祖母アイリス
輪が、緩んでいた。
三千年、閉じていた境界の、ちょうど人ひとりぶん。
俺の目には、そこだけ結び目がほどけているのが見えた。切れたのではない。壊れたのでもない。誰かが内側から、正しい順番で、丁寧に外している。
「……嘘でしょ」リーナが立ち上がった。「あれ、開けられる人は三人しかいないわ」
「誰だ」
「長老と、その補佐が二人」
境界の内側に、その三人はいなかった。セランドは、まだそこに立っている。振り返って、森の奥を見ていた。彼の顔から、さっきまでの「三千年」が抜け落ちていた。
*
木の間から、人が出てきた。
小さい。
それが、最初の印象だった。リーナより頭ひとつぶん低い。背が曲がっているわけではない。ただ、体そのものが縮んでいる。骨が細くなって、肉が減って、残ったものだけが立っている、という体だった。
髪は白かった。セランドのように色が抜けたのではない。染めたように、混じり気なく白い。それを短く切って、後ろで括っている。
服は、里のものではなかった。旅装だ。何十年も前の型に見える。裾も袖もすり切れて、繕った跡が数え切れないほどある。
杖はついていなかった。歩き方は遅い。だが、揺れていない。
*
「アイリス様」セランドが言った。声が、掠れていた。「お戻りください。ここは——」
「セランド」
老女が言った。低い声だった。小さい体から出る声ではない。
「お前、いくつになった」
「……八百七でございます」
「そうかい」彼女は頷いた。「わたしが里を出たとき、お前はまだ弓も引けなかったね」
セランドは、答えなかった。答えられなかった、という顔だった。
老女は、境界の緩んだ場所を通り抜けて、外に出た。草地に立って、彼女はまず南のほうを見た。飛竜が薙いだ場所だ。灰白の外套が散らばっている。しばらく、そこを見ていた。
それから、俺たちのほうへ顔を向けた。
「リーナ」
「……お祖母様」
「五年ぶりだね。痩せたね」
「食べてるわ」
「食べてないよ。顔でわかる」
*
リーナは、それ以上何も言わなかった。
俺は、その横顔を見ていた。彼女は泣いていなかった。怒ってもいなかった。ただ、革筒を両手で抱えて、まっすぐ祖母を見ていた。
百二十七年、同じ四文字を返されてきた相手だ。
その相手が、いま、三千年閉じていた境界を開けて、こちらへ歩いてきている。
「お祖母様。なんで、開けたの」
「見ていたからだよ」
「え」
「全部だ」アイリスは、あっさりと言った。「お前らが門の前に立ったところから、いままで。……セランドの後ろで、ずっと見ていた」
「見て——」リーナの声が、そこで途切れた。「見てたの? 見てて、開けなかったの?」
「開けなかったね」
「フェンリスが撃たれかけたわ。ガルドが倒れたわ。あの子が、竜に叩きつけられたわ」
「見ていたよ」
リーナが、一歩踏み出した。俺は止めようとして、やめた。止める権利が、俺にはない。
「じゃあ、なんでいま開けるの!! 間に合わないでしょ!! いま開けても、もう終わってるのよ!!」
三十年、里の外を歩いた女の声だった。アイリスは、それを黙って聞いていた。聞き終えてから、こう言った。
「間に合わせるために開けたんじゃないよ」
「じゃあ何のために」
「見たいものが、見えたからだ」
*
彼女は、俺のほうを向いた。
*
そのとき、俺は初めて、その目を正面から見た。
薄い緑だった。リーナと同じ色だ。だが、色以外の全部が違っていた。
濁っていない。
千二百年生きた者の目が、どういうものかを、俺は考えたことがなかった。想像していたとすれば、たぶん、疲れた目だ。何もかも見飽きた目。
そうではなかった。その目は、いま初めて何かを見た子どもの目に、いちばん近かった。
「あんたか」
彼女は言った。
「セイン・ヴェルグです」
「知ってるよ。名前じゃない」
*
彼女は、俺の前まで歩いてきた。近い。手を伸ばせば届く。
「さっきの、あれ」
「あれ、というのは」
「竜の首だ」
俺の背筋が、伸びた。
「見えたんですか」
「見えたね。……いや、違うな」彼女は少し首をかしげた。「見えたんじゃない。あんたが何をしたか、わかった。あれは目で見るもんじゃない。……久しぶりに見た」
その一言が、頭の中で妙に長く残った。久しぶり。千二百年生きた人が、久しぶり、と言った。
「……前にも、見たことがあるんですか」
「あるよ」
「いつ」
「言わないね」
即答だった。俺は、少し笑ってしまった。笑うところではないのに、口の端が上がった。
「どうした」
「いえ。……お孫さんが、そういうところが嫌いだと言っていました」
アイリスの表情が、初めて動いた。彼女はリーナのほうをちらりと見た。リーナは横を向いていた。
「そうかい。……言うようになったね、あの子も」
*
そして、彼女はもう一度、俺の顔を見た。
今度は、さっきより長かった。
顔ではなかった。目でもない気がした。もっと後ろ、頭の中か、あるいは胸のあたりを、目玉を通して覗き込んでいるような見方だった。
俺は、動けなかった。
やがて、彼女の眉が、ほんのわずかに寄った。
*
「……その眼」
*
彼女は言った。
*
「お前、中に何を入れている」
*
*
背後で、フェンリスが低く唸った。ガルドが体を起こそうとして、失敗した。リーナが息を呑んだ。
俺は、答えるべきかどうか、一瞬だけ迷った。
迷って、答えることにした。
門の前でも、俺は答えた。あのときは、それで門が閉まった。それでも、俺は同じことをする。
「神の、一片だそうです」
*
*
*
草地が、静かになった。
*
セランドが、境界の内側で、声を上げかけた。
「アイ——」
「黙れ」
老女が言った。
振り向きもせずに。
セランドは、黙った。
*
アイリスは、しばらく動かなかった。それから、深く息を吐いた。細い肩が、一度だけ下がった。
「そうかい。……そうかい」
二度、同じことを言った。それから、俺たちを数えた。
「五人だね。入りな。中は狭いよ」
「アイリス様!!」セランドが叫んだ。今度は止まらなかった。「なりません!! 依代です!! それは、里に入れてよいものでは——」
「セランド。里の掟に、依代を入れるなと書いてあるかい」
「……書いては、おりません」
「じゃあ、なんで駄目なんだい」
「それは——」
セランドは、そこで詰まった。長い時間だった。八百七年生きた男が、答えを探して、見つけられずにいた。
「……わかりません」
「そうだろうね」アイリスは、少しだけ優しい声を出した。「わたしも、答えられなかったよ。八百年前に、同じことを聞かれてね」
*
俺たちは、境界の内側へ入った。
輪の緩んだ場所を通るとき、頬に何かが触れた。冷たい水の膜をくぐったような感触だった。三千年ぶんの厚みが、それだけしかしなかった。
森の中は、暗くなかった。
葉が高い位置にあって、光が斜めに落ちている。下生えが少ない。人の手が入っているのがわかる。ただし、道はなかった。三千年、誰も外から来なかった森に、道はいらない。
俺の後ろで、レクスが立ち止まった。
「どうしました」
「におい」
「なにか匂いますか」
「わからない」彼女は言った。「でも、知ってる」
歩きながら、俺はアイリスの背中に聞いた。
「あの、ひとつ、聞いてもいいですか」
「聞くのは自由だよ」
「答えは」
「わたしの自由だ」
俺は少し考えて、いちばん短い形にした。
「大戦のとき、何があったんですか」
*
アイリスの足が、止まった。
前を歩いていたリーナも止まった。彼女は、祖母の背中を見ていた。
——まだ早い。
たぶん、この場の全員がその四文字を予想した。俺も予想した。百二十七年、返され続けてきた答えだ。
アイリスは、振り返らなかった。
そして、こう言った。
*
「大戦はな」
*
「あんたらが習ったのとは、違うよ」




