灰鱗の由来
町のギルドへ発つのは、成人の儀のあとと決まった。あとひと月ある。
その一か月で、俺は屋敷のことを少し知っておこうと思った。
理由は自分でもよくわからない。出ていく家のことを、いまさら調べて何になるという話ではある。ただ、二晩続けて翼の生えた連中が夢に出てきて、掌に鱗の跡が浮いて、それがまったく無関係だと言い切れるほど、俺は自分を信用していなかった。
信用に足る実績が、この十五年で一件もない。
朝の仕事が一段落したころを見計らって、俺はハルドを捕まえた。
「少し、時間をもらえますか」
老執事は目を細めた。この人は笑うとき、口ではなく目だけを動かす。
「灰鱗のことでございますね」
「……なんでわかるんですか」
「昨日、扉の前まで行かれて、開けずに戻られましたので」
見られていた。
この屋敷、俺の動向にだけは妙に人手が割かれている気がする。
*
通されたのは、書庫の奥の小部屋だった。
ハルドが持ってきたのは、革表紙の帳面が一冊。表紙は擦り切れて、角が丸くなっている。
「初代様の書付でございます」
「三百年前の?」
「正確には三百二年前かと」
開くと、紙が乾いた音を立てた。文字は思ったより読みやすい。字体こそ古いが、書いた人間は几帳面だったのだろう。
初代ヴェルグは、もともとこの地の人間ではないらしい。王都の下級役人だった男が、ある日突然この痩せた土地を与えられ、辺境伯を名乗ることになった。
出世といえば出世だ。土地の質を問わなければ。
理由が、書いてある。
『我、鱗を預かる』
それだけだ。
「これは」
「灰鱗のことでございます」
「預かる、というのは。誰から?」
「書かれておりません」
ハルドは淡々と言った。
「初代様は、その鱗をどこかで手に入れ——あるいは託され、この地に居を構えられました。以後、ヴェルグ家は代々、これを守っております」
俺は頁をめくった。
初代の記述は短い。土地の測量、井戸の掘削、冬の備え。実務的な記録が延々と続く。鱗のことは、時折思い出したように出てくるだけだ。
『鱗、変わりなし』
『鱗、変わりなし』
『鱗、変わりなし』
同じ一行が、何十回も出てくる。
三百年分の家宝の記録が、ほぼ全文コピー。三行ごとに井戸の水位のほうが詳しい。初代様、鱗より井戸に興味がありませんでしたか。
最後の頁に、一行だけ、他とは違う調子の文があった。
『子らへ。理由を問うな。ただ守れ』
急に筆圧が上がっている。
*
「……何のために守っているんですか」
俺は帳面から顔を上げた。
ハルドは、しばらく黙っていた。
「存じません」
「父上は?」
「先代様も、その前の代も、ご存じなかったと伺っております」
「じゃあ、三百年、誰も知らないまま」
「さようでございます」
俺は帳面を閉じた。
妙な話だ。
普通、こういうものには物語がつく。竜と契りを交わしただの、災いを封じただの、褒美に授かっただの。三百年もあれば、誰かが適当な由来をでっち上げてもよさそうなものだ。そのほうが子どもにも説明しやすいし、酒の席でも使える。
なのに、この家は何も作らなかった。
『理由を問うな。ただ守れ』
その一行だけを、三百年、そのまま持ち続けている。
嘘をつかなかった、と言えば聞こえはいい。
つけなかったのだ、とも思う。
「ハルド」
「はい」
「あれは、本当に竜の鱗なんですか」
「そう伝わっております」
「竜って、いるんですか」
老執事は、はじめて少しだけ考える顔をした。
「昔はいた、と申しますな」
「昔」
「大戦の前には、と」
*
大戦。
千年前の、種族どうしの大きな戦。学問所でひととおり習った。人間、エルフ、ドワーフ、獣人——世界中の種族が巻き込まれた戦いで、最後は人間が調停者として立って収めた、ということになっている。
授業では三日で終わった。千年前の世界大戦にしては、ずいぶん取り扱いが淡白だなとは思っていた。
だから俺は、深く考えずに聞いた。
本当に、何も考えていなかった。
「大戦の前って、神様がいたころですよね。この地方の守護神って、なんていう神だったんですか」
ハルドの動きが、止まった。
答えようとしたのだと思う。だが、名前の部分だけが、喉の奥で止まった。
音になる前の何かが、そこで留められているようだった。
そのときの俺は、ハルドが言いたくないのだと思った。後になって知ることになる。あれは一人の意思ではなかった。人間も、エルフも、ドワーフも、獣人も、竜人族も、神の真名だけは口にできない。紙に書くことはできても、声にしようとすれば、喉の手前で音がほどけるのだ。
茶器に伸ばしかけた手が、途中で止まったままになっている。
指が、震えているわけではない。ただ、止まっている。まるで、次にどう動くのが正解なのか、体が急にわからなくなったみたいに。
顔から、表情が抜けていた。
——昨日の夜、夢で見た少女の顔を思い出した。
感情が消えたのではなく、感情という機能そのものが、その瞬間だけ切り離されたような顔。
「ハルド?」
「……セイン様」
老執事は、手を引っ込めた。
「その話は、なさいませんよう」
「え」
「町でも、ギルドでも。おやめください」
声は静かだった。叱っているのではない。忠告ですらない気がした。もっと単純な、たとえば「火に触るな」というような、そういう種類の言い方だった。
「なぜですか」
「……存じません」
「それも、ですか」
「それも、でございます」
ハルドは立ち上がり、帳面を丁寧に布で包んだ。
「私が仕えるようになったとき、先代様の執事から、そう申し送られました。理由は聞くなと。聞いた者は、良いことにならぬと」
「誰が言い出したんですか」
「わかりません」
「じゃあ、誰も知らないまま、みんなその話をしないでいるんですか」
「さようでございます」
俺は口を閉じた。
三百年、理由も知らずに鱗を守り、千年、理由も知らずに神の話をしない。
引き継ぎ資料が一行の家に生まれた自覚はあったが、どうやら世界のほうも似たようなものらしい。
*
夕方、廊下で長兄とすれ違った。
「セイン」
呼び止められた。この兄が俺に声をかけることは、月に一度あるかないかだ。年間の会話量でいえば、倉庫番の老爺のほうが多い。
「ハルドに何を聞いた」
耳が早い。やはりこの屋敷、俺の動向にだけ人手が割かれている。
「家のことを、少し」
「そうか」
長兄は少し黙ってから、言った。
「父上には聞くな」
「……何をですか」
「わかっているだろう」
俺は答えなかった。
長兄はそれ以上何も言わず、歩いていった。跡取りの背中だ。俺のとは違う、重いものを乗せた背中。
——この人も、知らないんだ。
知らないまま、聞いてはいけないということだけを、正確に受け取っている。
律儀な人だ。この家は、上から下まで律儀にできている。中身が空でも、器だけは三百年、きちんと磨かれてきた。
*
その夜、俺は西の棟へ行った。
錠を三つ、順に外す。かちり、かちり、かちり。
灰鱗は、昨日と同じ場所にあった。
『理由を問うな。ただ守れ』
台座の前に立って、俺はそれを見下ろした。
三百年、誰も理由を知らない。千年、誰も神の話をしない。そして俺は、二晩続けて翼のある者の夢を見ている。
無関係だと思うほうが、たぶん、無理がある。
俺は手を伸ばした。
——熱い。
指が触れる前に、わかった。
昨日は、触れてから、掌の奥がじわりと温かくなった。今日は違う。触れる前から、鱗そのものが熱を持っている。人肌よりも、少し高い。
台座の石にも、その熱がうつっていた。
「……なんですか、あなた」
答えるわけがない。
わかっていて、俺は言った。前世を含めて三十年以上、自分から話しかけたことなどほとんどない人間なのに、この夜だけは、なぜか声が出た。
鱗は、ただ熱かった。
俺は手を引っ込めて、扉を閉め、錠を三つ、順に掛け直した。
かちり。かちり。かちり。
廊下は暗く、風は動かず、屋敷は静まり返っていた。
背中の後ろで、鱗が熱を持っている。
その静けさが、何かの前触れであることを、このときの俺はまだ知らない。




