布陣
「速度よ」
四日目の朝、リーナが叫んだ。彼女は徹夜していた。目の下が黒い。炭で汚れた指で、写しの一点を叩いている。
「この面、速度で判定してるの。見て、この節。『疾きものを退けよ』」
俺には読めないが、彼女がそう言うならそうなのだろう。
「疾きもの、というのは」
「速いもの。矢とか、鎚とか、爪とか」彼女は顔を上げた。「遅いものは、通るわ」
検証は、三十分で終わった。
まず、石を投げた。弾かれた。次に、木の枝を勢いよく突き入れた。弾かれた。最後に、長い枝の先をゆっくり、ゆっくり面に近づけた。
通った。抵抗がなかった。まるでそこに何もないみたいに、枝が面の内側へ入った。
「通ったわ!」
「どのくらいの速さまでですか」
「歩くより遅いくらいね。走ったら駄目」
俺は、自分の指のことを思い出した。三日前、俺は面に触れた。指は滑って、通らなかった。あのとき俺は走って近づいて、手を突き出していた。
速すぎたのか。
「あの、じゃあ、俺があのとき通れなかったのは」
「あなた、突っ込んだでしょ」
「突っ込みました」
「そういうことよ」
四か月ぶんの無力の一割くらいが、この瞬間に「そもそも手順を間違えていた」に変わった。複雑な気分だった。
*
「じゃあ、話は単純だな」ガルドが言った。「坊主が、ゆっくり手を入れて、楔を解く。それだけだ」
「それだけって言いました?」
「言った」
「胸の高さは十五尺です」
「知ってる」
「番人は歩き回ってます」
「知ってる」
「腕が四本あって、全部刃物です」
「知ってる」
彼は、地面に枝で図を描き始めた。
作戦は、こうだった。一、番人を扉の近くまで誘い出す。二、四人がかりで番人を止める。転ばせるのがいちばんいい。三、俺が近づいて、胸の蓋にゆっくり手を入れる。四、四隅の楔を解く。
「解くのに、何秒だ」
「わかりません。見ないと」
「見立てでいい」
「……四つあるので、たぶん、一つ一秒として四秒。手を入れる時間を足すと、六秒くらいですか」
「六秒」ガルドが唸った。「あの図体を、六秒止めるのか」
問題は、戦力だった。ガルドは左肩が折れている。片手で鎚は振れるが、力は半分以下。リーナの矢は通らない。彼女にできるのは、番人の注意を引くことだけだ。フェンリスは動ける。だが一人だ。
そして。
「レクス」ガルドが言った。「あんたは牙を使うな。これは変えねえ」
彼女は頷いた。
「わかった」
「使えば、たぶんこの機構は斬れる。あの面ごと斬れる。……そういう手だと思ってる」
「うん」
「だが、使わせねえ」
「なんで」
初めて、彼女が聞き返した。
ガルドは少し黙って、それから片腕で自分の肩の添え木を叩いた。
「俺が骨を折ったからだ」
「?」
「あの日、俺は坊主を庇って折った。それはいい。俺の判断だ。……だがな、あんたに牙を使わせたら、俺は自分の骨を、あんたの寿命で埋めることになる」
「寿命」
「一日一回だろ。二回目から人から遠ざかる。それは、寿命を削るのと同じだ。……俺は九十二年生きた。あんたは、まだ十六だろうが」
レクスは、しばらく彼を見ていた。それから、こう言った。
「私は、十六だと数えたことがない」
「あ?」
「十六に、見えるだけ。何年生きたか、わからない」
沈黙が落ちた。
「……何歳から、変わってねえ」
「十歳のとき、牙が出た。それから、あまり変わらない」
「何年前だ、それは」
「わからない」彼女は、本当にわからないという顔をした。「数えてなかった」
*
その日は、一日を訓練に使った。訓練といっても、俺のためのものだ。
ガルドが石を積んで、俺の背丈の三倍の高さを作った。そこに板を渡して、四隅に木の楔を打った。
「これを、下から解け」
「届きません」
「そこからだ」
方法は単純だった。フェンリスが俺を担ぐ。
「肩車だ」
「……肩車ですか」
「他にあるか」
「ないですね」
十五尺には届かない。だが、フェンリスの肩に乗れば、俺の手は十二尺くらいまで届く。残りは番人を転ばせて、傾けるしかない。
「転ばなかったら?」
「そのときは考える」
夕方まで、俺たちは同じことを繰り返した。フェンリスが俺を担いで走る。止まる。俺がゆっくり手を伸ばす。楔を解く。三十回やった。最初は十秒かかった。二十回目で七秒になった。三十回目で六秒。
「六秒だ」ガルドが言った。「これ以上は縮まねえか」
「縮まないと思います。ゆっくり動かないと通れないので」
「……六秒な」彼は空を見た。「長えな」
*
その夜、俺は眠れなかった。
明日、俺は番人の胸に手を入れる。四か月前、Fランクの適性判定で「これは戦闘職じゃないな」と言われた男が、金貨十枚の特級依頼で、千年動き続けている機構の心臓に手を突っ込む。
冗談みたいな話だ。冗談みたいなのに、他に誰もできない。
火の向こうで、レクスが起きていた。彼女はいつもの位置に座って、両手を膝に置いている。俺は少し迷ってから、そちらへ歩いた。
「眠れませんか」
「眠らない」
「え」
「見張り。私がやる」
「順番は決まってますよ」
「私は、寝なくても平気」
「そういう問題じゃないです」
俺は、彼女の隣に座った。一人ぶんの距離を空けて。
しばらく、二人とも黙っていた。火が鳴った。
「セイン」
「はい」
「明日、私は、何をする」
「囮です。番人の注意を引いて、足を止めます」
「牙は」
「使いません」
「使えないと、弱い」
「はい」
「弱くていいのか」
俺は、答えを探した。火を見ながらしばらく探して、それから言った。
「よくないです」
「うん」
「よくないですけど」俺は自分の膝を見た。「五日前に、俺、みんなの前で言いましたよね。この隊にいる意味があるのか、って」
「言った」
「あれ、たぶん、間違った質問でした」
「?」
「意味があるかどうかって、自分では決められないんです。決めるのは、たいてい他人です。ギルドの札とか、報酬とか、そういうやつ。……だから、俺は自分で決められることだけ考えることにしました」
「なに」
「明日、あそこにいるかどうかです」
レクスは、しばらく黙っていた。それから、小さく言った。
「わからない」
「はい」
「でも、わかった」
「どっちですか」
「両方」彼女は膝を抱えた。「意味は、わからない。でも、明日、そこにいる。それは、わかった」
*
翌朝、俺たちは扉をくぐった。
そこから先は、思っていたより速く進んだ。
リーナが矢を撃って番人の注意を引き、番人が振り向く。フェンリスが左から、レクスが右から挟んだ。二人とも攻撃していない。ただ、番人の視界——目はないが、たぶん視界に相当するもの——の左右に立って、動きを迷わせた。
ガルドが正面に立った。片腕で鎚を構えて、彼は動かない。番人が一歩踏み出す。ガルドが半歩下がる。また一歩。また半歩。誘っている。扉のほうへ、少しずつ。
「今だ!!」フェンリスが叫んだ。
俺は走った。フェンリスがしゃがみ、俺が肩に乗り、彼が立ち上がる。視界が上がった。
見えた。胸の、四角い蓋。四隅の楔。手を伸ばせば、届く。
「行きます!」
ゆっくり。ゆっくりだ。俺は右手を面のほうへ動かした。走った勢いを、腕には乗せない。息を止めて、指先から、そっと。
指が、面に触れた。沈んだ。
通った。面の内側に、俺の手が入っている。そのまま、蓋へ。あと一尺。一つ目の楔に、指が届く。
ここ。一秒。
そのとき、番人が動いた。上の長い腕が、二本同時に上がった。
「セイン!!」
フェンリスが跳んだ。俺を乗せたまま、横へ。腕が、さっきまで俺たちがいた空間を薙いだ。風が来て、頬が切れた。
着地する。俺の手は、面から抜けていた。一秒で、終わっていた。
「もう一回!」
「駄目だ!」ガルドが叫んだ。「一秒しか保たねえ! 六秒要るんだろうが!」
俺は番人を見上げた。四本の腕が、こちらを向いていた。
千年、二百四十歩を歩き続けてきた機構は、五人ぶんの都合など、当然、まったく考慮していなかった。




