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灰燼の神話 〜神殺しの副産物〜  作者: NN
三人の仲間

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37/62

綻び

町は、朝から騒いでいた。


俺が宿を出ると、通りに人が出ていた。全員が、同じ方向を見上げている。北だ。


ハルグの北には、低い岩山がある。町のどこからでも見える。三十年前に採石をやめてから、誰も近づかない山だ。


その稜線が、変わっていた。


「昨日の夕方だ」パン屋の親父が誰にともなく言っていた。「地面が鳴った。家の皿が全部落ちた」


「雷かと思った」


「雷であの音は出ねえよ」


俺は、何も言わずにその横を通り過ぎた。


  *


役所とギルドは、その日のうちに調査隊を出した。人選も装備もまともだった。この町の役人は、腰は重いが、仕事はする。ベルンも入っていたらしい。


結論が出たのは、三日後だった。


『北方岩山、旧採石場跡において大規模な落盤を確認。三十年来の空洞化によるものと推定。人的被害なし。周辺立入禁止』


掲示板に貼り出されたその紙を、俺は長いこと眺めていた。


落盤。三十年来の空洞化。


たしかに、そう読める。上から三分の一が消えた山を、下から見上げれば、崩れたようにも見える。実際、崩れた岩が斜面に散っている。それは本当だ。


ただ、消えた岩の量が、斜面に残っている量と、まるで釣り合っていない。


「言わないの?」


隣でリーナが小声で言った。彼女も同じ紙を見ていた。


「言って、どうなりますか」


「……どうにもならないわね」


「あの二人が山を削りました、って言ったら、たぶん俺は詰所に連れていかれます」


「そうね。頭を打ったと思われるわ」


俺たちは、しばらく黙って掲示を見ていた。


酒場では三日ほどその話が続いて、四日目には値上がりした麦の話に変わった。「昔から崩れそうだったからな」と誰かが言い、「そういや親父もそう言ってた」と誰かが返した。そうやって、山は元から崩れる予定だったことになった。


俺は、下水の術式のことを思い出していた。上水路を塞ぐのにあんな術式が要りますか、と聞いたときの、あの顔。


同じだ。


人は、自分の知っている引き出しに入らないものを見ると、いちばん近い引き出しに押し込む。押し込んだあと、蓋をしたことすら忘れる。


千年かけて世界中から名前を削り取るのに、たぶん、そんなに手間はかからない。


削る側が、少し手を貸してやるだけでいい。あとは、みんなが勝手に忘れてくれる。


  *


「実験しましょう」


四日目の朝、リーナが工房に炭と紙を持ち込んできた。顔つきが、三日前と違っていた。


「元気ですね」


「元気じゃないわ。……でも、これは書けるの」彼女は紙を広げた。「昨日、山が消えたでしょう。あれは書けなかった。書こうとしたら手が止まった。……でも、あなたの技能は書けるの」


「なんでですか」


「わからない。でも、たぶん」彼女は炭筆を握った。「これは、いま起きてることだから」


  *


四か月前に一人でやったことを、今度は五人でやった。


あのときは、宿の部屋で紙一枚に三日かけた。今回は、工房の床いっぱいに術式が並んでいる。リーナが片端から書いていく。彼女の三十年ぶんの手が、これまでで一番速く動いていた。


「まず、簡単なやつ」


彼女が床に描いたのは、掌ほどの小さな輪だった。


「明かりの術式よ。魔力を通すと光る。子どもが最初に習うやつ。……解いて」


魔力を通すと、輪がぼんやり光った。俺は指を伸ばした。


ある。見えていた。輪の上に線が走り、線が交わって四つの結び目を作っている。そのうち一つが、他の三つを支えている。北——いや、方角ではない。輪の内側の、いちばん深いところ。


「触ります」


「どうぞ」


指を当てた。一、二、三。ここ。


光が、消えた。


「消えたわ」リーナが身を乗り出した。「壊れてる? 線は?」


「線は残ってます」


「もう一回、魔力を通してみるわね」


彼女が指を当てた。輪は、光らなかった。


「……解けてるわ」


「壊れてはいません」


「そうね。壊れてない。ただ、機能してない」彼女は炭筆を走らせた。「もう一度、書き直せば動くと思う。……つまり、これは破壊じゃないの。解除よ」


  *


そこから、さらに三日かけた。わかったことを、リーナが箇条書きにした。


一、術式に触れる必要がある。指先が触れていれば足りる。二、一つの結び目を解くのに、三秒。三、その三秒のあいだ、俺は他のことができない。指も動かせない。四、複数を同時に解くと、時間は対象の数だけ増える。二つで六秒。三つで九秒。五、四つ以上を同時にやると、頭が割れるように痛む。


五番目は、実演で確認した。俺は床に五つ並べた術式に、同時に手をかけた。十五秒かけて、全部解けた。解けたあと、俺は工房の隅で三十分うずくまっていた。頭の後ろから目の奥にかけて、鉄の棒を通されたような痛みが続いた。吐いた。


「もうやらないで」リーナが背中をさすった。


「限界を知る必要があります」


「知ったでしょう!」


「はい。四つまでです」


「そう書いておくわ」


六、大きすぎる術式は、解けない。


これも確認した。リーナが持っていた、遺跡の扉の写し。あれを見ながら、俺は「見える」かどうかを試した。見えた。見えたが。


「無理です」


「なんで」


「結び目が、多すぎます」


「いくつ?」


「数えられません」俺は写しを指でなぞった。「番人の楔は四つでした。あの扉は、たぶん、何百とあります。しかも、どれが支点なのかわからない。……全部が全部を支えてるみたいに見えます」


「じゃあ、あなた、あの扉は開けられなかったの?」


「開けてません」俺は言った。「あのとき俺が解いたのは、鎖です。術式には触ってません」


その事実に、俺は少しほっとしていた。


いま、俺の手は、四か月前にはできなかったことができる。でも、無敵になったわけではない。大きすぎるものは解けない。多すぎるものも解けない。触れなければ解けない。三秒のあいだ、俺は動けない。


相変わらず、守られないと何もできない。そのことが、なぜか少し、安心だった。


  *


「名前が要るわ」実験の四日目に、リーナが言った。


「名前?」


「記録に書くのよ。『あの、指で触ってなんかするやつ』とは書けないでしょ」


「まあ」


「あなたが決めて」


俺は、少し考えた。


一点を解くやつ。輪の中で、一箇所だけ噛んでいるところを見つけて、そこを逃がす。逃がすと、あとは全部が自然に緩んでいく。破ってはいない。壊してもいない。ほんの一点、綻ばせるだけだ。


「《綻び》で」


「綻び」


「はい」


「いいわね。書くわ」彼女は炭を走らせた。「複数のほうは?」


「……《解糸》」


「かいし」


「はい。糸を、解くので」


「そのままね」


「そのままです」


リーナは笑った。三日ぶりに、彼女が笑った。


  *


その日の午後、ガルドが工房に戻ってきた。彼は肩の添え木を外していた。まだ完全ではないが、動かせるようになったらしい。


「終わったか」


「だいたい」


「じゃあ、俺のを試せ」


彼が持ってきたのは、短剣だった。俺のではない。彼が自分で打ったものだ。刃が青みがかっている。


「付与だ。鍛冶の術だ。刃に術式を焼き込んで、切れ味を落ちにくくする。ドワーフの基本の基本だな」彼は刃を灯りにかざした。「これを打つのに、俺は三日かけた。焼き入れが二回、術式の刻みが一回。三日だ」


「はい」


「解いてみろ」


俺は、刃に指を当てた。


ある。床に描いた明かりの術式とは、まるで違った。線が、金属の中に沈んでいる。表面ではない。刃の内側に、何十本もの細い線が走って、互いを支え合っている。


美しかった。そう思った。意味はわからない。ただ、この構造は、誰かが長い時間をかけて考えて、何度も直して、無駄を削ぎ落として、こうなったのだとわかった。


「……三日じゃ、できないと思います」


「あ?」


「これ、三日で作れるものじゃないです。……何百年もかけて、少しずつ形になったやつです」


ガルドが、俺を見た。


「よくわかったな」


「見えるので」


「そうかい」彼は少し黙ってから、言った。「うちの一族が、七百年かけて磨いた組み方だ。俺が三日でやれるのは、先に六百九十七年ぶんが済んでるからだよ」


「解いていいんですか」


「解け」


「戻せませんよ」


「戻す。俺が打ち直す」


「三日かかりますよね」


「かかる」彼は言った。「やれ」


俺は、支点を探した。


多い。明かりの術式は四つだった。この付与は、二十を超えている。だが、多いだけで、複雑ではなかった。全部が全部を支えているのではない。中心が、はっきりしている。刃元。柄に近い、いちばん最初に焼き込まれた一点。そこが、二十全部を支えていた。


「三秒です」


「やれ」


一、二、三。ここ。


  *


音は、しなかった。


刃の青みが、消えた。それだけだ。折れも、曲がりも、欠けもしない。ただの鋼になった。


俺は、短剣をガルドに返した。彼はそれを受け取って、指の腹で刃をなぞった。なぞって、しばらく、そのままでいた。


「ガルド」


「ああ」


「戻せますか」


「戻せる」


「よかった」


「よかねえよ」


彼は、短剣を作業台に置いた。


俺は、そのとき初めて気づいた。この人は、笑っていない。


ガルドは、笑う男だ。俺が「肝臓、大丈夫ですか」と言ったときも笑った。「この隊にいる意味があるのか」と聞いたときも、大きな声で笑った。灰喰いの前でも、大角狼の前でも、番人の前でも、この人はどこかで一度は笑っていた。


いま、笑っていない。


「……坊主」彼は作業台に手をついたまま、こちらを見ずに言った。


「なんですか」


「お前、いま、俺の七百年を三秒で解いた」


「あ」


「戻せる。俺が三日かけりゃ戻る。だから、損はしてねえ。……してねえんだが」


彼はそこで一度、息を吐いた。


「そりゃあ、恐ろしい力だな。——作った側からすりゃ」


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