凍った三人
外に出ると、日が傾いていた。丸一日、あの中にいたことになる。
草の匂いがした。風が動いていた。虫が鳴いていた。あまりにも普通の夕方で、俺は少しのあいだ、自分がどこにいるのかわからなくなった。
「あの、あなたたちは、どうするんですか」
俺が振り返って聞くと、リリスは扉のところで立ち止まった。
「離れて、お守りいたします」
「守る?」
「はい。……距離を置きます。近くにいれば、ご迷惑でしょうから。必要なときは、お呼びください」
「呼び方がわかりません」
「お考えいただければ、届きます」
「……便利ですね」
「はい」
ベルゼは、扉の脇の石に腰かけていた。
「じゃあな」
「あの、ひとつ聞いていいですか」
「順番があるって言っただろ」
「順番の外です」
彼は片眉を上げた。
「言ってみろ」
「あなた、俺の夢に出たとき」俺は言った。「答えを、待ってましたよね」
ベルゼは、しばらく黙っていた。石の上で、黒い翼を一度だけ畳み直した。
「……知らねえって言っただろ」
「はい」
「しつこい奴だな」
「よく言われます」
「そうかよ」
彼は立ち上がって、背を向けた。そして、歩き出しながら、聞こえるか聞こえないかの声で言った。
「——早く答えろよ」
俺が聞き返す前に、翼が一度打たれた。風が来て、彼の姿は消えていた。
*
帰路は、三日かかった。
一日目、誰も口をきかなかった。正確には、必要なことは話した。「水はあるか」「あと二時間で日が落ちる」「ここで野営にしよう」。実務の言葉は普通に出た。出なかったのは、それ以外の全部だった。
俺は、途中で気づいた。誰も、あの言葉を使わない。
神。丸一日、五人の誰も、その一文字を口にしていなかった。
俺自身も、だ。意識して避けたわけではない。使おうとすると、なぜか別の言い方に置き換わる。「さっきの話」「あれ」「向こうの二人が言ってたこと」。
十日ほど前、行きの丘の上で俺が守護神の名を聞いたとき、ガルドとフェンリスが凍った。あのときは、二人の問題だと思っていた。いまは、俺も同じことをしている。
*
二日目の昼、俺はリーナの横を歩いた。
彼女は革筒を提げていた。いつもどおりだ。いつもどおりでないのは、炭筆を持っていないことだった。
「リーナさん。記録、取らないんですか」
「……取るわ」
「取ってませんよね」
「あとで取るの」
「昨日も、そう言ってました」
彼女の足が止まった。革筒に手をやって、そのまま動かなくなった。
「セイン。わたし、三十年、記録を取ってきたの」
「はい」
「遺跡を見たら書く。話を聞いたら書く。矢が何本減ったかも書く。……昨日、わたしは、あの部屋で、床に刻まれた円の直径を測ってない」彼女の声は平坦だった。「測ってないのよ。三十年で、初めて」
「なんでですか」
「わからない。書こうとすると、手が止まるの」
俺は、彼女の顔を見た。疲れていた。炭で汚れていない顔を見るのは、久しぶりだった。
「昨日、リリスに聞かれたでしょう。『残っておりましたか』って」彼女は言った。「あれ、効いたわ」
彼女は少し笑った。全然、笑っていなかった。
「わたし、八百年ぶんの記録を全部読んだのが自慢だったの。里で誰も読まない棚まで読んだ。それで、何かを知った気になってた。……でも、あの人の言うとおりよ。わたしが読んだのは、残ってるものだけ」
彼女は歩き出した。
「残ってないものを、わたしは一度も数えなかった」
*
二日目の夜、ガルドが火から離れたところで酒を飲んでいた。俺は少し迷ってから、隣に座った。
「飲むか」
「飲めません」
「そうだったな」
彼は袋の口を締めた。しばらく、二人とも黙っていた。虫が鳴いていた。
「ガルド」
「言わねえぞ」
「わかってます」
「なら、なんだ」
「ひとつだけ、確認していいですか」
「……言ってみろ」
「あなたは、俺が神を——」
言いかけて、俺は詰まった。その一文字が、また、出てこなかった。
「……あれを、還すのが、嫌なんですよね」
「嫌だ」即答だった。
「なんでですか」
「言わねえ」
「言えないんじゃなくて、言わない」
「そうだ」
「なんで言わないんですか」
ガルドは、酒袋を膝に置いた。そして、初めて、少しだけ答えた。
「言ったら、お前が背負う」
「え」
「知っちまったら、二度と知らねえ頃には戻れねえ。お前はまだ十五だ」
「もう聞いてます。だいぶ」
「聞いてる。だが、まだ半分だ」彼は火のほうを見た。「あと半分聞いたら、お前は、たぶん、ずっと重いものを持って歩くことになる」
俺は、そこでリーナの祖母のことを思い出した。百二十七年、「まだ早い」とだけ言い続けた千二百歳。
同じだ。理由まで、たぶん、同じだ。
「ガルド。エルフの里に、リーナのお祖母さんがいます」
「聞いてる」
「その人も、同じことを言うそうです。まだ早い、って」
ガルドの手が、止まった。
「……そうかい」
「あなたも、同じですか」
「同じだな」彼はあっさり認めた。「腹が立つか」
「立ちません」
「立てよ」彼は言った。「立てねえと、お前はいつまで経っても、俺たちみたいになる」
*
三日目の朝、町まであと半日というところで、フェンリスが俺の隣に来た。彼は歩きながら、前を向いたまま言った。
「セイン。昨日から、ずっと考えてた」
「はい」
「俺は、あの二人が言ったことの、半分も理解してねえ。器だの一片だの、そういうのは俺の頭には入らねえ。……だから、ひとつだけ言う」
彼は立ち止まった。俺も止まった。フェンリスは俺のほうを向いた。金色の目が、まっすぐこちらを見ていた。
「理由は、言えねえ。——言えねえ、じゃねえな。知らねえんだ」
「知らない?」
「知らねえよ。俺は部族の祭壇を壊した男だぞ。祭壇に何が祀ってあったのかも、実は知らねえ。誰も教えてくれなかった」
彼は、自分の胸を叩いた。
「でも、ここが言うんだ。行きの丘の上で、お前が神の名前を聞いたときも、ここが言った。昨日、あの女が『還す』って言ったときも、ここが言った」
「なんて言ってるんですか」
フェンリスは、少し黙った。そして、はっきりと言った。
「あれは、復活させちゃいけねえ」
「理由は」
「ねえ」
「証拠は」
「ねえ」
「じゃあ、なんで——」
「わかんねえよ!!」
彼は、初めて声を荒らげた。
「わかんねえんだよ! 俺だってわかんねえ! 教えられたことも、読んだこともねえ! なのに、腹の底が冷える! 十六年前も、十日前も、昨日も、同じだ!」
彼は自分の頭を掻きむしった。
「これがな、いちばん気持ち悪いんだ。俺は隠さねえ男だ。腹が立てば怒鳴るし、痛けりゃ痛いって言う。……なのに、これだけは、理由がわからねえまま体が言うことをきかねえ」
彼は荒い息を吐いて、それから少し声を落とした。
「なあ、セイン。俺は、お前が決めることに文句は言わねえ」
「はい」
「還すって決めても、俺は隊にいる」
「……いいんですか」
「よくねえよ。全然よくねえ」彼は言った。「でも、お前を一人にするほうが、もっと駄目だ」
俺は、返事ができなかった。
*
その日の午後、俺たちは町に戻った。
門をくぐるとき、俺は最後尾を歩いていた。前を、三人が歩いている。ガルドは片腕を吊って。リーナは炭筆を持たないまま。フェンリスは黙って。
レクスだけが、俺の後ろにいた。
彼女は隊の最後尾を歩くのが好きではないはずだ。背中を空けることになるからだ。それでも、俺の三歩後ろという位置だけは、この十日間、一度も譲らなかった。
三人は、知らない。俺はそう思った。ガルドですら、たぶん、全部は知らない。知らないのに、三人とも、同じ場所で凍る。理由を知らないまま、身体だけが覚えている。
——レクスだけが、凍らなかった。
そのことに、俺はこの三日間、一度も触れなかった。
そして、それは、俺が四か月前に丘の上で気づいたことと、まったく同じだった。
宛先だけが、抜き取られている。抜き取られたあとの穴を、誰も見ないようにしている。見ないようにしているという自覚すら、もう誰も持っていない。
誰かが、そうしたんだ。
俺は門の内側で立ち止まって、空を見た。雲が、ゆっくり流れていた。
千年前に、誰かが、この世界の全部から、丁寧に名前を削り取った。
そして、その誰かは、たぶん、まだ、どこかにいる。




