胸の結び目
「聞くな」
ガルドは、もう一度そう言った。さっきの怒鳴り声とは違う。低い、押し殺した声だった。
「この話は、ここで終いだ。遺跡を出るぞ。依頼は達成した。金貨十枚もらって、町に帰る」
「ガルド」
「帰るんだよ」
「その依頼を出したのは、誰ですか」
彼の言葉が、止まった。
「依頼主の欄は、線が引いてありました。名前が書けない相手です」俺は言った。「顔を削った奴と、名前を削った奴と、この機構の口を塞いだ奴と、依頼を出した奴。……全部、別人ですか?」
「知らん」
「知らないなら、帰っても同じです。帰った先に、そいつがいます」
ガルドは、鎚を杖にしたまま俺を見ていた。長い時間だった。
「……変わったな、坊主」
「え」
「五日前のお前なら、そこで黙ってた」
その言葉に、俺は少し詰まった。そのとおりだったからだ。
五日前——いや、四か月前から、俺はずっとそうしてきた。人が「聞くな」と言えば聞かなかった。「言えない」と言えば追及しなかった。ガルドの指のことも、フェンリスの妹のことも、リーナの祖母のことも、全部、輪郭で止めておいた。踏み込まなければ、誰も傷つかない。そう思っていた。
でも、いまはっきりわかったことがある。俺が踏み込まなかったせいで、俺は何ひとつ知らないまま、ここまで来た。自分の胸の中に千年前の何かが入っていることも、四か月間、誰にも聞かなかった。
「ガルド」
「なんだ」
「俺、聞きます」
「……そうか」彼は目を閉じて、それから鎚を床に置いた。「なら、俺は止めねえ。だが、俺は何も言わねえぞ」
「はい」
「言えねえんじゃねえ。言わねえんだ。区別しとけ」
*
「では」リリスが言った。「順に、申し上げます」
「あなた様の内にあるのは、一柱の神の一片です」
「はい」
「その神は、ある種族の守護神でございました」
「どの種族ですか」
彼女は、少し間を置いた。
「……もう、ございません。その種族は、もう、この世におりません」
部屋が、静かになった。
「滅びたってこと?」リーナが聞いた。
「はい」
「いつ」
「千年前でございます」
「なんの種族?」
「名は」リリスは静かに言った。「削られました」
また、それだ。
俺は、両側の広間のほうを見た。顔のない像。名前のない台座。口を塞がれた機構。そして、名前を失った種族。
「種族が丸ごと滅びて、名前まで消えてるって」リーナの声が震えていた。「そんなこと、ありえない。記録に残るはずよ。滅びた種族の名前くらい、どの書庫にも——」
「残っておりましたか」リリスが聞き返した。
リーナは、口を開けたまま動かなくなった。
「わたし……八百年ぶんの記録を、全部読んだわ。種族の一覧も見た。人間、エルフ、ドワーフ、獣人。四つよ。ずっと四つ」
「はい」
「五つ目なんて、書いてなかった」
「はい」
「五つ目が、いたの?」
リリスは、答えなかった。答えないことが、答えだった。
*
俺は、自分の胸に手を当てた。あの夜、宿の部屋で見つけたときの感触を思い出す。大きくて、古くて、丁寧すぎるくらい丁寧に結ばれていたもの。三秒でも五秒でも十秒でも、びくともしなかったもの。
「あれが、神ですか」
「一片でございます」
「一片って、どのくらいですか」
「爪の先ほどにも」
「じゃあ、残りは」
「失われました」
「失われたって、どこにですか」
「どこにも」
彼女の答えは、いつも短かった。短いのに、聞くたびに背中が冷たくなった。
「一片で足りるんですか。神を、復活させるのに」
「足りません」
「じゃあ」
「時が要ります」リリスは言った。「器が、器として熟すのに、時が要ります。……一片は、ゆっくりと満ちます。器の中で」
「どのくらいかかるんですか」
「わかりません。……前例が、少のうございますので」
「前例」俺は繰り返した。「俺の前にも、いたんですか」
そのとき、初めて、リリスの返事が遅れた。
一拍だった。たった一拍だ。でも、この少女は、ここまで全部、間を置かずに答えていた。
「……おりました」
「何人ですか」
「……」
「何人ですか」
「セイン」ベルゼが割って入った。「順番があるって言っただろ。それは、まだ先だ」
「あなたたち、いつも順番の話をしますね」
「順番は大事だぜ。話す順番を間違えると、聞くほうが壊れる。……千年ぶんの話を、半日で全部飲めると思うか?」
俺は、黙った。たしかに、俺の頭は、さっきからほとんど動いていない。
「じゃあ、ひとつだけ」俺は言った。「復活させるのに、俺は何をすればいいんですか」
「何も」リリスは言った。
「え」
「何もなさらなくて結構です。……ただ、ひとつだけ」彼女はまっすぐ俺を見た。「お許しをいただければ」
「許し」
「はい。……依代は、器です。ですが、物ではございません。宿るものは、器の同意なしには、満ちません」
俺は、ゆっくり、その意味を噛み砕いた。
「つまり」
「はい」
「俺が嫌だと言えば、神は復活しない」
「はい」
「絶対に?」
「絶対に」
*
拍子抜けするほど、簡単な話だった。
千年待った天使と悪魔がいて、口を塞がれた機構がいて、顔を削られた像が十一体並んでいて、名前を消された種族があって。その全部の答えが、俺の一言で決まる。俺が「嫌だ」と言えば、終わる。
「じゃあ」俺は言った。「断ります、って言ったら?」
沈黙が、落ちた。
俺は二人を見ていた。見ていて、そして、気づいた。反応が、変だ。
リリスは、目を伏せていた。それは予想の範囲内だった。落胆するか、説得を始めるか、そのどちらかだろうと思っていた。
問題は、ベルゼだった。
彼は、笑いかけていた。口の端が、上がりかけていた。いつもの、意地の悪い笑い方ではない。もっと単純で、もっと素直な、何かが緩んだときの顔だ。
それを、彼は途中で止めた。止めて、顔をこすった。
「……馬鹿言うな。千年待ったんだぞ」
「そうですよね」
俺は言った。言いながら、頭のどこかがずっと引っかかっていた。いま、この人、笑いかけたよな。
「ご返答は、急ぎません」リリスが顔を上げた。いつもの顔に戻っていた。「時が要ると申し上げました。……一年か、十年か、あるいは、もっと。わたくしどもは、待ちます」
「千年待ったんだから、あと十年くらい平気ってことですか」
「はい。その通りでございます」
あまりに素直に肯定されたので、俺は何も言えなくなった。
「じゃあ、帰るぞ」ガルドが言った。
「まだ聞くことが——」
「今日はここまでだ」彼は鎚を拾い上げた。「坊主。お前は、あの機構を止めて、床に落ちて、三十秒息をしてなかった。それから半刻も経ってねえ。……いい加減、倒れろ」
言われて、俺は初めて、自分の膝が笑っていることに気づいた。
「あ」
「ほらみろ」
レクスが、俺の腕を取った。
「歩ける?」
「たぶん」
「たぶんは、駄目」
彼女は、俺の腕を自分の肩に回した。小さい。俺より頭ふたつぶん低い。なのに、その肩はまったく揺れなかった。
「行く」
「はい」
*
俺たちは、円の部屋を出た。
出るとき、俺は一度だけ振り返った。床に刻まれた円の中心で、灰色の鱗がまだそこにあった。拾わなかった。拾ってはいけない気がした。理由は、うまく言えない。
広間を抜けるとき、番人の横を通った。膝をついた姿勢のまま、動かない。関節の光は消えている。その胸の、外れた蓋の奥から、もう声はしなかった。
「……ありがとうございました」
俺は、小さく言った。返事はなかった。
二百四十歩を約五千三百万回歩いた機構は、千十七年ぶりに、何もしないでいられる場所にいた。




