自由の使い方
飛竜は、五頭が空へ上がった。
上がったというより、跳ね上がった、という感じだった。翼の使い方がめちゃくちゃで、高度が安定しない。一頭が木にぶつかり、一頭が旋回しようとして失速し、地面すれすれで持ち直した。
それでも、五頭は、東へ飛んでいった。
森の上を越えて、稜線の向こうへ。しばらく、鳴き声だけが聞こえていた。細くて、若い声だ。あれが六頭ぶんの、本来の声なのだと思う。
やがて、それも聞こえなくなった。
「……行ったな」
フェンリスが、荒い息の下で言った。彼は俺の襟を掴んだまま、地面に座り込んでいた。
「五頭だけです」
「あ?」
「五頭しか、飛んでません」
*
俺は、草地の向こうを見た。一頭、残っていた。
三十歩ほど先だ。翼を畳んで、四本の脚で立っている。飛ぶ気配がない。そして、こちらを見ていた。
「……なんで飛ばねえんだ」
「わからないわ」リーナが弓を拾いながら言った。矢はもうない。拾ったのは、たぶん癖だ。「怪我? でも、翼は無事に見える」
飛竜は、動いた。
歩いてきた。
一歩ずつ。翼を畳んだまま、四足で。首を低くして、地面を嗅ぐでもなく、ただ、真っ直ぐこちらへ。
その歩き方は、ひどく不器用だった。前脚と後脚の運びが噛み合っていない。翼のぶんだけ肩幅が広いので、体が左右に揺れる。地面を歩くようにできていない体で、地面を歩いている。
「動くな」ガルドが低く言った。彼は倒れたまま、鎚だけを引き寄せていた。「刺激するな」
俺たちは、動かなかった。飛竜は、十歩の距離まで来て、止まった。
*
近くで見ると、首の跡がひどかった。
他の五頭にもあった環の跡。だが、この個体はまるで違う。
環が食い込んでいた部分の鱗が、完全に変形していた。輪の内側に向かって、鱗が巻き込むように生えている。その周囲は、皮膚が硬く盛り上がって、白く変色していた。長い年月をかけて、成長する体が、動かない輪に押し負けた跡だ。
外れた環は、さっき地面に落ちた。だが、跡は残る。首に、白い輪が一本、はっきりと刻まれている。
「……この子」リーナが息を呑んだ。「いちばん古いわ」
「わかるんですか」
「跡の深さよ。他の五頭は、鱗が凹んでるくらいだった。この子は、肉ごと変形してる。……何十年もつけたままだったってこと」
「何十年」
「たぶん、もっと。……この子、繋がれたときにはまだ子どもだったんじゃないかしら。だから、輪が体に合わなくなっても、外してもらえなかった」
*
飛竜は、俺を見ていた。
正確には、俺の手を見ていた。
さっき、俺が首の環に触れた手だ。土と血で汚れて、爪が二枚割れている。
その手を、じっと見ている。
「セイン」ガルドが言った。「下がれ」
「はい」
「はい、じゃねえ。下がれ」
「下がると、たぶん」俺は言った。「この子、動きません」
「なんでわかる」
「わかりません」
自分でも、理屈は説明できなかった。ただ、その目に見覚えがあった。
数えていなかった。逃げるか殺すかを決める目ではなかった。
——待っている目だ。
*
俺は、一歩前に出た。
「セイン!」リーナが小さく叫んだ。
飛竜は、動かなかった。もう一歩。まだ動かない。三歩目で、俺は止まった。手を伸ばせば届く距離だ。近くで見ると、鱗の一枚一枚に細かい傷がある。数え切れない。何十年ぶんの、誰かに命じられて飛んだ跡だ。
俺は、手を出した。差し出す、という以外の意味はなかった。何かをしてやれるわけではない。傷は治せない。飛び方を教えることもできない。首の跡を消すこともできない。ただ、手を出した。
飛竜が首を下げて、鼻先が、俺の掌に触れた。
熱かった。思っていたより、ずっと熱い。鱗は硬いが、その下に血が通っているのがわかる。息が、俺の手首にかかった。
それから、飛竜は待った。俺も待った。十秒か、二十秒か。たぶん、そのくらいだった。
そして、俺は気づいた。この子は、命令を待っている。
首の環が外れた。繋いでいた術者は倒れた。線は切れた。だから、次にどこへ行けばいいのかを、誰かが決めてくれるのを待っている。
何十年、この飛竜はそうやって生きてきた。首の輪が引かれて、飛ぶ。引かれて、降りる。引かれて、殺す。自分で決めた飛び方を、たぶん一度もしていない。いま、引く者がいない。だから、動けない。
「……行っていいですよ」俺は言った。声が、少し震えた。「どこへでも」
飛竜は、動かなかった。
「もう、誰も、あなたに命令しません」
動かなかった。俺は、掌に触れている鼻先を、少しだけ押した。軽くだ。押すというほどの力もない。ただ、そこから離すために。
飛竜が顔を上げて、俺を見た。
——なぜ、と聞かれた気がした。
理屈ではない。言葉でもない。ただ、その目がそう見えた。差し出された手が、何も渡してくれないことを、この子は理解できていない。
俺は、何も持っていなかった。
四か月半、俺は解くことだけを覚えた。指先で結び目を探して、支点を見つけて、逃がす。それだけを、繰り返し、繰り返し磨いた。
いま、この手には何もない。
解いたあとに渡せるものを、俺は、ひとつも持っていなかった。
*
「……ごめんなさい」
俺は言った。飛竜が、身を引いた。数歩下がって、それから、初めて翼を広げた。
大きい。畳んでいるときの倍以上ある。翼膜に、光が透けた。何十年ぶんの、細かい破れの跡がそこにあった。
一度、打った。体が浮いた。二度目で、地面を離れた。三度目で、木の高さを越えた。不器用だった。他の五頭と同じで、高度が安定しない。それでも、飛んでいた。
飛竜は旋回して、一度だけ、俺たちの上を回った。そして——
東へは、行かなかった。
その体が傾いた。翼を畳んで、落ちるように、草地の南へ。そこに、灰白の外套が散らばっていた。
「——おい」
フェンリスが立ち上がりかけた。間に合わなかった。
音は、遠かった。三十歩ぶんの距離があった。それでも、聞こえた。馬の悲鳴と、人の声と、それから、翼が空気を叩く音。一度。二度。三度目のあと、静かになった。
飛竜は、そこから飛び立った。今度は、真っ直ぐ東へ向かった。旋回もしなかった。振り返りもしなかった。森の向こうへ消えるまで、俺はそれを見ていた。
*
草地には、五人が残った。
誰も、口をきかなかった。
リーナが、矢のない弓を持ったまま座り込んだ。ガルドは仰向けのまま空を見ていた。フェンリスは、南のほうを見て、何度か口を開いて、閉じた。
俺は、自分の掌を見ていた。
まだ、熱が残っていた。
*
勝った、はずだった。
十六騎の追手が来て、六頭の飛竜が放たれて、俺たちは一人も欠けずに生き残った。俺は第二階梯に届いた。契約が解けることを知った。
数えれば、これは勝利だ。
なのに、誰も喜んでいなかった。
*
「セイン」
リーナが言った。顔を上げずに。
「はい」
「あの子、どこへ行くと思う?」
「……わかりません」
「わたしもわからないの」彼女は膝を抱えた。「群れがどこにいるかも知らない。餌の獲り方も、たぶん忘れてる。……あの子、明日どうやって生きるのかしら」
俺は、答えられなかった。
「あなたのせいじゃないわよ」
「はい」
「本当に、そう思ってる?」
「……いえ」
*
ガルドが、仰向けのまま口を開いた。
「坊主」
「はい」
「今日、お前がやったことは、正しい」
「はい」
「正しいが、足りねえ」
彼は、そう言った。
「解くってのは、始まりだ。終わりじゃねえ。……お前はまだ、始めることしか覚えてねえ」
*
そのときだった。
背後で、光が動いた。
俺たちは、振り返った。
三千年、閉じていた境界の輪が、一箇所だけ、内側から緩んでいた。




