掠らない刃
町に戻って、三日が過ぎた。
金貨十枚は、あっさり支払われた。受付の担当官は「お疲れさまでした」とだけ言って、それ以上は何も聞かなかった。聞くなと言われているのだろう。
俺のランクは、Dに上がった。
「特級依頼の達成ですので。本来ならCも検討されるのですが、Fからの飛び級はDまでという規定がありまして」
「Dで十分です」
「そうですか」
四か月半で、Fから、D。新しい登録証を受け取って、俺はしばらくそれを眺めた。
『セイン・ヴェルグ D』
嬉しくないわけではなかった。ただ、その札を手に入れるまでに起きたことを思うと、札のほうが軽すぎて、うまく釣り合わなかった。
体は、完全に治っていた。背中の擦り傷も、割れた爪も、腹の打撲も、一晩で消えた。リーナが三日間、俺の体をあちこち調べた。結果、彼女はこう言った。
「治ってるんじゃないわ。なかったことになってる」
「違いますか」
「大違いよ。傷が治るなら、痕が残るの。あなた、痕がないの」
*
四日目の朝、俺は町の外へ出た。一人でだ。誰にも言わなかった。
草地の真ん中で立ち止まって、目を閉じた。お考えいただければ届きます、とリリスは言った。俺は、考えた。
「はい」
目を開けると、彼女がいた。三歩前に、白い翼を畳んで。
「うわ」
「申し訳ございません。驚かせました」
「いえ、その、本当に来るんだなと」
「参ります」
彼女はそう言って、頭を下げた。
「よお」背後から声がした。振り返ると、ベルゼが草の上に寝転がっていた。いつからそこにいたのか、まったくわからない。
「あんたも来るんですか」
「呼ばれてねえけどな。こいつが動くと、俺にはわかる」
「わかるんですか」
「わかるんだよ。……腹立つことにな」
「聞きたいことがあって。あなたたち、どのくらい強いんですか」
リリスは、少し考えた。
「比べる対象がございませんと、お答えしにくいのですが」
「じゃあ、番人と比べて」
「あれは、機構でございます」
「勝てますか」
「三秒ほどかと」
俺は、言葉に詰まった。俺たちは、あれに三日かけた。二回戦って、一回負けて、ガルドが骨を折って、五人がかりで六秒を作って、ようやく止めた。
三秒。
「……見せてもらえますか。実際に、どのくらいなのか」
「やめとけ」ベルゼが起き上がった。「見ねえほうがいい。見ると、しばらく飯が不味くなる」
「経験談みたいに言いますね」
「経験談だよ。……千年前にな」
*
結局、俺たちは町の北の荒れ地へ移動した。歩いて二時間ほどの、旧採石場の跡地だ。町からは見えないが、その向こうの岩山は、ハルグのどこからでも見える。
四人も来た。「一人で行かせるわけないでしょ」とリーナが言い、ガルドが「阿呆が」と言い、フェンリスが「面白そうだ」と言い、レクスが黙ってついてきた。
荒れ地には、岩と、砂利と、枯れ草しかない。人はいない。三十年前に採石をやめて以来、誰も来ないのだという。
「ここでいいですか」
「はい」リリスは翼を広げた。「では、ベルゼ」
「へいへい」
「離れてください」
「どのくらい」
「あの丘の向こうまで」
「……あの丘、五百歩くらいありますけど」
「はい」
俺たちは五百歩下がった。下がりながら、フェンリスが言った。
「なあ、これ、本当に大丈夫か」
「なにがですか」
「五百歩下がれって言われて、下がれる距離で戦う奴らがいるか?」
*
始まりの合図は、なかった。
ベルゼが、消えた。消えた、というのは、俺の目の処理が追いつかなかったという意味だ。次の瞬間、リリスの立っていた場所に黒い翼があった。腕が、振り抜かれていた。
音が、遅れてきた。空気が裂ける音だ。鞭を千本まとめて振ったような音が、五百歩離れた俺たちの耳を打った。砂利が、面で持ち上がった。俺たちの前の地面が、波打った。
「うわ——!」
ガルドが片腕で俺を掴んで、後ろへ引いた。
リリスは、そこにいなかった。上にいた。三十尺ほど。白い翼が、一度だけ打たれていた。その手の中に、光があった。
光が、落ちた。落ちた、としか言いようがない。一本の柱になって、上から下へ。ベルゼのいた場所を、その柱が通り抜けた。
地面が、消えた。そこにあった岩も、砂利も、枯れ草も、全部が一瞬で白くなって、なくなった。あとには、丸い穴が残った。深さは、俺の背丈の三倍以上ある。
「……嘘でしょ」リーナが呟いた。「あれ、詠唱がないわ」
「なんですか」
「精霊魔法も、術式も、必ず詠唱か印が要るの。準備なしで、あの規模なんて——」
ベルゼは、穴の縁に立っていた。無傷だ。彼は肩をすくめて、それから両手を広げた。
その次に起きたことを、俺は正確に描写できない。
黒いものが、広がった。翼ではない。もっと大きくて、輪郭がない何かだ。それが、荒れ地の東側をまるごと覆った。覆われた場所から、音が消えた。光も消えた。そして、その領域が内側に向かって縮んだ。
岩が、砕けた。砕けたのではない。潰れた。何十という岩が同時に内側へ向かって圧し潰されて、砂になった。
リリスは、その中にいた。白い光が内側から広がって、黒いものを押し返す。二つがぶつかった場所で、空気が鳴った。
俺は、東を見た。荒れ地の向こうに、低い山があった。採石場の元になった、岩の山だ。
その稜線が、なくなっていた。上から三分の一ほどが、削り取られたように消えている。
音は、そのあとに来た。腹の底を殴られるような低い音が、遅れて五百歩を渡ってきて、俺たちの体を通り抜けていった。
「……おい」フェンリスが言った。声が震えていた。「なあ、おい。あれ、山だぞ」
俺は、返事ができなかった。俺たちは、五百歩下がった場所で地面に伏せていた。観客ですらなかった。たまたまそこにあった、地形の一部だった。
*
戦いは、それから二十秒ほど続いて、終わった。
二人は、荒れ地の中央に降り立った。リリスの衣は、乱れてすらいなかった。ベルゼの翼も、一枚も欠けていない。二人とも、息も上がっていなかった。
「これで、よろしいでしょうか」リリスがこちらを向いて言った。
「……はい」俺は、なんとかそう答えた。
「まだ全力ではございませんが」
「もういいです」
「はい」
四人は、しばらく立ち上がれなかった。ガルドが片腕で額を拭った。
「……九十二年生きた。これは、俺の九十二年の外にある」
*
俺は、荒れ地を見ていた。穴が三つ。砂になった岩。稜線の消えた山。そして、その中央に立つ二人。
おかしい。
その違和感がどこから来たのか、最初はわからなかった。俺は、いま見たものを頭の中で巻き戻した。
ベルゼの最初の一撃。腕が振り抜かれた場所は、リリスの首だった。外れた。リリスは上に飛んだ。だが、飛ぶより先に、あの腕は首の高さを通っていた。通ったのに、髪一本も切れていない。
リリスの光の柱。ベルゼの立っていた場所に落ちた。地面が消えるほどの威力で。だが、ベルゼは穴の縁にいた。穴の、縁だ。避けたのではない。柱が、彼のいた場所の半歩ぶん横に落ちていた。
黒いものが荒れ地を覆ったとき。あれは、リリスを飲み込んでいた。飲み込んで、潰した。岩を砂にした力で。なのに、彼女の衣は乱れてすらいない。
俺は、数えていた。癖だ。四か月、俺はずっと数えてきた。錠の三秒、番人の六秒、レクスの牙の回数。二十秒の戦いのあいだに、二人が交わした攻防を、俺の頭は勝手に数えていた。
二十七回。
二十七回、二人は互いに攻撃した。そのうち、相手の急所に届いた軌道が——ゼロ。
一度も、なかった。首。心臓。翼の付け根。頭。そのどれにも、一度も、掠りもしていない。山を削るほどの力で。音より速い動きで。二十七回、全部。
俺は、その事実をしばらく見つめていた。
偶然か。そう思おうとして、失敗した。
俺は四か月かけて、結び目を見つける訓練をしてきた。噛んでいる場所を、支点を、どこを逃がせば緩むかを、指と目で探す訓練を。そういう訓練をした人間には、こう見える。
あれは、外している。正確に。丁寧に。二十七回、全部。
「セイン?」リーナが俺の顔を覗き込んだ。「大丈夫? 顔が白いわよ」
「……あ」
「そりゃ白くもなるわね。山が消えたもの」
「はい」
「わたしも足が震えてるわ」
俺は、口を開きかけた。いま見たものを、言おうとした。
でも、言わなかった。
理由はいくつかある。数え間違いかもしれない。俺の目が悪いのかもしれない。二十秒の出来事を、Dランクの十五歳が正しく読めるはずがない。
でも、いちばん大きな理由は、たぶん、別だ。
——言ったら、確かめなきゃいけなくなる。
それが、俺の一番古い癖だった。




