綻び
町は、朝から騒いでいた。
俺が宿を出ると、通りに人が出ていた。全員が、同じ方向を見上げている。北だ。
ハルグの北には、低い岩山がある。町のどこからでも見える。三十年前に採石をやめてから、誰も近づかない山だ。
その稜線が、変わっていた。
「昨日の夕方だ」パン屋の親父が誰にともなく言っていた。「地面が鳴った。家の皿が全部落ちた」
「雷かと思った」
「雷であの音は出ねえよ」
俺は、何も言わずにその横を通り過ぎた。
*
役所とギルドは、その日のうちに調査隊を出した。人選も装備もまともだった。この町の役人は、腰は重いが、仕事はする。ベルンも入っていたらしい。
結論が出たのは、三日後だった。
『北方岩山、旧採石場跡において大規模な落盤を確認。三十年来の空洞化によるものと推定。人的被害なし。周辺立入禁止』
掲示板に貼り出されたその紙を、俺は長いこと眺めていた。
落盤。三十年来の空洞化。
たしかに、そう読める。上から三分の一が消えた山を、下から見上げれば、崩れたようにも見える。実際、崩れた岩が斜面に散っている。それは本当だ。
ただ、消えた岩の量が、斜面に残っている量と、まるで釣り合っていない。
「言わないの?」
隣でリーナが小声で言った。彼女も同じ紙を見ていた。
「言って、どうなりますか」
「……どうにもならないわね」
「あの二人が山を削りました、って言ったら、たぶん俺は詰所に連れていかれます」
「そうね。頭を打ったと思われるわ」
俺たちは、しばらく黙って掲示を見ていた。
酒場では三日ほどその話が続いて、四日目には値上がりした麦の話に変わった。「昔から崩れそうだったからな」と誰かが言い、「そういや親父もそう言ってた」と誰かが返した。そうやって、山は元から崩れる予定だったことになった。
俺は、下水の術式のことを思い出していた。上水路を塞ぐのにあんな術式が要りますか、と聞いたときの、あの顔。
同じだ。
人は、自分の知っている引き出しに入らないものを見ると、いちばん近い引き出しに押し込む。押し込んだあと、蓋をしたことすら忘れる。
千年かけて世界中から名前を削り取るのに、たぶん、そんなに手間はかからない。
削る側が、少し手を貸してやるだけでいい。あとは、みんなが勝手に忘れてくれる。
*
「実験しましょう」
四日目の朝、リーナが工房に炭と紙を持ち込んできた。顔つきが、三日前と違っていた。
「元気ですね」
「元気じゃないわ。……でも、これは書けるの」彼女は紙を広げた。「昨日、山が消えたでしょう。あれは書けなかった。書こうとしたら手が止まった。……でも、あなたの技能は書けるの」
「なんでですか」
「わからない。でも、たぶん」彼女は炭筆を握った。「これは、いま起きてることだから」
*
四か月前に一人でやったことを、今度は五人でやった。
あのときは、宿の部屋で紙一枚に三日かけた。今回は、工房の床いっぱいに術式が並んでいる。リーナが片端から書いていく。彼女の三十年ぶんの手が、これまでで一番速く動いていた。
「まず、簡単なやつ」
彼女が床に描いたのは、掌ほどの小さな輪だった。
「明かりの術式よ。魔力を通すと光る。子どもが最初に習うやつ。……解いて」
魔力を通すと、輪がぼんやり光った。俺は指を伸ばした。
ある。見えていた。輪の上に線が走り、線が交わって四つの結び目を作っている。そのうち一つが、他の三つを支えている。北——いや、方角ではない。輪の内側の、いちばん深いところ。
「触ります」
「どうぞ」
指を当てた。一、二、三。ここ。
光が、消えた。
「消えたわ」リーナが身を乗り出した。「壊れてる? 線は?」
「線は残ってます」
「もう一回、魔力を通してみるわね」
彼女が指を当てた。輪は、光らなかった。
「……解けてるわ」
「壊れてはいません」
「そうね。壊れてない。ただ、機能してない」彼女は炭筆を走らせた。「もう一度、書き直せば動くと思う。……つまり、これは破壊じゃないの。解除よ」
*
そこから、さらに三日かけた。わかったことを、リーナが箇条書きにした。
一、術式に触れる必要がある。指先が触れていれば足りる。二、一つの結び目を解くのに、三秒。三、その三秒のあいだ、俺は他のことができない。指も動かせない。四、複数を同時に解くと、時間は対象の数だけ増える。二つで六秒。三つで九秒。五、四つ以上を同時にやると、頭が割れるように痛む。
五番目は、実演で確認した。俺は床に五つ並べた術式に、同時に手をかけた。十五秒かけて、全部解けた。解けたあと、俺は工房の隅で三十分うずくまっていた。頭の後ろから目の奥にかけて、鉄の棒を通されたような痛みが続いた。吐いた。
「もうやらないで」リーナが背中をさすった。
「限界を知る必要があります」
「知ったでしょう!」
「はい。四つまでです」
「そう書いておくわ」
六、大きすぎる術式は、解けない。
これも確認した。リーナが持っていた、遺跡の扉の写し。あれを見ながら、俺は「見える」かどうかを試した。見えた。見えたが。
「無理です」
「なんで」
「結び目が、多すぎます」
「いくつ?」
「数えられません」俺は写しを指でなぞった。「番人の楔は四つでした。あの扉は、たぶん、何百とあります。しかも、どれが支点なのかわからない。……全部が全部を支えてるみたいに見えます」
「じゃあ、あなた、あの扉は開けられなかったの?」
「開けてません」俺は言った。「あのとき俺が解いたのは、鎖です。術式には触ってません」
その事実に、俺は少しほっとしていた。
いま、俺の手は、四か月前にはできなかったことができる。でも、無敵になったわけではない。大きすぎるものは解けない。多すぎるものも解けない。触れなければ解けない。三秒のあいだ、俺は動けない。
相変わらず、守られないと何もできない。そのことが、なぜか少し、安心だった。
*
「名前が要るわ」実験の四日目に、リーナが言った。
「名前?」
「記録に書くのよ。『あの、指で触ってなんかするやつ』とは書けないでしょ」
「まあ」
「あなたが決めて」
俺は、少し考えた。
一点を解くやつ。輪の中で、一箇所だけ噛んでいるところを見つけて、そこを逃がす。逃がすと、あとは全部が自然に緩んでいく。破ってはいない。壊してもいない。ほんの一点、綻ばせるだけだ。
「《綻び》で」
「綻び」
「はい」
「いいわね。書くわ」彼女は炭を走らせた。「複数のほうは?」
「……《解糸》」
「かいし」
「はい。糸を、解くので」
「そのままね」
「そのままです」
リーナは笑った。三日ぶりに、彼女が笑った。
*
その日の午後、ガルドが工房に戻ってきた。彼は肩の添え木を外していた。まだ完全ではないが、動かせるようになったらしい。
「終わったか」
「だいたい」
「じゃあ、俺のを試せ」
彼が持ってきたのは、短剣だった。俺のではない。彼が自分で打ったものだ。刃が青みがかっている。
「付与だ。鍛冶の術だ。刃に術式を焼き込んで、切れ味を落ちにくくする。ドワーフの基本の基本だな」彼は刃を灯りにかざした。「これを打つのに、俺は三日かけた。焼き入れが二回、術式の刻みが一回。三日だ」
「はい」
「解いてみろ」
俺は、刃に指を当てた。
ある。床に描いた明かりの術式とは、まるで違った。線が、金属の中に沈んでいる。表面ではない。刃の内側に、何十本もの細い線が走って、互いを支え合っている。
美しかった。そう思った。意味はわからない。ただ、この構造は、誰かが長い時間をかけて考えて、何度も直して、無駄を削ぎ落として、こうなったのだとわかった。
「……三日じゃ、できないと思います」
「あ?」
「これ、三日で作れるものじゃないです。……何百年もかけて、少しずつ形になったやつです」
ガルドが、俺を見た。
「よくわかったな」
「見えるので」
「そうかい」彼は少し黙ってから、言った。「うちの一族が、七百年かけて磨いた組み方だ。俺が三日でやれるのは、先に六百九十七年ぶんが済んでるからだよ」
「解いていいんですか」
「解け」
「戻せませんよ」
「戻す。俺が打ち直す」
「三日かかりますよね」
「かかる」彼は言った。「やれ」
俺は、支点を探した。
多い。明かりの術式は四つだった。この付与は、二十を超えている。だが、多いだけで、複雑ではなかった。全部が全部を支えているのではない。中心が、はっきりしている。刃元。柄に近い、いちばん最初に焼き込まれた一点。そこが、二十全部を支えていた。
「三秒です」
「やれ」
一、二、三。ここ。
*
音は、しなかった。
刃の青みが、消えた。それだけだ。折れも、曲がりも、欠けもしない。ただの鋼になった。
俺は、短剣をガルドに返した。彼はそれを受け取って、指の腹で刃をなぞった。なぞって、しばらく、そのままでいた。
「ガルド」
「ああ」
「戻せますか」
「戻せる」
「よかった」
「よかねえよ」
彼は、短剣を作業台に置いた。
俺は、そのとき初めて気づいた。この人は、笑っていない。
ガルドは、笑う男だ。俺が「肝臓、大丈夫ですか」と言ったときも笑った。「この隊にいる意味があるのか」と聞いたときも、大きな声で笑った。灰喰いの前でも、大角狼の前でも、番人の前でも、この人はどこかで一度は笑っていた。
いま、笑っていない。
「……坊主」彼は作業台に手をついたまま、こちらを見ずに言った。
「なんですか」
「お前、いま、俺の七百年を三秒で解いた」
「あ」
「戻せる。俺が三日かけりゃ戻る。だから、損はしてねえ。……してねえんだが」
彼はそこで一度、息を吐いた。
「そりゃあ、恐ろしい力だな。——作った側からすりゃ」




