↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
灰燼の神話 〜神殺しの副産物〜  作者: NN
三人の仲間

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

35/62

凍った三人

外に出ると、日が傾いていた。丸一日、あの中にいたことになる。


草の匂いがした。風が動いていた。虫が鳴いていた。あまりにも普通の夕方で、俺は少しのあいだ、自分がどこにいるのかわからなくなった。


「あの、あなたたちは、どうするんですか」


俺が振り返って聞くと、リリスは扉のところで立ち止まった。


「離れて、お守りいたします」


「守る?」


「はい。……距離を置きます。近くにいれば、ご迷惑でしょうから。必要なときは、お呼びください」


「呼び方がわかりません」


「お考えいただければ、届きます」


「……便利ですね」


「はい」


ベルゼは、扉の脇の石に腰かけていた。


「じゃあな」


「あの、ひとつ聞いていいですか」


「順番があるって言っただろ」


「順番の外です」


彼は片眉を上げた。


「言ってみろ」


「あなた、俺の夢に出たとき」俺は言った。「答えを、待ってましたよね」


ベルゼは、しばらく黙っていた。石の上で、黒い翼を一度だけ畳み直した。


「……知らねえって言っただろ」


「はい」


「しつこい奴だな」


「よく言われます」


「そうかよ」


彼は立ち上がって、背を向けた。そして、歩き出しながら、聞こえるか聞こえないかの声で言った。


「——早く答えろよ」


俺が聞き返す前に、翼が一度打たれた。風が来て、彼の姿は消えていた。


  *


帰路は、三日かかった。


一日目、誰も口をきかなかった。正確には、必要なことは話した。「水はあるか」「あと二時間で日が落ちる」「ここで野営にしよう」。実務の言葉は普通に出た。出なかったのは、それ以外の全部だった。


俺は、途中で気づいた。誰も、あの言葉を使わない。


神。丸一日、五人の誰も、その一文字を口にしていなかった。


俺自身も、だ。意識して避けたわけではない。使おうとすると、なぜか別の言い方に置き換わる。「さっきの話」「あれ」「向こうの二人が言ってたこと」。


十日ほど前、行きの丘の上で俺が守護神の名を聞いたとき、ガルドとフェンリスが凍った。あのときは、二人の問題だと思っていた。いまは、俺も同じことをしている。


  *


二日目の昼、俺はリーナの横を歩いた。


彼女は革筒を提げていた。いつもどおりだ。いつもどおりでないのは、炭筆を持っていないことだった。


「リーナさん。記録、取らないんですか」


「……取るわ」


「取ってませんよね」


「あとで取るの」


「昨日も、そう言ってました」


彼女の足が止まった。革筒に手をやって、そのまま動かなくなった。


「セイン。わたし、三十年、記録を取ってきたの」


「はい」


「遺跡を見たら書く。話を聞いたら書く。矢が何本減ったかも書く。……昨日、わたしは、あの部屋で、床に刻まれた円の直径を測ってない」彼女の声は平坦だった。「測ってないのよ。三十年で、初めて」


「なんでですか」


「わからない。書こうとすると、手が止まるの」


俺は、彼女の顔を見た。疲れていた。炭で汚れていない顔を見るのは、久しぶりだった。


「昨日、リリスに聞かれたでしょう。『残っておりましたか』って」彼女は言った。「あれ、効いたわ」


彼女は少し笑った。全然、笑っていなかった。


「わたし、八百年ぶんの記録を全部読んだのが自慢だったの。里で誰も読まない棚まで読んだ。それで、何かを知った気になってた。……でも、あの人の言うとおりよ。わたしが読んだのは、残ってるものだけ」


彼女は歩き出した。


「残ってないものを、わたしは一度も数えなかった」


  *


二日目の夜、ガルドが火から離れたところで酒を飲んでいた。俺は少し迷ってから、隣に座った。


「飲むか」


「飲めません」


「そうだったな」


彼は袋の口を締めた。しばらく、二人とも黙っていた。虫が鳴いていた。


「ガルド」


「言わねえぞ」


「わかってます」


「なら、なんだ」


「ひとつだけ、確認していいですか」


「……言ってみろ」


「あなたは、俺が神を——」


言いかけて、俺は詰まった。その一文字が、また、出てこなかった。


「……あれを、還すのが、嫌なんですよね」


「嫌だ」即答だった。


「なんでですか」


「言わねえ」


「言えないんじゃなくて、言わない」


「そうだ」


「なんで言わないんですか」


ガルドは、酒袋を膝に置いた。そして、初めて、少しだけ答えた。


「言ったら、お前が背負う」


「え」


「知っちまったら、二度と知らねえ頃には戻れねえ。お前はまだ十五だ」


「もう聞いてます。だいぶ」


「聞いてる。だが、まだ半分だ」彼は火のほうを見た。「あと半分聞いたら、お前は、たぶん、ずっと重いものを持って歩くことになる」


俺は、そこでリーナの祖母のことを思い出した。百二十七年、「まだ早い」とだけ言い続けた千二百歳。


同じだ。理由まで、たぶん、同じだ。


「ガルド。エルフの里に、リーナのお祖母さんがいます」


「聞いてる」


「その人も、同じことを言うそうです。まだ早い、って」


ガルドの手が、止まった。


「……そうかい」


「あなたも、同じですか」


「同じだな」彼はあっさり認めた。「腹が立つか」


「立ちません」


「立てよ」彼は言った。「立てねえと、お前はいつまで経っても、俺たちみたいになる」


  *


三日目の朝、町まであと半日というところで、フェンリスが俺の隣に来た。彼は歩きながら、前を向いたまま言った。


「セイン。昨日から、ずっと考えてた」


「はい」


「俺は、あの二人が言ったことの、半分も理解してねえ。器だの一片だの、そういうのは俺の頭には入らねえ。……だから、ひとつだけ言う」


彼は立ち止まった。俺も止まった。フェンリスは俺のほうを向いた。金色の目が、まっすぐこちらを見ていた。


「理由は、言えねえ。——言えねえ、じゃねえな。知らねえんだ」


「知らない?」


「知らねえよ。俺は部族の祭壇を壊した男だぞ。祭壇に何が祀ってあったのかも、実は知らねえ。誰も教えてくれなかった」


彼は、自分の胸を叩いた。


「でも、ここが言うんだ。行きの丘の上で、お前が神の名前を聞いたときも、ここが言った。昨日、あの女が『還す』って言ったときも、ここが言った」


「なんて言ってるんですか」


フェンリスは、少し黙った。そして、はっきりと言った。


「あれは、復活させちゃいけねえ」


「理由は」


「ねえ」


「証拠は」


「ねえ」


「じゃあ、なんで——」


「わかんねえよ!!」


彼は、初めて声を荒らげた。


「わかんねえんだよ! 俺だってわかんねえ! 教えられたことも、読んだこともねえ! なのに、腹の底が冷える! 十六年前も、十日前も、昨日も、同じだ!」


彼は自分の頭を掻きむしった。


「これがな、いちばん気持ち悪いんだ。俺は隠さねえ男だ。腹が立てば怒鳴るし、痛けりゃ痛いって言う。……なのに、これだけは、理由がわからねえまま体が言うことをきかねえ」


彼は荒い息を吐いて、それから少し声を落とした。


「なあ、セイン。俺は、お前が決めることに文句は言わねえ」


「はい」


「還すって決めても、俺は隊にいる」


「……いいんですか」


「よくねえよ。全然よくねえ」彼は言った。「でも、お前を一人にするほうが、もっと駄目だ」


俺は、返事ができなかった。


  *


その日の午後、俺たちは町に戻った。


門をくぐるとき、俺は最後尾を歩いていた。前を、三人が歩いている。ガルドは片腕を吊って。リーナは炭筆を持たないまま。フェンリスは黙って。


レクスだけが、俺の後ろにいた。


彼女は隊の最後尾を歩くのが好きではないはずだ。背中を空けることになるからだ。それでも、俺の三歩後ろという位置だけは、この十日間、一度も譲らなかった。


三人は、知らない。俺はそう思った。ガルドですら、たぶん、全部は知らない。知らないのに、三人とも、同じ場所で凍る。理由を知らないまま、身体だけが覚えている。


——レクスだけが、凍らなかった。


そのことに、俺はこの三日間、一度も触れなかった。


そして、それは、俺が四か月前に丘の上で気づいたことと、まったく同じだった。


宛先だけが、抜き取られている。抜き取られたあとの穴を、誰も見ないようにしている。見ないようにしているという自覚すら、もう誰も持っていない。


誰かが、そうしたんだ。


俺は門の内側で立ち止まって、空を見た。雲が、ゆっくり流れていた。


千年前に、誰かが、この世界の全部から、丁寧に名前を削り取った。


そして、その誰かは、たぶん、まだ、どこかにいる。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。