記録者は要らぬ
森の縁には、門がなかった。
俺が想像していたのは、木の柵か、石の門か、そういうものだった。実際にあったのは、線だった。
草地が終わって、森が始まる。その境目が、定規で引いたようにまっすぐだった。ここから内側は木、ここから外側は草。中間がない。
「結界よ」リーナが言った。「三千年前から張ってあるの。……人間には見えないはずだけど」
「見えます」
「そうよね」
彼女は、諦めたような顔をした。
見えていた。俺の目には、境界線に沿って光の輪が並んでいるのが見えた。輪と輪が繋がって、森全体をぐるりと囲んでいる。
大きい。大角狼の結界の比ではなかった。遺跡の扉より、たぶん十倍は複雑だ。数えようとして、すぐやめた。数えられるものではない。
「解けそう?」
「無理です」
「よかった」
リーナは本気で安堵した顔をした。
背後で、蹄の音が近づいていた。まだ姿は見えない。だが、地面が鳴っている。数は多い。
「リーナさん」
「わかってる」
彼女は境界線の前に立って、深く息を吸った。
「——シルヴァレインのリーナ! 帰ってきたわ!」
*
森は、しばらく何も答えなかった。
やがて、木々の奥から影が二つ出てきた。エルフだった。
初めて見る。リーナ以外のエルフを、俺は生まれて初めて見た。二人とも弓を持っている。淡い色の髪。耳が長い。そして——若い。リーナと同じくらいに見える。だが、彼らが何百歳なのかは、俺には見当もつかない。
「リーナ」片方が言った。「戻れとは言われていない」
「知ってる」
「では、なぜ来た」
「追われてるの」
彼らは、俺たちを見た。人間が二人。ドワーフが一人。獣人が一人。そして、レクス。
二人の視線が、レクスのところで止まった。止まって、動かなくなった。
「……リーナ」
「なに」
「その者は」
「仲間よ」
「何者だ」
「仲間だと言ってるでしょ」
俺はレクスを見た。彼女はいつもどおりだった。何も言わない。構えもしない。ただ、二人のエルフを見返している。縦の瞳孔で。
「長老を呼べ」片方が、もう片方に言った。
*
長老は、それから五分で現れた。
老人だった。エルフに老人がいるとは思っていなかった。
背は高いが、少し曲がっている。髪は白いというより、色が抜けている。皺は少ない。だが、皮膚の下の何かが、明らかに薄くなっていた。歳を取らない種族が歳を取ると、こうなるのか、と思った。
「セランド様です」一人が言った。「里の長老。……八百歳を超えておられる」
八百。以前リーナが言っていた、門番のじいさんは八百くらい、という話を思い出した。この人のことか。
セランドは境界線の内側に立って、俺たちを一人ずつ、ゆっくりと見た。そして、リーナのところで止まった。
「五年ぶりだな、小娘」
「五年ぶりね、じいさん」
「二度と来るなと言った」
「言われたわ」
「なぜ来た」
「追われてるからよ」
セランドは、俺たちの背後を見た。蹄の音は、もうはっきり聞こえている。彼はしばらくそれを聞いていた。
「人間の追手か」
「そう」
「何をした」
「何もしてないわ」
「では、なぜ追われる」
リーナが、言葉に詰まった。
俺は一歩前に出た。
「俺が原因です」
「そなたは」
「セイン・ヴェルグ。人間です」
「用件は」
「匿ってほしいです」
「理由は」
そこで、俺は一瞬迷った。
言うべきか。言えば、たぶん、この人は俺たちを入れない。言わなければ、嘘をつくことになる。
嘘は下手だ、とガルドがいつも言っている。俺も、たぶん、下手だ。
「俺は」俺は言った。「依代だそうです」
セランドの目が、一度だけ細くなった。二人の見張りが、同時に弓に手をかけた。
そして、リーナが、俺の前に立った。
*
「じいさん」彼女は言った。「わたし、三十年、外を歩いたわ」
「知っている」
「遺跡を見て、記録を取って、書庫を読んで、いろんな種族に会った」
「知っている」
「そして、わかったことがあるの」
彼女は革筒を握った。四本ある。三十年ぶんだ。
「わたしたちの記録は、全部、大戦のあとのものよ」
森が、静かになった。鳥の声が、消えていた。
「里の書庫は八百年ぶん。それより古いものは一つもない。人間の学問所も同じ。ドワーフの鉱山にもない。……全部、後から書かれたものなの」
リーナの声は、震えていなかった。
「じいさん。あなたは八百歳。あなたが子どものころ、里の書庫に、それより古い記録はあった?」
セランドは、答えなかった。
「あったのよね」リーナは言った。「あって、なくなったのよね」
「——記録者は要らぬ」
セランドが言った。低い声だった。怒鳴ってはいない。声を荒らげてもいない。ただ、そこには八百年ぶんの何かがあった。
「我らは、忘れることで生きてきた。森に籠もり、外を見ず、昔を語らず。……それで三千年、この森は無事だった。人間の戦にも、獣人の争いにも、我らは一度も巻き込まれておらぬ」
「無事なだけでしょ」
「そうだ」セランドはあっさり認めた。「無事なだけだ。……無事以上のものを、我らは望まぬと決めた」
「誰が決めたの」
「わしの祖父の、そのまた祖父の代だ」
「なんで」
「知らぬ」
俺は、その言葉を聞いて、目の前が少し暗くなった。
また、それだ。理由を知らないまま鱗を守る家。理由を知らないまま神の話をしない世界。理由を知らないまま塞がれている水路。理由を知らないまま体が凍る獣人。そして、理由を知らないまま三千年、忘れ続けている種族。
誰も、理由を知らない。なのに、全員が、正確に守っている。
「じいさん」リーナが言った。「そのやり方は、うまくいってると思う?」
「うまくいっておる」
「うまくいってるなら」彼女は自分の胸を叩いた。「なんで、わたしみたいなのが生まれるの」
セランドは、初めて目を伏せた。
「……お前だけではない。五百年に一人か、二人。お前のような者が出る。外へ出て、記録を取り、帰ってきては同じことを言う」
「その人たちは、どうなったの」
「帰らなくなった」
「殺したの」
「まさか」彼は少し笑った。まったく笑っていない笑い方だった。「殺しはせぬ。……ただ、我らが何も答えぬだけだ。答えぬまま百年経てば、たいていの者は、帰ってこなくなる」
*
蹄の音が、すぐそこまで来ていた。草地の向こうに砂煙が見える。灰白の外套が、十数騎。
「セランド様」見張りの一人が言った。「いかがなさいます」
セランドは、俺たちを一人ずつ、ゆっくりと見た。そして、リーナのところでまた止まった。長い時間だった。
「……門を、閉じよ」
「じいさん!!」
「外の争いは、外で」
彼は背を向けて、言った。
「三千年、そうしてきた」




