三男坊と、灰の夢
「セイン。お前には、何も継がせてやれん」
書斎の窓から差す夕日が、父の白髪を橙に染めていた。ヴェルグ辺境伯——この痩せた土地を三百年守り続けてきた家の、十九代目当主。その人が、机の向こうから俺を見ている。
「だから、好きに生きろ」
優しい言葉だった。誰も傷つけない言葉だった。
長兄には領地がある。次兄には王都の騎士団がある。俺には何もない。だから何をしてもいい。それはたしかに、自由と呼ばれるものだ。
「……はい」
俺はそう答えて、頭を下げた。
顔を上げたときには、父はもう次の書類に目を落としていた。話は終わったらしい。所要時間、三分。
たぶん父は、この三分のために何日か迷ったのだと思う。迷って、削って、いちばん角の立たない言い方を選んだ。誠実な人なのだ。誠実な人が全力で配慮すると、こうなる。
——好きに生きろ。
つまり、期待していない。
責められるほうが、まだ楽だった。怒鳴られれば、少なくとも「怒鳴るだけの価値はある」と思われていることになる。
期待されないというのは、ずいぶん重い。軽いものを渡されたはずなのに、なぜか手首にくる。
*
部屋を出て、廊下を歩きながら、意識がふっと滑った。
白い天井。
閉め切ったカーテンの隙間から、細い光が一本だけ差している。時計は午後三時を指していて、俺はまだ布団の中にいる。
机の上でノートパソコンが光っている。メールソフトの下書きフォルダには、二百通の未送信メールが溜まっていた。全部、宛先は書いてある。本文も書いてある。
ただ、送信ボタンを押していないだけだ。
二百通。
一日一通としても、半年以上かけて溜めた計算になる。文面は毎回書き直した。書き直すたびに前より長くなり、前より言い訳がましくなり、最終的には自分でも何が言いたいのかわからなくなった。推敲というのは、送る人間がやるから推敲なのであって、送らない人間がやるとただの趣味だ。
俺の趣味は、下書きだった。
廊下で足音がした。
母だ。
ドアの前で止まる。しばらく、立っている。
——ノックはしない。
いつからか、母もノックをやめていた。呼んで返事が返らなかった回数が、どこかで一線を越えたのだと思う。俺はそれを、布団の中で聞いていた。
三十二年。
誰にも何も届かないまま、俺はあの部屋で死んだ。
そして、ここにいる。
セイン・ヴェルグ。辺境領主の三男。十五歳。
前世の記憶が戻ったのは五歳のころだ。理由はわからない。神様の手違いか、あるいは何かの罰か。罰だとしたら、内容がずいぶん地味だと思う。
ただ、あの布団の匂いだけは、十年経ったいまでも鼻の奥に残っている。
*
気がつくと、足は西の棟へ向かっていた。
屋敷の一番奥にある、窓のない小さな部屋。扉には錠が三つ、かかっている。
灰鱗の間。
ヴェルグ家の家宝が納められている場所だ。
長兄は入れない。次兄も入れない。跡取りとその予備は、家の重さを背負う立場だから、軽々しく家宝に近づくことを禁じられている。
俺は違う。
何者でもないから、どこへでも行ける。
老執事のハルドが一度だけ、困った顔でこう言ったことがある。「セイン様は、咎める理由がございませんので」と。
たぶん励ましてくれたのだと思う。あの言い方で励まされる人間がこの世に何人いるのかは知らないが。
錠を三つ、順に外していく。灰鱗の間では、鍵は使わない。使ったことがない。指先で内側の構造をなぞると、どこがどう噛み合っているのかが、なぜか手に取るようにわかる。
かちり。かちり。かちり。
三つ目が落ちる音を聞きながら、いつも同じことを思う。
——こんなことが得意でも、何の役にも立たない。
剣が振れるようになりたかった。魔法が使えるようになりたかった。神様、俺に配られたのは錠前です。
部屋の中央、石の台座の上に、それはあった。
鱗が、一枚。
大人の手のひらを二つ並べたほどの大きさ。色は名前の通り、灰。ただの灰色ではない。光の角度によっては、燃え尽きた薪の内側みたいに、かすかに赤いものが見え隠れする。
竜が落とした鱗、と伝えられている。
いつ、どの竜が、なぜ落としたのか。誰も知らない。
ただヴェルグ家は三百年、この痩せた辺境から一歩も動かず、これを守っている。
理由も知らないまま。
一度、ハルドに聞いたことがある。何のために守っているのか、と。
老執事は少し考えてから、「さあ」と言った。それだけだった。とぼけているのではなく、本当に知らない顔だった。三百年、代替わりのたびに「守れ」とだけ言い継がれてきたらしい。引き継ぎ資料が一行しかない仕事だ。前世でもそういう部署の話は聞いたことがある。
俺は手を伸ばした。
冷たい。
金属でも石でもない、ざらついた冷たさだ。指の腹をすべらせると、細かい筋が走っているのがわかる。木の年輪に似ている。数えられそうで、数えるとどこかで見失う。
冷たいのに、掌の奥のほうが、じわりと熱かった。
しばらくそうしていた。
似てるな、と思った。
理由も知られないまま、ここに置かれている。誰の役にも立っていない。それでも、捨てられてはいない。
——待て。家宝に自分を重ねる十五歳。書き出すとなかなかの惨状だ。
俺は手を引っ込めて、部屋を出た。
*
夕食の席は、いつも通りだった。
長兄が来年の徴税の話をし、父が頷き、次兄が王都の噂を披露して母が笑う。俺は相槌を打つ。
「そうなんですね」
「それは大変でしたね」
「兄上らしいですね」
それだけで、会話は回る。
人の話を聞くのは得意だ。昔からそうだった。相槌に大会があれば、地区予選くらいは抜けられると思う。全国は無理だ。全国に出る連中は、たぶん質問までしてくる。
自分の話をしない人間は、なぜか優しいと思われる。優しさというのは、案外、何もしないことでも達成できてしまう。
食後、母が俺の肩に手を置いて言った。
「セインは優しい子ね」
ほら。
俺は笑った。たぶん、上手に笑えていたと思う。
*
その夜、俺は夢を見た。
闇だった。
上も下もない。足の裏に地面の感触がないのに、なぜか立っているとわかる。そういう種類の闇だ。
——ばさ、と音がした。
翼の音だった。
顔を上げると、いた。
黒髪の少年が、逆さのまま宙に浮いて、俺を覗き込んでいる。年の頃は俺と同じか、少し上か。背中から生えているのは、大きな黒い翼だった。
笑っている。口の端を片方だけ持ち上げた、意地の悪い笑い方だ。
瞳は、深い色をしていた。よく晴れた日の、夜が来る直前の空に似ていた。
なのに。
「なあ」
声だけが、笑っていなかった。
「本当にやり直せるのか、お前」
俺は口を開けた。
何か言おうとした。何を言おうとしたのかは、自分でもわからない。
やり直すって何を、と聞き返そうとしたのかもしれない。あんたは誰だ、と問おうとしたのかもしれない。
でも、たぶん、そのどちらでもなかった。
俺が最初に感じたのは——この人は、俺の答えを待っている、ということだった。
からかっているんじゃない。試しているんでもない。
待っている。
前世で、俺の言葉を待ってくれた人が、どれだけいただろう。
だから俺は、答えようとした。
声は、出なかった。
喉の奥で音が形になる前に、全部ほどけて消えていった。二百通の下書きと同じだ。書いてあるのに、送れない。
少年は、しばらく待っていた。
本当に、待っていた。
やがて、ふっと息を吐いた。
「……いいさ」
黒い翼が、ひとつだけ大きく打たれる。
「急がねえよ。俺は、千年待った」
闇が裂けて、白い光が差し込んで、俺は——
*
目が覚めた。
天井は白くなかった。辺境の屋敷の、木目の粗い梁が見えた。窓の外は薄明るい。夜明け前だ。
汗をかいていた。
俺は右手を持ち上げて、顔の前にかざした。
掌に、跡が残っていた。
鱗の跡だ。
昨日、灰鱗に触れた手のひらに、その形が、うっすらと浮き上がっている。
夢だ、と思った。
思うことにした。
——それが、俺の一番古い癖だった。




