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灰燼の神話 〜神殺しの副産物〜  作者: NN
灰鱗の子

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銀の夜

朝になると、掌の跡は消えていた。


何度も見た。角度を変えて、窓辺に持っていって、光に透かして。何も残っていない。ただの手だ。剣だこもろくにできていない、十五の子どもの手。


夢だ。


そう思うことにしたはずなのに、俺は結局、朝食の前にもう一度だけ西の棟へ足を運んだ。


錠は三つとも、昨日俺が閉めたとおりに掛かっていた。扉の向こうの鱗も、たぶん昨日と同じ場所にある。確かめはしなかった。


確かめてしまうと、確かめたい理由を認めることになる。


そういうことを、俺はしない。


前世で三十二年、そうやって何ひとつ確かめずに生きて、何ひとつ確かめないまま死んだ。実績のある方針である。


  *


朝食の席で、俺は父に言った。


「冒険者になろうと思います」


長兄が匙を止めた。次兄が「本気か」と笑った。母が困った顔をした。


父は、少しのあいだ俺を見た。


「そうか」


それだけだった。


「町のギルドは十五から登録できる。ハルドに手配させよう」


反対されなかった。


危ないぞ、とも、考え直せ、とも言われなかった。


長兄が同じことを言い出したら、屋敷がひっくり返っていたと思う。次兄が騎士団に入ると言ったときですら、父は三日かけて条件を詰めたと聞いている。門限だの、装備だの、月に一度は便りを寄越せだの。


俺のときは、五秒だった。


三日と五秒。倍率にすると、ざっと五万倍。数字にすると清々しい。


「……ありがとうございます」


俺は頭を下げた。


好きに生きろ、と言われた翌日に、好きにしていいと言われる。筋は通っている。何ひとつ間違っていない。


間違っていないことが、こんなに静かなものだとは思わなかった。


  *


午後は訓練場にいた。


指南役のヨナスは、父の代からこの屋敷にいる元傭兵だ。左の頬に古い傷があって、笑うとそこが引き攣る。ちなみに、笑ったところを見たことはない。


「もう一度」


木剣が弾かれる。手首が痺れる。


「もう一度」


弾かれる。


「もう一度」


十七回目で、ヨナスが手を止めた。ちょうど俺の握力も止まった。


「セイン様」


「……はい」


「悪くはありません」


その言い方で、だいたいわかった。


悪くはない、というのは、良くもない、という意味だ。ヨナスは嘘をつかない男だから、言葉を選ぶときは正確に選ぶ。誠実というのは、時々かなり効く。


「長兄様は十二で私から一本取られました。次兄様は十三で。セイン様は——」


「取れませんね」


「ええ」


ヨナスは頷いた。慰めなかった。そこは、この人のいいところだと思う。慰められたら慰められたで、俺はたぶん三日は引きずる。


魔法のほうも、似たようなものだった。


屋敷に月に二度来る老魔術師のもとで、俺は基礎の光術をひとつだけ覚えていた。指先に、蝋燭くらいの明かりを灯す術だ。それ以上は伸びなかった。老魔術師の見立てでは、俺の器の大きさは「村の子どもたちの、真ん中よりやや下」らしい。


やや下。


「やや」がついたのは温情だと思う。この老人も、意外と優しい。


三男で、剣が弱くて、魔力がやや下。


前世で、俺は自分のことを「特に何もない人間」だと思っていた。転生というのは人生の再抽選みたいなものだと聞いていたが、どうやら俺は同じ札を引き直したらしい。ご丁寧に、二回連続で。


  *


訓練が終わって、俺は納屋のほうへ回った。


倉庫番の老爺が、鍵の束を持ったまま困っていた。


「開かんのですよ、これが」


農具をしまってある小屋の錠が、錆びついて回らなくなったのだという。鍵は合っている。差さる。だが回らない。


「油を差してみましたか」


「差しましたとも。それでもこれです」


俺は錠を手に取った。


冷たい鉄の塊。表面はざらざらしていて、ところどころ赤茶けている。


鍵穴に、指先を寄せる。


——ここだ。


なぜわかるのかは、説明できない。中がどうなっているのか、目で見たわけではない。ただ、噛み合わせが一箇所だけ「引っかかっている」ということが、指の腹から伝わってくる。錆が、内側の板を一枚、押さえ込んでいる。


その一枚を、ほんの少しだけ、逃がしてやればいい。


鍵を差して、いつもより浅い位置で、ほんのわずかに戻す。


かちり。


回った。


「おお」


老爺が目を丸くした。


「……セイン様、器用ですねえ」


「はあ」


「うちの孫にも見習わせたいもんです」


見習わせないでほしい。この道の先には何もない。俺が保証する。


俺は曖昧に笑って、錠を返した。


器用ですねえ。


前世でも、似たようなことを言われた覚えがある。パソコンの調子が悪いだの、書類の書き方がわからないだの、そういうときにだけ声をかけられて、直してやると「助かった」と言われて、それで終わる。


役に立たない、とは言われない。


ただ、それで何かが変わったことは、一度もなかった。


便利、という言葉は、たいていの場合、そこで止まる。


  *


夜、俺は部屋の窓を開けて、外を見ていた。


辺境の夜は暗い。町の灯りがない。星だけが、痛いくらいに出ている。


好きに生きろ。


そうか。


——五秒。


自分でも、なぜ今さらだと思う。父は正しいことをした。俺は望んだものを手に入れた。何も奪われていない。


なのに、目の奥が熱くなった。


俺は窓を閉めて、寝台に横になった。声は出さなかった。前世で身につけた技術だ。声を出さずに泣くのは、そんなに難しくない。壁の薄い家で十年もやっていれば、誰でも覚える。


しばらくして、眠った。


  *


——ばさ、と音がした。


翼の音だった。


昨日と同じ闇。上も下もない場所。


顔を上げる。


いた。


けれど、昨日の少年ではなかった。


少女だった。


銀の髪が、光のない場所でひとりでに輝いている。年の頃は十六か、十七か。背中には翼があった。白い翼だ。


この銀色を、俺はどこかで見ている。ずっと下から、見上げる角度で。だが、それがいつの記憶なのかは、思い出せなかった。


表情がない。


怒っているのでも、悲しんでいるのでもない。何かを感じているという痕跡そのものが、顔から抜け落ちている。人形とも違う。人形にはまだ、作った人間の意図が残る。この少女には、それすらない。


彼女は、まっすぐ俺のほうへ降りてきた。


そして、手を伸ばした。


指先が、俺の顔の高さで、一度止まる。


目の下あたりだ。


ほんの一瞬、迷ったように見えた。気のせいかもしれない。


それから彼女は、その手を下ろして、俺の左腕を取った。


手のひらを、そっと当てる。


——温かい。


淡い光が、彼女の掌から染み出して、俺の腕に沈んでいった。傷が塞がるときの、あの引き攣れるような感覚。何度か経験がある。治癒の術だ。


けれど。


「……あの」


俺は言った。


「怪我、してないんですけど」


彼女は答えなかった。


俺の腕から手を離さないまま、ただ、そこを見ている。何もない腕を。訓練で少し赤くなっているだけの、それだけの腕を。


「聞こえてますか」


答えない。


「あなたは、誰ですか」


答えない。


やがて、光が消えた。


彼女は静かに手を離し、一歩下がって、俺を見上げた。相変わらずの無表情で。


それから、白い翼を、ひとつだけ広げた。


「——まだ、早い」


言葉は、それだけだった。


翼が打たれる。


風もないのに、髪が乱れた。


  *


目が覚めた。


夜明け前だった。昨日と同じだ。


俺は起き上がって、自分の左腕を見た。


何も変わっていない。傷もない。赤みも、たぶん昨日と同じくらいには残っている。


代わりに気づいたのは、頬のことだった。


乾いていた。


泣いたまま眠ったはずなのに、目の縁も、頬も、枕も、すっかり乾いていた。


……そういうことも、あるだろう。


俺は寝台から下りて、水差しの水を飲んだ。


夢だ。


そういうことにしておくしかなかった。


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