わたしが語ると、あんたらが背負う
エルフの里は、思っていたものと違っていた。
俺が想像していたのは、木の上の家だった。学問所の本にそう描いてあった。細い橋が枝から枝へ渡っていて、白い服の連中が弓を持って歩いている、そういう絵だ。
実際は、地面にあった。
木と木のあいだに、低い建物が点在している。屋根は苔と落ち葉で覆われていて、上から見たら森の一部にしか見えないだろう。壁は板ではなく、編んだ蔓に土を詰めたものだった。
道はない。だが、人が繰り返し通った跡が地面に残っている。三千年ぶんの、道になりきらなかった跡だ。
人はいた。俺たちが通ると、全員が立ち止まった。誰も声をかけてこない。誰も目を逸らさない。ただ、見ていた。
「歓迎はされてないわね」リーナが小声で言った。
「されると思ってましたか」
「思ってないわ。……でも、五年前より視線が冷たい」
*
アイリスの家は、里の外れにあった。
いちばん小さかった。他の建物の半分もない。中は一部屋きりで、寝床と炉と、壁一面の棚だけがある。棚には、木の箱がぎっしり並んでいた。
「入りな。狭いよ」
狭かった。五人と老女で、床が埋まった。
ガルドは横になるしかなく、フェンリスは壁に背を預け、レクスは戸口のところに座った。彼女は屋根の下に入っても、外が見える位置から動かなかった。
アイリスが薬を出してきた。里の薬草だという。効きは、町のものと比べ物にならなかった。ガルドの肩に貼った布が、半刻で温かくなった。
「うちの一族の骨接ぎより効くな」と彼は言った。
「三千年、外に出ないでいると、これくらいは進むよ」
「皮肉かい」
「事実だよ」
*
日が落ちてから、アイリスは炉に火を入れた。
小さな火だった。煙が屋根の隙間から抜けていく。里の他の家からも、同じ細さの煙が上がっていた。
彼女は、湯を沸かして、五つの椀に注いだ。茶ではない。ただの湯だ。
「話をしようか」
彼女は言った。
リーナの手が、革筒に伸びた。炭筆を出して、巻物を開く。三十年、彼女が何百回もやってきた動作だ。
アイリスは、それを見た。止めなかった。
「書くのかい」
「書くわ」
「そうかい」
*
「まず、いちばん短いことから言うよ」
彼女は椀を両手で包んだ。皺の多い手だった。それでも指は細くて、まっすぐだった。
「あんたらが習った大戦の話。あれは、嘘だ」
俺は息を止めた。リーナの炭筆が動いた。
「どこがですか」
「全部だね。……いや、そうでもないか。日付は合ってる。千年前だ。場所も、まあ合ってる」
「じゃあ、何が違うんですか」
アイリスは少し黙って、それから指を一本立てた。
「一つ。神々は、争っていない。……あれは、神同士の戦じゃなかった」
炉が、ぱちりと鳴った。
「学問所では、そう習いました」俺は言った。「神々が争って、世界が荒れて、それで——」
「人間が調停した、だろ」
「はい」
彼女は、指をもう一本立てた。
「二つ。調停者なんて、いなかったよ」
リーナの手が止まった。
「……お祖母様。それ、どういう意味」
「そのままの意味だ。誰も仲裁していない。誰も止めていない。……終わったのは、終わったからだ」
「終わったからって」
「終わるべきものが、終わったんだよ」
俺は、その言い方が引っかかった。終わるべきもの。戦ではない。戦は「終わるべき」とは言わない。「終わらせるべき」と言う。彼女は、何か別のものの話をしている。
「アイリスさん。あなたは、そのとき何歳でしたか」
アイリスの目が、俺のほうを向いた。
「二百だ。千二百のうち、二百年目だね。……人間で言えば、十五かそこらの感覚かい」
「どこにいたんですか」
「この森だよ。ここから動いていない」
「じゃあ、戦は見ていない」
「見ていないね」彼女は、あっさりと認めた。「わたしが見たのは、そのあとだ」
「そのあと、何があったんですか」
アイリスは、答えなかった。椀の中を見ていた。湯気が、もう出ていない。冷めたのだ。
俺は待った。誰も口を挟まなかった。炉の音だけがしていた。
やがて、彼女は言った。
「灰が、降ったよ」
*
*
俺の指が、椀を落としかけた。
「セイン?」リーナが顔を上げた。
「……いま、灰が降った、って言いましたか」
「言ったね」
俺は、遺跡の円の部屋を思い出していた。床に刻まれた円。その中心の、灰色の鱗。触れた瞬間に見たもの。
泣いている大勢。顔の見えない声。そして——空から落ちてくる、灰色のもの。雪ではない。もっと大きくて、もっと重い。何万枚も、ゆっくりと。地面に落ちて、砕けずに積もる。
「どのくらい」俺は聞いた。「何日ですか。灰が降ったのは」
アイリスの手が、止まった。
彼女は、俺を見た。さっき草地で見たのと同じ目だった。頭の中を、目玉越しに覗き込む見方だ。
「……なんで、それを聞く」
「見たので」
「見た?」
「遺跡で。……鱗に触ったときに、そういうものが見えました」
「積もったかい」
「積もりました。砕けずに」
炉の火が、細くなった。
アイリスは、長いあいだ動かなかった。その顔から、表情が抜けていた。ハルドがそうだった。ガルドとフェンリスが丘の上でそうだった。役所の連中がそうだった。千二百年生きた人間も、同じ止まり方をするのだと、俺はそのとき知った。
「……四十日だ」彼女は、やっと言った。「四十日、降った。森が白くなった。鳥が全部死んだよ。あんなことは、後にも先にも一度きりだ」
「あれは、何だったんですか」
*
*
「そこまでだ」
彼女は、椀を置いた。木の椀が板の床に当たる、乾いた音がした。それだけの音が、狭い部屋にやけに大きく響いた。
「お祖母様」リーナが言った。
「そこまでだよ」
「まだ何も——」
「三つ話しただろう。争っていない。調停者はいない。灰が降った」彼女は言った。「百二十七年で、三つだ。上出来じゃないかい」
狭い部屋で、リーナが立ち上がった。頭が屋根の梁に当たりそうだった。
「上出来?」
「そうだね」
「上出来ですって?」
彼女の声が、震えていた。怒りではなかった。もっと別の、体の奥から出る震えだった。
「わたしが五歳のとき、あなたは『まだ早い』と言ったわ。十歳のときも言った。五十歳のときも言った。百歳のときも」
「言ったね」
「その百二十七年で、わたしは何をしたと思う?」
「知ってるよ」
「知らないでしょ!!」
リーナが、革筒を床に叩きつけた。三十年ぶんの記録が、板の床に転がった。
「里を出たわ! 遺跡を回ったわ! 人間の町で寝て、ドワーフに笑われて、獣人に石を投げられて、金がなくて三日食べなかったこともある! 全部、あなたが答えないからよ!!」
アイリスは、動かなかった。
「四回よ! 東の遺跡に四回行ったわ! 四回とも入れなかった! 五回目にやっと入って、そこで見たものが何だったか、あなたに聞きたくてここまで来たのよ!!」
「聞いたじゃないか」
「三つだけ!!」
「三つだ」
アイリスが言った。低い声だった。怒鳴り返してはいない。ただ、その声には、千二百年ぶんの何かがあった。リーナが、口を閉じた。
*
「リーナ」
「……なによ」
「わたしが語ると、あんたらが背負う」
「知りたいと言うのは、簡単だよ」アイリスは言った。「知ったあと、どうするかを決められる者だけが、知っていい。……お前は、決められるかい」
「決めるわよ」
「何を」
「え」
「知ったあと、何をするか。もう決めてあるのかい」
リーナは、答えられなかった。
「決めてないだろう。知ってから決めると思ってる。……だがね、そうはいかないんだよ。知ってしまったら、決める前に、もう背負ってる」
彼女は、床に転がった革筒を見た。
「三十年、よく歩いたね。褒めてるよ。……だが、まだ足りない」
*
その夜、俺たちは狭い床で雑魚寝した。
リーナは、俺たちに背を向けて丸くなっていた。泣いてはいなかった。少なくとも、音はしなかった。
俺は眠れずにいた。
四十日、灰が降った。鳥が全部死んだ。そのことを知っている人間が、この部屋にいる。
聞けば、答えるかもしれない。彼女は俺には三つ話した。リーナが百二十七年かけて引き出せなかった三つを、会って半日で。
でも、俺は聞かなかった。
聞かなかったのは、癖のせいではない。彼女の言ったことが、たぶん正しいからだ。
*
夜明け前だった。
厠に立とうとして起き上がったとき、戸口のところに人影があった。
アイリスだった。彼女は外を見ていた。
俺が横を通ろうとすると、彼女は振り返らずに、小さく言った。
「あんた。ヴェルグと言ったね」
「はい」
「東の辺境の、灰鱗の家かい」
俺は、立ち止まった。
「……知ってるんですか」
彼女は、答えなかった。代わりに、俺のほうへ顔を向けた。老女の目が、暗がりの中で、まだはっきりしていた。
そして、俺にだけ聞こえる声で、こう言った。
「灰鱗の家の子か」
「……可哀想に」




