ボルドの未完成品
四段目へ上がるのに、俺たちは階段を使った。
昇降機は使わなかった。ガルドが「あれは荷を上げるもんだ」と言ったからだ。石段は幅が広く、一段の高さが低い。ドワーフの脚に合わせて作られている。俺には歩きにくかった。
四段目は、工房区だった。
道の両側に、扉が並んでいる。全部の扉が開いていた。中から熱と音が漏れてくる。鎚の音、ふいごの音、水に鉄を漬ける音。歩いているだけで、顔が乾いた。
「暑いですね」
「三段目より二度は高い」ガルドが言った。「炉が二百ある」
「二百」
「昔は三百あった。人が減ったからな」
*
彼は、迷わなかった。
角を三つ曲がって、道の突き当たりで止まった。そこに、他より少し大きな扉があった。
開いていた。中から音がしている。誰かが使っている。
ガルドは、しばらくその前に立っていた。
「ここですか」
「ここだ」
「あなたの工房?」
「だった。十一年前まではな」
彼は、扉の中を覗こうとしなかった。ただ、扉の枠に手を触れた。指の欠けたほうの手だった。
そのとき、中から声がした。
「誰だい。仕事中だよ」
*
出てきたのは、若いドワーフだった。
女だ。俺と同じくらいの背丈で、肩幅は俺の倍ある。赤茶けた髪を後ろで固く結んで、革の前掛けをしていた。顔と腕に、細かい火傷の跡が無数にあった。
彼女はガルドを見て、そして止まった。
「……ガルド。ガルド・オルムスン」
「ああ」
彼女は、手に持っていた鏨を落とした。石の床で、甲高い音がした。
「十一年!!」
彼女が叫んだ。俺は身構えた。殴りかかるのかと思った。そうではなかった。
彼女は、ガルドの胸に頭からぶつかっていった。両腕で背中を掴んで、そのまま持ち上げようとした。ガルドの足が、実際に少し浮いた。
「十一年だよ!! 十一年!! どこ行ってたんだ!!」
「……離せ」
「離すもんか!!」
「肩が折れてる」
「知るか!!」
俺たちは、遠巻きに見ていた。フェンリスが小声で言った。
「あれ、誰だ」
「わからないです」
「妹か?」
「たぶん違うと思います」
彼女の顔を見ればわかった。喜んでいる。心の底から喜んでいる。だが、その喜び方が、十一年ぶりに兄に会った顔ではなかった。もっと、待っていた顔だった。
*
「ボルドの娘だ」
ガルドが、やっと言った。
彼女——ヒルダは、ガルドから離れて、前掛けで顔を拭いた。
「ヒルダ・ボルドスドッティル。父の工房を継いでます」
「継いでる?」
「五年前に。それまでは他所で修行してました」
俺は、その工房の中を見た。
炉が二つ。作業台が三つ。壁一面に道具が下がっている。全部、よく使い込まれていた。
そして、いちばん奥の壁に、何も掛かっていない場所があった。
道具の跡だけが残っている。長い形だ。長さは、俺の腕くらい。そこに、何かが十年以上掛かっていたのだとわかる。
*
「入って。狭いけど」
ヒルダは俺たちを中に入れた。
彼女は炉の火を落として、椅子を出した。数が足りなかったので、フェンリスとレクスは床に座った。
「で」彼女はガルドの前に立った。「なんで戻ってきた」
「用がある」
「どんな」
「七段目だ」
工房の空気が、変わった。
ヒルダは、しばらく彼を見ていた。それから、椅子に座った。腕を組んで、足を組んで、ずいぶん長いあいだ黙っていた。
「……まだ、やるのか」
「やる」
「十一年経ったのに」
「十一年経ったからだ」
「父さんは死んだよ」
「知ってる」
「あんたの指も二本ない」
「知ってる」
「それでも?」
「それでもだ」
ヒルダが、俺たちのほうを見た。
「あんたら、この人から何か聞いてる?」
「聞いてません」俺は答えた。「一言も」
「そうだろうね」彼女は鼻を鳴らした。ガルドとよく似た鼻の鳴らし方だった。血は繋がっていないはずなのに、癖が移るものらしい。「じゃあ、あたしが話す」
「ヒルダ」
「あんたが話さないからだよ」
*
彼女は、壁の空いた場所を指した。
「十一年前、そこに掛かってたものがある」
「何がですか」
「鍵だよ」
「鍵」
「父さんはそう呼んでた。……あたしは十七だったから、詳しいことは知らない。ただ、あの二人は毎晩それを打ってた」
彼女は続けた。
「七段目の下に、封印区画がある。千年、閉まってる。誰も開け方を知らない。……父さんとガルドは、開ける道具を作ろうとしたんだ」
*
俺は、ガルドを見た。
彼は俯いていた。膝の上で、指の欠けた手を握っていた。
「なんで、開けようとしたんですか」
「知らないよ」ヒルダは言った。「聞いても答えなかった。父さんもガルドも、そこだけは言わなかった」
「じゃあ、どうやって作ろうとしたんですか」
「そこは知ってる。うちの一族に、古い覚書があるんだ」
彼女は立ち上がって、棚から板を一枚取ってきた。木の板に、文字が焼き付けてある。
「『封を開くは、封を打ちし者の血のみ』」
「血?」
「比喩だと思う。うちの一族が封をしたなら、うちの一族の作り方で開けられるはずだ、って読み方だね。……父さんはそう読んだ」
*
「それで、何が起きたんですか」
ヒルダは、答えなかった。代わりに、ガルドが顔を上げた。
「炉が、暴走した」彼は言った。声が、いつもより低かった。「二人で、七日目の焼き入れをやってた。俺が火を見て、ボルドが打ってた。……火が、いつもと違った」
「違うって、どういう」
「色だ。炉の火ってのは、温度で色が変わる。赤から橙、橙から白。白より上はねえ」彼は、自分の手を見た。「白より上が、出た」
「俺は、ボルドを引っ張った。引っ張って、間に合わなかった。……いや、違うな。間に合ったんだよ。引っ張ったんだから、間に合ってる。届いてる。掴んでる」
彼は、欠けた二本の指のあたりを、右手で押さえた。
「掴んで、握れなかった」
「え」
「握力が、足りなかった。……そんだけの話だ」
工房が、静かになった。炉の火が落ちているので、音がしない。四段目の他の工房の音が、壁越しに遠く聞こえるだけだった。
「ガルド」ヒルダが言った。「それ、あたしに何度も言ったよね」
「言った」
「あたし、何度も言い返したよね」
「言い返した」
「もう一回言うよ」彼女は言った。「あんたのせいじゃない」
「そうかい」
「そうだよ」
「そうかい」
彼は、二回同じ返事をした。
俺は、そのとき初めてわかった。この人は、十一年、誰にも責められていない。
ボルドの娘は彼を許している。街の人間も許している。事故だったと、たぶん全員が知っている。門番ですら、通していいかとは聞かなかった。
責めてくれる人が、一人もいない。だから、彼は自分で責めるしかない。十一年、ずっと、一人で。
*
ガルドが、荷を解いた。
布に巻かれた長いもの。出会った日から、彼がずっと背負っていたものだ。俺は一度も聞かなかった。彼も一度も言わなかった。
布が、解けた。
剣に見えた。だが、違った。
長さは俺の腕ほど。柄がある。鍔がある。そこまでは剣だ。刃が、なかった。
刃のあるべき場所に、細い棒が三本、並んで伸びている。それぞれ長さが違う。先端の形も違う。捻れているものと、まっすぐなものと、途中で二股に分かれているもの。三本とも、途中で終わっていた。切ったのではない。まだ、そこまでしか作られていない。
「……これ」
「ボルドが残したやつだ」ガルドが言った。「あいつが死んだ日、炉の横にあった」
「これ、剣ですか」
「剣じゃねえ。ボルドがそう言ってた。『これは剣じゃない』ってな。……じゃあ何だと聞いたら、あいつは笑って、『わからん』と言った」
ヒルダが、それを見ていた。
「まだ持ってたんだ」
「持ってる」
「打ってる?」
「打ってる」
「十年?」
「十年だ。事故のあと一年、炉に近づけなかった。それから打ち始めた」
彼女は、深く息を吐いた。
「ガルド。あんた、それ、完成させる気ある?」
*
*
ガルドは、答えなかった。
長い時間だった。彼は膝の上のそれを見ていた。三本の、途中で終わっている棒を。
俺は、その横顔を見ていた。
七百年の付与術を三秒で解かれたとき、この人は笑わなかった。あのときの顔と、いまの顔が同じだった。
「……坊主」
「はい」
「お前、聞きたそうな顔をしてるな」
「してますか」
「してる」
「じゃあ、聞きます」
俺は言った。
「なんで、完成させないんですか」
*
*
ガルドは、俺のほうを見なかった。
膝の上のものを、片手で撫でた。指の欠けたほうの手で。
そして、こう言った。
*
「完成させたら、終わっちまうだろ」




