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灰燼の神話 〜神殺しの副産物〜  作者: NN
三人の仲間

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46/62

祖母アイリス

輪が、緩んでいた。


三千年、閉じていた境界の、ちょうど人ひとりぶん。


俺の目には、そこだけ結び目がほどけているのが見えた。切れたのではない。壊れたのでもない。誰かが内側から、正しい順番で、丁寧に外している。


「……嘘でしょ」リーナが立ち上がった。「あれ、開けられる人は三人しかいないわ」


「誰だ」


「長老と、その補佐が二人」


境界の内側に、その三人はいなかった。セランドは、まだそこに立っている。振り返って、森の奥を見ていた。彼の顔から、さっきまでの「三千年」が抜け落ちていた。


  *


木の間から、人が出てきた。


小さい。


それが、最初の印象だった。リーナより頭ひとつぶん低い。背が曲がっているわけではない。ただ、体そのものが縮んでいる。骨が細くなって、肉が減って、残ったものだけが立っている、という体だった。


髪は白かった。セランドのように色が抜けたのではない。染めたように、混じり気なく白い。それを短く切って、後ろで括っている。


服は、里のものではなかった。旅装だ。何十年も前の型に見える。裾も袖もすり切れて、繕った跡が数え切れないほどある。


杖はついていなかった。歩き方は遅い。だが、揺れていない。


  *


「アイリス様」セランドが言った。声が、掠れていた。「お戻りください。ここは——」


「セランド」


老女が言った。低い声だった。小さい体から出る声ではない。


「お前、いくつになった」


「……八百七でございます」


「そうかい」彼女は頷いた。「わたしが里を出たとき、お前はまだ弓も引けなかったね」


セランドは、答えなかった。答えられなかった、という顔だった。


老女は、境界の緩んだ場所を通り抜けて、外に出た。草地に立って、彼女はまず南のほうを見た。飛竜が薙いだ場所だ。灰白の外套が散らばっている。しばらく、そこを見ていた。


それから、俺たちのほうへ顔を向けた。


「リーナ」


「……お祖母様」


「五年ぶりだね。痩せたね」


「食べてるわ」


「食べてないよ。顔でわかる」


  *


リーナは、それ以上何も言わなかった。


俺は、その横顔を見ていた。彼女は泣いていなかった。怒ってもいなかった。ただ、革筒を両手で抱えて、まっすぐ祖母を見ていた。


百二十七年、同じ四文字を返されてきた相手だ。


その相手が、いま、三千年閉じていた境界を開けて、こちらへ歩いてきている。


「お祖母様。なんで、開けたの」


「見ていたからだよ」


「え」


「全部だ」アイリスは、あっさりと言った。「お前らが門の前に立ったところから、いままで。……セランドの後ろで、ずっと見ていた」


「見て——」リーナの声が、そこで途切れた。「見てたの? 見てて、開けなかったの?」


「開けなかったね」


「フェンリスが撃たれかけたわ。ガルドが倒れたわ。あの子が、竜に叩きつけられたわ」


「見ていたよ」


リーナが、一歩踏み出した。俺は止めようとして、やめた。止める権利が、俺にはない。


「じゃあ、なんでいま開けるの!! 間に合わないでしょ!! いま開けても、もう終わってるのよ!!」


三十年、里の外を歩いた女の声だった。アイリスは、それを黙って聞いていた。聞き終えてから、こう言った。


「間に合わせるために開けたんじゃないよ」


「じゃあ何のために」


「見たいものが、見えたからだ」


  *


彼女は、俺のほうを向いた。


  *


そのとき、俺は初めて、その目を正面から見た。


薄い緑だった。リーナと同じ色だ。だが、色以外の全部が違っていた。


濁っていない。


千二百年生きた者の目が、どういうものかを、俺は考えたことがなかった。想像していたとすれば、たぶん、疲れた目だ。何もかも見飽きた目。


そうではなかった。その目は、いま初めて何かを見た子どもの目に、いちばん近かった。


「あんたか」


彼女は言った。


「セイン・ヴェルグです」


「知ってるよ。名前じゃない」


  *


彼女は、俺の前まで歩いてきた。近い。手を伸ばせば届く。


「さっきの、あれ」


「あれ、というのは」


「竜の首だ」


俺の背筋が、伸びた。


「見えたんですか」


「見えたね。……いや、違うな」彼女は少し首をかしげた。「見えたんじゃない。あんたが何をしたか、わかった。あれは目で見るもんじゃない。……久しぶりに見た」


その一言が、頭の中で妙に長く残った。久しぶり。千二百年生きた人が、久しぶり、と言った。


「……前にも、見たことがあるんですか」


「あるよ」


「いつ」


「言わないね」


即答だった。俺は、少し笑ってしまった。笑うところではないのに、口の端が上がった。


「どうした」


「いえ。……お孫さんが、そういうところが嫌いだと言っていました」


アイリスの表情が、初めて動いた。彼女はリーナのほうをちらりと見た。リーナは横を向いていた。


「そうかい。……言うようになったね、あの子も」


  *


そして、彼女はもう一度、俺の顔を見た。


今度は、さっきより長かった。


顔ではなかった。目でもない気がした。もっと後ろ、頭の中か、あるいは胸のあたりを、目玉を通して覗き込んでいるような見方だった。


俺は、動けなかった。


やがて、彼女の眉が、ほんのわずかに寄った。


  *


「……その眼」


  *


彼女は言った。


  *


「お前、中に何を入れている」


  *


  *


背後で、フェンリスが低く唸った。ガルドが体を起こそうとして、失敗した。リーナが息を呑んだ。


俺は、答えるべきかどうか、一瞬だけ迷った。


迷って、答えることにした。


門の前でも、俺は答えた。あのときは、それで門が閉まった。それでも、俺は同じことをする。


「神の、一片だそうです」


  *


  *


  *


草地が、静かになった。


  *


セランドが、境界の内側で、声を上げかけた。


「アイ——」


「黙れ」


老女が言った。


振り向きもせずに。


セランドは、黙った。


  *


アイリスは、しばらく動かなかった。それから、深く息を吐いた。細い肩が、一度だけ下がった。


「そうかい。……そうかい」


二度、同じことを言った。それから、俺たちを数えた。


「五人だね。入りな。中は狭いよ」


「アイリス様!!」セランドが叫んだ。今度は止まらなかった。「なりません!! 依代です!! それは、里に入れてよいものでは——」


「セランド。里の掟に、依代を入れるなと書いてあるかい」


「……書いては、おりません」


「じゃあ、なんで駄目なんだい」


「それは——」


セランドは、そこで詰まった。長い時間だった。八百七年生きた男が、答えを探して、見つけられずにいた。


「……わかりません」


「そうだろうね」アイリスは、少しだけ優しい声を出した。「わたしも、答えられなかったよ。八百年前に、同じことを聞かれてね」


  *


俺たちは、境界の内側へ入った。


輪の緩んだ場所を通るとき、頬に何かが触れた。冷たい水の膜をくぐったような感触だった。三千年ぶんの厚みが、それだけしかしなかった。


森の中は、暗くなかった。


葉が高い位置にあって、光が斜めに落ちている。下生えが少ない。人の手が入っているのがわかる。ただし、道はなかった。三千年、誰も外から来なかった森に、道はいらない。


俺の後ろで、レクスが立ち止まった。


「どうしました」


「におい」


「なにか匂いますか」


「わからない」彼女は言った。「でも、知ってる」


歩きながら、俺はアイリスの背中に聞いた。


「あの、ひとつ、聞いてもいいですか」


「聞くのは自由だよ」


「答えは」


「わたしの自由だ」


俺は少し考えて、いちばん短い形にした。


「大戦のとき、何があったんですか」


  *


アイリスの足が、止まった。


前を歩いていたリーナも止まった。彼女は、祖母の背中を見ていた。


——まだ早い。


たぶん、この場の全員がその四文字を予想した。俺も予想した。百二十七年、返され続けてきた答えだ。


アイリスは、振り返らなかった。


そして、こう言った。


  *


「大戦はな」


  *


「あんたらが習ったのとは、違うよ」


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