出立
成人の儀は、拍子抜けするほど簡単に終わった。
広間に家族と使用人が集まり、父が短い言葉を述べ、俺が一礼して、それでおしまい。所要時間は十分ほど。長兄のときは領内の主だった者を全員呼んで三日がかりだったと聞いているから、まあ、順当なところだ。
三分の書斎、五秒の許可、十分の儀式。俺の人生は、あらゆる場面で尺が短い。編集がうまい。
ただ、ひとつだけ引っかかったことがある。
——祈らないのだ。
成人の儀というのは、たしか本来、何かに向かって「この子はもう大人です」と報告する行事のはずだ。前世の記憶を掘り返すまでもない。誰かに見せる、誰かに認めさせる。そういう形をしている。
なのに、この儀式には宛先がなかった。
父が言葉を述べる。俺が礼をする。それだけ。誰に向かって述べているのか、誰に向かって礼をしているのか、誰も口にしない。宛先のない手紙を全員でうやうやしく折り畳んでいるようなものだ。
——その話は、なさいませんよう。
ハルドの声を思い出して、俺は口を閉じた。
前世からの得意技である。黙るのだけは早い。
*
出発は翌朝だった。
長兄が握手をした。「体に気をつけろ」。次兄が肩を叩いた。「町の女に騙されるなよ」。
騙される以前の段階で詰まる自信がある、と言いかけてやめた。
父は玄関の内側に立っていた。外までは出てこない。
「行ってこい」
「はい」
それだけだ。三分でも五秒でもなく、今度は二秒。記録更新である。
でも、不思議と嫌ではなかった。
父はこの十五年、俺に嘘をつかなかった。期待していないくせに期待しているふりをする、ということを一度もしなかった。誠実というのは、時々ひどく痛いが、あとに何も残らないぶん、たぶん楽なのだと思う。
門のところで、母が待っていた。
「セイン」
母は布に包んだものを差し出した。
短剣だった。
鞘は使い込まれていて、握りの革は所々すり切れている。抜いてみると、刃は短いが、よく手入れされていた。装飾はほとんどない。ただ、柄頭に小さくヴェルグの家紋が彫ってある。
「私の父のものよ。あなたのおじいさま」
「……いいんですか」
「長男には領地、次男には剣、三男には何も、なんて。そんな話がありますか」
母は少し怒ったような顔で言った。それから、俺の手をぎゅっと握った。
「あなたは優しい子だから、きっと大丈夫」
俺は、頷いた。
——違うんです。
そう言えたらよかったのだと思う。
俺は優しいわけじゃない。人と関わって、傷つけたり傷ついたりするのが怖いから、最初から近づかないだけだ。近づかなければ、誰も傷つかない。傷つかなければ、優しく見える。
前世で、俺はそうやって三十二年かけて誰ともまともに関わらず、最後の十年は部屋の中で干からびた。優しかったのではない。何もしなかっただけだ。
でも、それを言ったら、母はきっと悲しむ。
だから俺は、頷いた。
「行ってきます」
上手に笑えていたと思う。この技術だけは、二回分の人生で磨いてきた。
*
町ハルグまでは、荷馬車で半日かかった。
御者は屋敷に出入りしている老人で、道中ずっと羊の話をしていた。今年の羊は毛がよくない。去年の羊は気立てがよかった。羊に気立てという概念があることを、俺はこの日はじめて知った。
「坊ちゃんは冒険者になるんですって?」
「はい」
「そりゃいい。若いうちは動いたほうがいい」
「そうですね」
「うちの倅も動いてましてね。動きすぎて三年帰ってきませんが」
いい話なのか悪い話なのかわからないまま、荷馬車は坂を下った。
視界がひらけた。
ハルグの町が見えた。
石造りの城壁に囲まれた、思ったより大きな町だった。屋敷の窓から見える景色といえば、麦畑と、痩せた丘と、その向こうの山だけだったから、これでも俺には十分に都会である。
煙が上がっている。人の声がする。荷車の軋む音、鶏の鳴き声、誰かが誰かを怒鳴る声。
——生きている音だ。
前世の記憶がまた滑りかけて、俺は首を振った。
あの部屋にも、窓の外から音は聞こえていた。ずっと聞こえていた。俺はそれを、十年間、布団の中で聞いていただけだ。
今度は、こちら側にいる。
たぶん。
*
冒険者ギルドは、町の中央通りに面した二階建ての建物だった。
看板に描かれているのは、剣と天秤を組み合わせた紋章。扉が両開きで、片方が開けっ放しになっている。中から人の声と、酒と、汗と、なにか焦げたにおいが漏れてくる。
入った瞬間、俺は入口の脇で立ち止まった。
人が、多い。
前世の記憶が全力で警報を鳴らしている。引き返せ。今なら間に合う。この扉は外開きだ。
「新規登録の方ですか」
受付から声がかかって、警報が止まった。逃げ道が塞がったともいう。
「あ、はい」
「そちらの列にお並びください。本日は五名です」
指された長椅子には、俺と同い年くらいの少年が四人、すでに座っていた。
一人は大剣を背負っていて、明らかに体格が違う。一人は魔術師の杖を持っている。一人は弓。一人は——よく見えないが、少なくとも俺より姿勢がいい。
俺は短剣が一本。あとは着替えと路銀。
場違い感が、鳩尾のあたりからじわじわ上がってくる。
「あんた、どこの出身?」
大剣の少年が話しかけてきた。人懐こい顔をしている。
「ヴェルグ領です」
「あー、東の辺境の。魔物出るとこだよな。じゃあ実戦経験あるのか」
「いえ、まったく」
「まったく?」
「はい」
会話が途切れた。
大剣の少年は「そっか」と言って、前に向き直った。悪い奴ではないと思う。ただ、俺という人間から会話を引き出すには、彼のほうにもう三段くらい技量が要る。
俺は膝の上で手を組んだ。
こういうとき、前世なら携帯電話を見ていた。見るものがないと手が余る。何もしていない自分が、自分から丸見えになる。
*
順番が来た。
奥の小部屋に通される。机の向こうに座っていたのは、四十絡みの男だった。片腕が義手だ。元冒険者なのだろう。目つきが、ヨナスに少し似ている。
「名前」
「セイン・ヴェルグです」
「歳」
「十五」
「よし。手をここに置け」
机の上に、平たい石板が据えられていた。表面に細かい紋様が刻まれている。適性を見る道具だ、と説明された。
俺は手を置いた。
石板が、ぼんやりと光った。
紋様の一部が浮かび上がり、文字のようなものが並んでいく。試験官が身を乗り出して、それを読む。
読んでいる。
まだ読んでいる。
さっきの大剣の少年のときは、扉越しに「おお、いいじゃないか」という声が三十秒で聞こえてきた。俺の番は、すでに一分を超えている。
石板が悪いのか、俺が悪いのか。両方だったら救いがない。
「……ん」
試験官が眉を寄せた。
「もう一回、置いてみろ」
俺は手をどけて、もう一度置いた。
同じ文字が並んだ。
試験官はしばらくそれを睨んでから、義手のほうで顎を掻いた。
「壊れてはいないな」
「壊れてる可能性があったんですか」
「たまにあるんだよ。だが、これは違う」
彼は椅子に背を預けて、俺を見た。
困っていた。
叱っているのでも、呆れているのでもない。純粋に、どう扱ったものか決めかねている顔だ。
「セイン・ヴェルグ」
「はい」
「お前、固有技能が出てる」
「え」
固有技能。学問所で聞いたことがある。百人に一人か、二人。生まれつき備わっている、その人間だけの技能。剣聖だの、雷術だの、そういう連中が持っているやつだ。
心臓が、一度だけ跳ねた。
——もしかして。
「なんて出てるんですか」
試験官は、石板を俺のほうへ向けた。
指で、その一語を示す。
そして、言った。
「……これは、戦闘職じゃないな」




