五つ目の紋章
俺は、欠片を拾おうとした。
「置いてけ」
ガルドが言った。彼はまだ、そちらを見ていなかった。
「持ち帰らないんですか」
「置いてけ」
「証拠になります」
「なんの証拠だ」
俺は、答えられなかった。何の証拠になるのか、自分でもわからなかったからだ。五つ目の種族がいた証拠。それを誰かが消した証拠。そういうものだと思ったが、いざ言葉にしようとすると、何を証明したいのかが自分でも掴めなくなった。
「……ガルド。なんで、顔を背けたんですか」
彼は、動かなかった。しばらくしてから、こちらを向いた。俺の顔ではなく、俺の肩のあたりを見ていた。
「言えねえ」
「言えないんじゃなくて、言わない、じゃないんですか」
その質問に、彼は答えなかった。代わりに、口を開いた。開いて、何か言おうとして——止まった。喉が、上下した。もう一度開いて、また止まった。
「……坊主。今日は、違う」
「え」
「いつもは、言わねえだけだ。言おうと思えば言える。言わねえと決めてるだけだ」彼は、自分の喉を押さえた。「今日は、出ねえ」
俺の背中が、冷たくなった。
さっき、塊が俺を狙ったとき。俺たち四人は、同じ壁にぶつかった。俺の中にあるものが何であるかを、誰も口にできなかった。いま、ガルドはもう一度、同じ場所に立っている。あの紋章が何であるかを、彼は知っている。あるいは、知っていた。そして、言えない。
「リーナさん」
「……わたしも」彼女は、床に座り込んだままだった。顔が白い。地脈のない場所で精霊を呼んだせいだ。「わたしも、いま、頭の中に言葉があるの。形になってる。……口が動かない」
「なんの言葉ですか」
「言えたら苦労しないでしょ」
フェンリスが、唸った。
「なあ、これ、俺だけ何も浮かんでねえんだが。俺は、あの紋章に見覚えがねえ。頭の中に言葉もねえ。……ただ、腹の底が冷えてるだけだ」彼は自分の胸を叩いた。「お前らは、知ってて言えねえんだろ。俺は、知らねえまま冷えてる。……どっちがマシなんだろうな」
俺は、そこでレクスを見た。
彼女は、動いていなかった。俺たちが話しているあいだ、ずっと同じ場所に立って、床の欠片を見ていた。牙は消えている。震えも、いつのまにか止まっていた。
「レクス。それ、何かわかりますか」
「わからない」
「言葉は、出ますか。頭の中に、何か浮かんでますか」
彼女は、少し考えた。そして、こう言った。
「なにも。なにも、浮かばない。……でも」
彼女は、欠片を見たまま言った。
「ずっと、見ていたい」
*
俺たちは、欠片を置いて、上がった。
七段目の広場に出たとき、空が白み始めていた。夜通しだったのだ。そして、広場には人が集まっていた。
長老会だ。トルグと、両脇の二人。その後ろに、十数人のドワーフ。全員が武装していた。俺たちは、四十段の階段を上がりきったところで止まった。
「オルムスン。掟を破ったな」
「破った」
「言い訳は」
「ねえよ」
処分は、その場で言い渡された。ガルド・オルムスン、ならびに同行者四名。ヘルグ・ドゥーンより追放。以後、七都市いずれの門も通さぬ。七都市というのは、ドワーフの都市全部のことだった。
「不服はあるか」
「ある」ガルドが言った。「だが言わねえ」
「なぜだ」
「掟を破ったのは事実だ。処分に文句をつける筋合いじゃねえ」彼は言った。それから、こう続けた。「だがな、トルグ。あの下に何があったか、あんたは見に行くか」
「行かん」
「即答か」
「即答だ」
トルグは、俺たちの後ろの階段を一瞥した。そして、目を逸らした。
「……穴は、埋める」
「中身は」
「知らん」
「見もしねえで埋めるのか」
「そうだ」
「なんでだ」
「知らん」
俺は、その一往復を聞いていた。聞きながら、腹の底が重くなるのを感じていた。
この街の連中は、悪くない。トルグも悪くない。彼らは掟を守っている。掟には理由が書かれていない。だから、理由を知らないまま守っている。それだけだ。そして、その「それだけ」が千年続いた。
俺は、口を開いた。
「トルグさん。一つだけ」
「言え」
「あなたが埋めたあと、また誰かが来ます」
老ドワーフの眉が、動いた。
「あの広場の石畳に、術式が刻んでありました。数十年前のものです。ドワーフには見えません」
「……何を言っておる」
「三十七年ごとに来る連中がいます。町の下水にも、東の森にも、同じ手つきの細工がありました」俺は言った。「あなたが穴を埋めても、そいつらはまた来ます。そして、あなたの街の石に、あなたに見えないものを刻んで帰ります。……いままで千年、そうしてきたように」
トルグは、答えなかった。
彼は、俺を見ていた。両脇の二人も、後ろの十数人も、みんな俺を見ていた。誰も、何も言わなかった。
やがて、トルグが背を向けた。
「……日の出までに、門を出よ」
*
ヒルダが、門まで送りに来た。
四段目から一段目まで、彼女は俺たちと一緒に降りてきた。誰も止めなかった。止めれば彼女も処分されるはずだったが、街の連中はそれを見なかったことにしていた。
門の手前で、彼女は立ち止まった。
「ガルド。あんた、また何も言わずに出てくんだね」
ガルドは、答えなかった。ヒルダは、笑った。怒っていない笑い方だった。
「十一年前と同じだ。あのときも、あんたは何も言わなかった。葬式にも来なかった。手紙も来なかった。……あたし、十七だったんだよ」
「……そうだな」
「あたしはね、ガルド。あんたが父さんを殺したなんて、一度も思ってない。一度もだよ」
「知ってる」
「知ってるのに、なんで何も言わないの」
ガルドは、しばらく黙っていた。それから、こう言った。
「言うことが、ねえんだ」
「あるでしょ。ごめんとか、悪かったとか、会いたかったとか」
「……それは」彼は言った。「それは、俺が言っていいことじゃねえ」
ヒルダが、大きく息を吸って、吐いた。
「……それ、いつまで続けるの」
ガルドは、答えなかった。彼女は、それ以上何も言わなかった。俺たちに向かって「気をつけて」と言って、それから背を向けて、石段を上がっていった。一度も振り返らなかった。
*
その日、俺たちは南へ二十里歩いた。
ドワーフの七都市に入れない。人間の王国には審問団がいる。エルフの里は閉じている。行くあてが、なかった。
夜、街道から外れた岩陰で野営を張った。リーナは倒れるように眠った。三日寝込む、というのは正確だったらしい。フェンリスが見張りに立ち、ガルドは火から離れて座っていた。レクスは、いつもの位置にいた。
俺は、眠れなかった。火を見ながら、ヒルダの言葉を思い出していた。
——知ってるのに、なんで何も言わないの。
——それは、俺が言っていいことじゃねえ。
そのとき、意識が滑った。
*
前世だった。大学の、三年のころだ。サークルの部室。狭い部屋に、机が二つと、書棚が一つ。俺は、そこに七人いるうちの一人だった。
行き違いがあった。大したことではない。合宿の会計で、俺が立て替えた金の記録がずれていた。俺のミスではなかった。だが、俺が管理していたのは事実だった。
一人が、俺を疑った。
俺は、説明しなかった。
説明できたはずだ。手元に記録があった。誰がいつ払ったか、全部書いてあった。出せば、五分で終わる話だった。出さなかった。
なぜかと聞かれたら、たぶん、こう答える。出せば、俺を疑った人間が恥をかく。彼はいい奴だった。俺より人望があって、俺より場を回すのがうまくて、俺がいなくてもサークルは回るが、彼がいないと回らない。そういう人間に、恥をかかせたくなかった。
——というのは、後から作った理由だ。
本当のところは、たぶん、もっと簡単だった。こわかったのだ。
記録を出して、それでも信じてもらえなかったら、どうすればいいのかがわからなかった。出さなければ、その可能性はゼロだ。誤解されたままだが、否定される痛みはない。俺は、後者を選んだ。
その夜、俺は部屋で弁明のメールを書いた。三千字ほど書いた。三時間かけた。全部の日付と金額を並べて、誰がいつ何を払ったかを書いて、最後に「疑われて悲しかった」と書いた。
送らなかった。
翌週、俺はサークルに行かなくなった。誰からも連絡は来なかった。それで終わりだ。その半年後に、俺は部屋から出なくなった。
*
火が、爆ぜた。
俺は、現実に戻ってきた。夜だった。岩陰で、俺は膝を抱えて座っていた。フェンリスが少し離れたところで見張りに立っていた。ガルドは、まだ火から離れて座っていた。
俺は、その背中を見た。
——それは、俺が言っていいことじゃねえ。
同じだ、と思った。
俺は、あのとき記録を出さなかった。出さなかったから、俺は誰も守れなかった。俺自身も、俺を疑った人間も、その場にいた全員も。
出していれば、誰かが恥をかいた。恥をかいて、それでも、たぶんその後も一緒に飲んだ。そういうものだ。出さなかったから、全員がそのまま散った。
俺は、自分の膝を見た。そして、初めて、その形で自分に問うた。
——聞くだけで済ませてきたから、俺は何も守れなかったんじゃないか。




