翼
通路は、思ったより短かった。三十歩ほどだ。
壁も床も、これまでと同じ石だった。ただ、刻線が一本もない。術式も、装飾も、文字もない。ただの通路だった。
その先が、開けていた。
円形の部屋だった。天井が高い。神殿の広間よりも高いかもしれない。灯りは要らなかった。壁そのものが、淡く光っていた。
色の名前を、俺は知らなかった。青とも白とも銀とも違う。夜明け前の空を、もう一段薄めたような色だ。見ていると、目の奥が少し痛くなる。
像はなかった。台座もなかった。祭壇も、遺物も、宝も、何もなかった。
床に、円が刻んであった。直径は十歩ほど。ただの線だ。一本の円が、床に彫られているだけ。
その中心に——鱗が、一枚。
俺の足は、そこで止まった。自分の意思で止まったのか、そうでないのかは、わからなかった。
俺は、その場に膝をついた。
灰色だった。大人の手のひらを二つ並べたほどの大きさ。表面に細かい筋が走っている。木の年輪に似ていて、数えられそうで、数えると見失う。光の角度によっては、燃え尽きた薪の内側みたいに、かすかに赤い。
見間違えるはずがなかった。十五年間、俺は同じものを見てきた。錠を三つ、順に外して。かちり、かちり、かちり、と。窓のない部屋の、石の台座の上で。
灰鱗だ。
*
「セイン」
背後で声がした。リーナだった。三人が、追いついていた。
「……なによ、これ」
「鱗です」
「見ればわかるわ! なんでこんなところに」
「うちの家宝と、同じものです。ヴェルグ家の。竜の落とし鱗って呼ばれてます。三百年、うちが守ってました」
ガルドが、片腕で口元を覆った。彼が何か言うのを、俺は待たなかった。待つ余裕がなかった。俺の右手が、動いていた。
「駄目!!」リーナが叫んだ。「触っちゃ駄目!!」
指が、触れた。
冷たかった。冷たいのに、掌の奥が、じわりと熱い。十五年前の夜と、同じだった。
そして、胸の結び目が、最後の一本までほどけた。
*
——泣いている。
誰かが、泣いている。大勢だ。数えられない。顔が見えない。声だけが聞こえる。言葉ではない。ただ、泣いている音だけが、どこまでも続いている。
俺は、それを上から見ている。上から? いや、違う。俺は見ていない。聞いている。俺の体はない。目もない。ただ、その音が「わかる」だけだ。
——鱗が、降っている。
灰色のものが、空から落ちてくる。雪ではない。もっと大きくて、もっと重い。何万枚も、ゆっくりと。地面に落ちて、砕けない。積もる。積もった上に、また積もる。
——翼が、二つ。
白いのと、黒いのが。小さい。生まれたばかりの何かのように小さい。それが、灰の上で震えている。
——声。
『……すまない』
誰の声か、わからなかった。男でも女でもない。老いても若くもない。ただ、疲れきっていた。
『すまない。もう少し、待ってくれ』
『まだ、早い』
まだ、早い。その言葉を、俺はどこかで聞いていた。一か月半前の夜。闇の中で。銀髪の少女が、白い翼をひとつだけ広げて。
『次の者に、託す』
声が言った。
『次の者に、託す。……何度でも』
そして、途切れた。
*
「セイン!!」
肩を掴まれて、俺は現実に戻った。床に倒れていた。いつ倒れたのか、わからない。膝をついていたはずだ。
リーナが俺の肩を揺すっていて、フェンリスが顔を覗き込んでいて、ガルドが片腕で俺の頭を支えていた。
「息をしてなかったのよ!! 三十秒よ! 三十秒、あなた息をしてなかった!!」
「……すみません」
「謝るところじゃないでしょ!!」
彼女は本気で怒っていた。目が赤かった。
俺は体を起こした。どこも痛くなかった。
背中の擦り傷。指の割れた爪。腹の痛み。肩の打撲。全部、なくなっていた。
「あの、怪我、治ってるんですけど」
「え?」
リーナが俺の背中を見た。そして、口を開けたまま固まった。
俺は立ち上がって、部屋を見回して——見えた。
壁が、違って見えた。さっきまで、ただの光る壁だった。いまは違う。壁の表面に線が走っている。無数の線だ。それが幾重にも交わって輪を作り、輪と輪が繋がって、部屋全体を包んでいる。
見えているのではない。わかるのだ。
指で触れなくても、どこが噛んでいて、どこが支点で、どこを逃がせば全部が緩むのかが、見ただけでわかる。錠を見たときと同じだ。鎖を見たときと同じだ。縄を見たときと同じだ。
でも、これは、術式だった。
四か月間、俺の指が一度も触れられなかったもの。下水の石板。森の石柱。遺跡の扉。番人の面。そのどれもが、俺には「何もない」ものだった。
いま。
俺は手を伸ばした。壁の、いちばん近い輪に。指先が、触れた。
ある。
「あ」
俺はその場にしゃがみ込んだ。理由は自分でもよくわからなかった。膝から力が抜けたのだ。
四か月。役に立たない技能だと言われて、便利屋と呼ばれて、Fのままで、三行しか書けなくて、盗賊に跨がれて、それでも縄を張り続けて。
その手が、いま。
「触れる」俺は言った。声が震えていた。「触れます。……術式に」
「セイン」ガルドが静かに言った。「顔を上げろ」
「はい」
「後ろだ」
*
風が、動いた。地下の、閉じた部屋で。
——ばさ。
その音を、俺は知っていた。四か月ぶりだった。夢の中でしか聞いたことのない音が、いま、目を開けたまま聞こえた。
俺は、振り返った。
淡い光の中に、二つの影が降りていた。
ひとつは、白い。銀の髪が、光のない場所でひとりでに輝いている。表情がない。怒っているのでも悲しんでいるのでもない。感じているという痕跡そのものが、顔から抜け落ちている。背中に、白い翼。
もうひとつは、黒い。黒髪の少年。口の端を片方だけ上げた、意地の悪い笑い方。瞳だけが深い色をしている。よく晴れた日の、夜が来る直前の空。背中に、黒い翼。
「なっ——」フェンリスが跳び退いた。リーナが弓を構え、ガルドが片腕で鎚を握った。
レクスだけが、動かなかった。
俺も、動けなかった。構えることも、逃げることも、思いつかなかった。ただ、見ていた。夢の中で千回見た二人が、そこに立っていた。
銀髪の少女が、一歩前に出た。そして、深く、頭を下げた。
「——お待ちしておりました」
彼女は言った。
「セイン・ヴェルグ様」
俺の呼吸が、止まった。
黒翼の少年が、その隣で肩をすくめた。彼は俺を見て、四か月前とまったく同じ顔で笑った。嘲笑ではない。答えを待っている顔だ。
「よお」彼は言った。「で、どうだ。セイン」
「——やり直せそうか?」
*
白い翼と黒い翼が、遺跡の闇に降りた。
夢のなかで千回見た二人が、初めて俺の名前を呼んだ。




