこにも残っていないものだ。
「なんで、いま渡すんですか」俺は聞いた。「八十年、持っていたんですよね。なんで、いま」
オズルは、少し黙った。そして、こう言った。
「あんた、トルグに言っただろう。『あなたが埋めても、また誰かが来る』と」
「言いました」
「あれを聞いて、わしは八十年ぶりに、自分の仕事を考えた」彼は、地面に置いた板を見た。「記録係というのは、記録を守る者だ。わしは八十年、そう思ってきた。守るというのは、隠すことだと思っていた。誰にも見せず、燃やさず、湿らせず、次の代に渡す。それが守ることだと」
「違いましたか」
「違うな」彼は言った。「隠したもんは、記録じゃねえ。ただの荷物だ」
*
リーナが、担架の上で泣いていた。
音は立てていなかった。ただ、目から水が出ていた。彼女は自分でも気づいていないようで、板の束をじっと見ていた。
オズルは、それを見て、また少し笑った。
「エルフの嬢ちゃん。読めるか」
「……読めます」
「ドワーフの古字だぞ」
「読めます。里の書庫で、三十年前に覚えました」
「三十年か。……そりゃ、若えな」
彼は、立ち上がった。荷は、置いたままだった。
「じゃあな、オルムスン」
「オズル。あんた、街に戻れんのか」
「戻らん」老ドワーフは、あっさり言った。「記録係が記録を持ち出したんだ。戻れば処分だ。……まあ、百二十四だからな。処分される前に死ぬかもしれん」
「どこ行くんだ」
「知らん」彼は、南のほうを見た。「歩く。……決まるまで、歩く」
フェンリスが、吹き出した。
「なあ、じいさん。昨日、こいつも同じこと言ってたぞ」
彼は俺を指した。オズルは、俺を見た。それから、笑った。今度は、疲れていない笑い方だった。
「そうか。……なら、一緒に歩くか」




