障壁ではなく
ガルドの左肩は、折れていた。
「鎖骨だな」
彼は自分で診断して、自分で添え木を当てた。リーナが手伝おうとすると「鍛冶と同じだ」と言って断った。二日前に人を縫った理屈が、今度は自分に適用されている。
「町に戻りましょう」
「戻ってどうする」
「治療よ!」
「治んねえよ。骨は時間しか治さねえ。……期限は十日だ。今日で三日。往復で四日潰れる。戻ったら、残りは三日だ」
「じゃあ、諦めるってこと?」
「誰がそう言った」
*
俺たちは、遺跡の外に野営を張った。草地の端、森との境目のあたりだ。番人は外に出ない。あの扉の内側から一歩も出てこない。それは初日に確認した。
だから、ここは安全だった。安全な場所から、俺たちは三日間、あの扉を見ていた。
一日目。朝から、リーナが扉の術式を写した。炭と紙で、丸一日かけて、刻線を全部書き写した。何百本もある。彼女は途中で三回、手が攣った。
「なにかわかりましたか」
「わかったわ」夕方、彼女は炭だらけの顔で言った。「やっぱり『閉じよ』だけよ」
「一日かけて」
「一日かけて、それだけだったの!」
代わりに、彼女は別のことに気づいていた。
「この術式ね、扉に効いてるんじゃないの。扉に『閉じよ』と命じてるんじゃなくて、扉を通ろうとするものに『閉じよ』と命じてる」
「……違いがありますか」
「大違いよ。前者なら扉が閉じるだけ。後者だと、通ろうとしたものが閉じるの」
「閉じる、って」
「わからないわ。でも、たぶん、いい意味じゃない」
俺たちは既にその扉をくぐっている。四人とも、特に閉じていない。
「効いてないんじゃないですか」
「効いてないのよ。あなたが留め具を外したから」リーナは自分の写しを見た。「術式は生きてる。でも、留め具がないから、発動しない。……ねえ、それって変だと思わない?」
*
二日目。俺は番人を見ていた。
正確には、扉の隙間から中を覗いていた。あの扉は開いたままだ。閉める方法がない。だから、外から中が見える。
番人は、一定の経路をゆっくり歩いていた。奥の大きな台座のところから手前へ。左の列の像を五体ぶん通って、折り返して、右の列を戻る。そしてまた奥へ。
「巡回だ」フェンリスが言った。「見張りの歩き方だな。俺の部族でも同じことをやる」
「同じ道を通ってますね」
「一歩も違わねえ。あれは、決められた道を歩いてる」
俺は数えた。一周に、二百四十歩。時間にして、たぶん十分ほど。それを、ずっと繰り返している。
千年、そうしていたのだ。誰も来ない神殿で、顔を削られた像の間を、二百四十歩ずつ。
「なんのために」俺が呟くと、リーナが答えた。
「守るためよ」
「何をですか」
「わからない。……でも、機構は必ず、何かを守るために作られるの。守るものがないのなら、機構は作られない」
「奥の台座ですかね」
「そうかもしれない。あそこだけ、少し大きかった」
*
三日目。俺は、扉の隙間に張りついていた。朝から、ずっとだ。
見ていたのは、番人の胸だった。一昨日のあの一瞬、俺の指が面を滑って、その奥に何かを掠めた。位置は覚えている。胴の中心。俺の目線より、少し高いあたり。そこを、見ていた。
昼過ぎ、番人が折り返して、こちら側を向いた。日の光が扉から差し込んでいて、角度がちょうどよかった。
見えた。
継ぎ目だった。黒い金属の装甲が、胸のところで一箇所だけ形が違っていた。まわりの装甲はなめらかな曲面だ。鋳込んだものか、叩き出したものか、とにかく一枚で作られている。その中央だけ、四角い板が嵌まっていた。大きさは掌ほど。四隅に、何かが打ち込まれている。
「ガルド! 見てもらえますか。あれ、なんですか」
彼は片腕のまま、扉のところまで来た。しばらく目を細めて、それから低く唸った。
「……蓋だな」
「蓋?」
「あの板は、あとから嵌めたもんだ。鋳込みじゃねえ。四隅を留めてある」
「何で留めてありますか」
「遠くて見えねえが」彼は言った。「あの形は、楔だ」
俺の背中が、ぞわりとした。
楔。下水の石板、鎖と封鉛。森の石柱、縄と杭。遺跡の扉、八つの楔と鎖。そして、番人の胸、四隅の楔。
「……全部、同じだ」
「なんの話だ」
「この世界の封印、全部、留め具がついてます。術式だけのやつを、俺は一つも見てません。必ず、鎖か、縄か、楔がある。誰かが、術式の上から、物理的に留めてる」
リーナが顔を上げた。
「……たしかに、そうね」
「なんでですか」
「わからないわ。でも——術式って、劣化するの。何百年も経つと、線が薄れたり、魔力が抜けたりする。だから、大事なものを封じるときは、二重にするのかもしれない」
「じゃあ、番人のあれも」
「同じでしょうね。大事なものを、二重に留めてある」
*
俺は、その場に座り込んだ。頭の中で、何かが並び替わろうとしていた。
番人は、何を守っているのか。奥の台座か。それも、あるかもしれない。
でも、胸の蓋は、外側から留めてある。外側から、というのは、番人自身が留めたわけではないということだ。誰かが、番人の胸を開けて、何かを入れて、蓋をして、楔で留めた。
「リーナさん」
「なに」
「機構って、どうやって動いてるんですか」
「術式よ。体に刻んだ術式が、魔力を回して——」
「動く理由は?」
「え」
「動く仕組みじゃなくて、動く理由です。なんで、動こうと思うんですか」
リーナは、口を開けたまま止まった。
「……命令、ね」
「命令」
「そう。機構には、命令を刻むの。『侵入者を排除せよ』とか、『この部屋を守れ』とか。それが機構の意思の代わりになる」
「刻むって、どこにですか」
「核よ。機構の中心にある——」
彼女の声が、そこで止まった。彼女は扉のほうを見た。俺も見た。番人が、二百四十歩の経路をまた折り返していた。胸の四角い蓋が、日の光を受けて鈍く光った。
「……あそこ、核だわ」
*
俺は、立ち上がっていた。膝が笑っていた。腹はまだ痛い。でも、立っていた。
「わかりました」
「なにが」
「俺、あの面には触れません。三日前に試して、駄目でした。あれは術式です。俺の手は術式に届かない」
「そうね」
「でも、面を壊す必要はないです。……あれを壊そうとしてたのが、間違いでした」
三人が、俺を見ていた。レクスも、こちらを見ていた。
俺は、自分の掌を見た。四か月前に紙に書いた一行を思い出していた。
『解けるもの=誰かが、そうしようと思って結んだもの』
命令は、結びだ。命じた者と、従う者を繋いでいる。離れているものを、くっつけておこうとした意思。それ以外の何ものでもない。
千年前、誰かが、この機構に「守れ」と命じた。命じただけでは足りないと思って、核に蓋をして、四隅に楔を打った。
楔は、物だ。俺の指は、物に触れる。
「あの機構を動かしてるのは、命令です。命令は、誰かが結んだものです。だから——」
俺は、扉を見た。黒い巨体が、二百四十歩を歩いている。千年、誰も来ない場所で、削られた顔の間を、ずっと。
「解けます」
沈黙が落ちた。最初に口をきいたのは、ガルドだった。
「坊主」
「はい」
「胸の高さまで、どうやって届く」
「……あ」
「あれは俺の三倍の背丈がある。胸の中心は、地面から十五尺だ。しかも面が張ってある。楔まで手を伸ばすには、面の内側に入らなきゃならん」
俺は、口を閉じた。そのとおりだった。理屈が通っただけで、方法は何ひとつ思いついていない。
「……どうしましょう」
「どうしましょう、じゃねえよ」
ガルドが、片腕で俺の頭を叩いた。痛かった。
「それは、俺たちが考える話だ」




