名を呼ばれる
「リリスと申します」
銀髪の少女は、頭を下げたまま、そう名乗った。
「ベルゼだ」
黒翼の少年は、名乗るというより、投げるように言った。
俺は、まだ立ち上がれずにいた。膝が言うことをきかない。四か月ぶんの何かが、さっき全部抜けていったせいだと思う。
「あの」やっと出た声は、我ながら情けなかった。「夢に、出てましたよね」
「はい」リリスは即答した。「三度、伺いました」
「三度」
「はい。……申し訳ございません。眠りを乱しました」
謝られてしまった。俺はなんと返せばいいのかわからなかった。
「あんたは」俺はベルゼのほうを見た。「二回、出てました。最初の夜と——」
「知らねえな」彼はあっさり言った。
「え」
「夢だろ。俺は知らねえ」
そう言って、彼は横を向いた。
嘘だ、と思った。四か月前の彼は、俺の答えを待っていた。声が出せなかった俺を、待って、待って、それから「急がねえよ」と言って去った。あれを、知らないと言い切るのは無理がある。
「セイン」背後で、リーナの声がした。「離れて」
彼女は弓を構えていた。矢を番えている。まだ番人との戦いで数本しか残っていないはずなのに、その一本をまっすぐリリスに向けていた。フェンリスは低く構え、喉の奥を鳴らしている。ガルドは、片腕で鎚を持ち上げていた。折れた肩の側は、だらりと下がったまま。三人とも、俺と二人のあいだに割り込む位置に動いていた。
一人だけ、動いていなかった。レクスだ。
彼女は、俺の斜め後ろに立ったまま、二人を見ていた。構えていない。重心も落としていない。手も上げていない。
「レクス」
「うん」
「怖くないんですか」
彼女は、少し考えてから答えた。
「怖くない」
「なんでですか」
「わからない」彼女は首をかしげた。「怖くない理由は、ない。……ただ、怖い理由もない」
俺はその言い方を、あとで何度も思い出すことになる。彼女は二人を知っているのではなかった。ただ、恐れる理由を持っていなかっただけだ。
*
「弓を下ろしていただけますか」リリスが言った。「危険はございません」
「あんたが決めることじゃないわ」
「はい。おっしゃるとおりです」
彼女は素直に頷いて、それから両手を広げた。
「では、こうします」
翼が、消えた。音もなかった。白い翼が輪郭から溶けるように薄くなって、なくなった。背中には何も残っていない。ただの少女が、そこに立っていた。
「これで、飛べません。戦うつもりもございません。……信じていただけないのは承知しております。ですが、依代様に危害を加えるつもりは、一切ございません」
依代様。その呼び方に、俺は妙な引っかかりを覚えた。
「あの、セインでいいです」
「いえ」
「いや、あの、名前があるので」
「存じております。セイン・ヴェルグ様。……ですが、あなた様は依代です」
「セイン」ベルゼが横から言った。「呼び方だよ。俺はセインでいい。そっちの堅苦しいのは放っとけ。千年ずっとそれだ。あと、俺は翼は消さねえ。消したら格好つかねえだろ」
「消してください」
「やだね」
軽口だった。はっきりと、軽口だった。なのに、俺はそこでもうひとつ引っかかった。
距離が、同じだ。
リリスは恭しい。頭を下げ、敬語を使い、翼まで消してみせる。ベルゼはぞんざいだ。名前を呼び捨て、茶化し、要求を断る。正反対の態度だ。
なのに、二人が俺との間に置いている距離が、まったく同じだった。どちらも、こちらへ踏み込んでこない。どちらも、こちらを踏み込ませない。丁寧さも、ぞんざいさも、同じ働き方をしていた。
それに気づけたのは、たぶん、俺が同じことをやってきたからだ。前世で三十二年、今世で十五年。相槌と、聞き役と、上手な笑い方。やり方は違っても、目的は同じだった。踏み込ませないためだ。
「あの」俺は口を開いた。
「はい」
「あなたたち、何かに繋がってますよね」
*
空気が、変わった。
リリスの表情は変わらなかった。もともと、変わるものがない。だが、彼女の指がわずかに動いた。ベルゼは、横を向いたまま止まった。
「……なんの話だ」
「見えるんです。さっきから、いろんなものが見えてて。壁とか、床とか、あなたたちとか」
「見える?」
「はい。……あなたたちの背中から、線が伸びてます。細いやつが」
俺は指をさした。見えていた。さっき壁の術式が見えたときと同じだ。目に映っているのではない。ただ、そこに「繋がっているもの」があると、わかる。
二人の背中側から、それぞれ一本ずつ。細い、糸くらいの太さのものが、上へ伸びている。いや、上ではない。方向がない。この部屋のどこにも向かっていないのに、どこかへ繋がっている。
「どこに繋がってるんですか」
長い沈黙があった。
「……見えるのか」ベルゼが言った。さっきまでの軽さが、消えていた。
「見えます」
「千年、誰にも見えなかったんだがな」
「そうなんですか」
「そうだよ」彼は、初めてまっすぐ俺を見た。「……早えな。まだ半日も経ってねえのに」
「ベルゼ」リリスが制した。
「わかってるよ」彼は舌打ちをした。「先に話さねえと駄目だろ。順番がある。……じゃあ、お前が話せ。俺は下手だ」
*
リリスが一歩前に出た。三人が同時に身構える。彼女はそれを見て足を止め、その場でもう一度頭を下げた。
「では、順に申し上げます。一。あなた様は、依代です」
「はい」
「二。依代とは、神が宿るための器です」
「……はい」
「三。あなた様の内には、いま、神の一片がございます」
俺は、自分の胸に手を当てた。四か月前から、ずっとそこにあったもの。宿の部屋で見つけて、びくともしなかったもの。さっき、内側からほどけたもの。
「一片、というのは」
「欠片、という意味です。全部ではございません。ほんの、かけらです」
「残りは、どこに」
「ございません。……失われました。千年前に」
「四」彼女は続けた。「わたくしどもは、その神が遺したものです」
「遺した」
「はい。……申し上げにくいのですが、あなた様の言葉で申しますなら」彼女は、少し言葉を探すような間を置いた。「わたくしどもは、神が死んだときに、こぼれ落ちたものでございます」
俺は、何も言えなかった。
「そして、五」リリスは顔を上げた。そのとき初めて、彼女の顔に何かが浮かんだ。表情ではない。表情になる前の、何かだ。
「わたくしどもは、千年、待っておりました」
「何を」
「あなた様を。依代を。……神を、お還しするために」
*
背後で、音がした。矢が、床に落ちる音だった。
リーナの手から、番えていた矢が滑り落ちていた。彼女は弓を持ったまま、口を半分開けて、リリスを見ていた。
「……いま、なんて」
「神を、お還しすると申し上げました」
「復活させるってこと?」
「はい」
フェンリスの喉から、音が漏れた。唸り声ではなかった。もっと短い、息が詰まったような音だ。彼は一歩、後ろへ下がった。
ガルドの鎚が、床に着いた。支えきれなくなったのではない。彼は、鎚を杖にして自分の体を支えていた。
「……坊主」彼の声はかすれていた。「聞くな」
「え」
「その先は、聞くな」
「なんでですか」
「聞くな」
「ガルド」
「聞くなと言ってる!!」
彼が怒鳴ったのを、俺は初めて聞いた。九十二年ぶんの何かが、その声には入っていた。俺は口を閉じた。
そのときだ。
「——なあ」ベルゼが言った。彼は壁に背を預けて腕を組んでいた。黒い翼を畳んで、ずいぶん退屈そうな顔をしている。「そっちの言い分は聞いたな、セイン」
「はい」
「じゃあ、俺の言い分も聞け」
「ベルゼ」リリスが鋭く言った。「まだ早いです」
「早くねえよ」彼は壁から背を離した。「どうせ同じ話だ」
そして、彼は言った。
「俺も、神を呼び戻す」
「……え」
「呼び戻して」黒い翼が、一度だけ大きく開いた。「この偽物の世界を、灰にする」
*
俺は、二人を見比べた。
秩序を取り戻すために神を還す、と言った少女。世界を焼き払うために神を呼び戻す、と言った少年。正反対だった。言っていることは、完全に正反対だった。
なのに。
やることが、同じだ。




