顔のない神像
森は、うるさくなっていた。
三つ目の丘を越えて中に入った瞬間、フェンリスが耳を動かした。
「鳥がいる」
「戻ったのね」リーナが空を見上げた。
葉の隙間から、鳴き声が降ってきた。名前は知らない。何種類もいる。虫の音もする。足元の下生えが、一か月前より明らかに増えていた。
「主がいなくなったからか」ガルドが言った。
「そうでしょうね。あれがいる限り、他の獣は住めなかったはずよ」
俺は、ぬかるんだ地面を踏みながら考えていた。結界を解いたら、森が生き返った。守られていたものが死んで、それ以外の全部が戻ってきた。
いいことのはずだった。いいことのはずなのに、なぜか、素直に喜べなかった。
*
途中で、あの空き地を通った。
大角狼の骨は、まだそこにあった。一か月で肉は消えている。獣が食ったのだろう。角の一部が、俺たちが切り取ったままの形で残っていた。
石柱も、そのままだった。刻まれた線は、いまは何も光っていない。ただの石だ。根元には、弾け飛んだ縄の切れ端と、抜けた杭が転がっていた。
ガルドが、その杭を一本拾い上げた。
「……鉄だな」
「そりゃ杭ですから」
「そうじゃねえ。この鉄だ」彼は杭の先を指で弾いた。「精錬が古い。うちの一族の炉じゃ、こういう鉄は出ねえ」
「じゃあ、どこの」
「知らん」
彼は杭を懐に入れた。持ち帰るつもりらしい。
*
森を抜けたのは、昼過ぎだった。開けた場所に出た。草地だった。丸く、ぽっかりと。木が一本も生えていない。空き地と同じで、不自然なくらい平らだった。
その中央に、それはあった。
最初に見えたのは、石の壁だった。高さは俺の三倍ほど。横幅は、目算で三十歩以上。地面から生えているように見えるが、実際には埋まっているのだと思う。上部だけが顔を出している。長い年月で角が丸くなり、蔓が這っている。
その中央に、扉があった。石の扉だ。両開き。継ぎ目に草が生えている。
「これよ」リーナが言った。声が、少し震えていた。「三年探して、四回来て、一度も開かなかった扉」
近づいた。扉の表面には、びっしりと線が刻まれていた。下水の石板と同じ。森の石柱と同じ。ただし、規模が違う。刻線の密度が桁違いで、見ているだけで目が滑る。
「読めますか」
「読めるわ」リーナは目を細めた。「相変わらず、内容は一つだけよ。『閉じよ』」
「それだけですか」
「それだけ。……この規模の術式で、たったそれだけ」
「多いほうがいいんですか」
「普通はね。術式は複雑なほど、いろんな条件をつけられるの。『敵が来たら閉じよ』とか『百年経ったら開け』とか」彼女は、刻線を指でなぞった。触れているのに、彼女の指も何も感じていないのが、俺にはわかった。「これは、条件がひとつもない。ただ『閉じよ』。それだけを、この密度で書いてる」
「つまり?」
「絶対に開けたくなかった、ってことよ」
*
俺は、扉の前に膝をついた。下水のときと同じだ。まず、刻線に触れる。何もない。予想どおりだった。
次に、下だ。俺は扉の下端に沿って、指を這わせた。土をどける。草を抜く。爪の間に泥が入る。四分の一ほど進んだところで、指が止まった。
「あった」
金属の楔だった。扉の下端、地面すれすれのところに、鉄の楔が打ち込まれている。太さは俺の親指ほど。頭の部分に、小さな穴が開いていた。その穴に、細い鎖が通してある。鎖は地面を這って、次の楔へ。そのまた次へ。
「四隅ね」リーナが反対側から言った。彼女も掘っていた。「こっちにも二つあるわ。上のほうにも」
「全部で八つか」ガルドが数えた。「鎖で繋いで、輪にしてある。……坊主、これは」
「はい」俺は、鎖に指を当てた。ある。はっきりと。「解けます」
「待って」リーナが止めた。「開ける前に、確認したいの。この扉、外から閉じてある? それとも中から?」
「どういう意味ですか」
「楔は外側に打ってあるわね」
「はい」
「じゃあ、閉じたのは外の人間よ。中にいた誰かが自分で閉じたんじゃない」彼女は、少し言葉を切った。「外の誰かが、中の何かを、閉じ込めた」
しばらく、誰も何も言わなかった。
フェンリスが、扉に鼻を近づけた。
「……匂わねえ」
「なにも?」
「なにも。中が完全に密閉されてる。千年ぶんの空気が、そのまま入ってるってことだ」
「開けたら、どうなるの」
「知らねえよ。息はするな、くらいしか言えねえ」
ガルドが鎚を握り直した。
「坊主。開けたら下がれ。全力でだ」
「はい」
「嬢ちゃん。牙は」
「使わない」レクスが答えた。「約束した」
*
俺は、鎖に爪をかけた。八つの楔が、鎖で環になっている。互いに引き合って、扉を押さえている。支点は——北東の楔。そこを逃がせば、残りは順に緩む。
背中に、四人の気配があった。誰も何も言わず、扉の向こうに何があるのか、固唾を飲んで見守っていた。
——ここ。
じゃら、と音がした。鎖が、順に落ちた。八つの楔が、順に浮いた。ひとつ、またひとつ。最後の一つが抜けたとき、扉の上のほうから土がぱらぱらと落ちた。
そして、石の扉が、内側に向かって、ゆっくりと開き始めた。誰も押していない。
風が、出てきた。冷たい風だった。湿っていない。乾いている。埃の匂いすらしない。ただ、冷たいだけの空気が、扉の隙間から、ゆっくりと流れ出してきた。
千年ぶんの空気だ、と俺は思った。思ってから、フェンリスの言葉を思い出して、息を止めた。
「……大丈夫だ」彼が言った。「毒はねえ。匂いがねえだけだ」
*
俺は、灯りを灯した。指先の、蝋燭ほどの明かり。相変わらず頼りない。それでも、扉の中を、少しだけ照らした。
広い。それが最初の印象だった。
天井が高い。灯りが届かない。左右の壁も見えない。床は磨かれた石だった。千年経っても、埃がほとんど積もっていない。密閉されていたからだろう。
そして、両側に、何かが立っていた。
像だった。人の形をしている。等身は俺の二倍ほど。台座の上に立って、正面を向いている。一体ではない。灯りを動かすと、次が現れた。その次も。左右に、規則正しく並んでいる。
「……何体あるの」リーナが呟いた。「数えるわ」
彼女は歩き出した。俺も続いた。一、二、三。左右に五体ずつ。合計十体。その先に、少し大きな台座があって、そこにも一体。十一体。
そして、俺は気づいた。顔がなかった。
削られていた。一体だけではない。全部だ。十一体すべての顔が、鼻から額にかけて、平らに削り取られていた。
乱暴な壊し方ではなかった。そこが、いちばん恐ろしかった。
肩は無傷だ。腕も、指も、衣の襞も、全部そのまま残っている。像を壊したいのなら、まず腕を落とすはずだ。首を落とすはずだ。そうしていない。顔だけを、平らに。丁寧に。時間をかけて。十一体、すべて。
「セイン」リーナが呼んだ。彼女は、台座の前にしゃがんでいた。「これ、見て」
台座の正面に、文字を刻んだ跡があった。跡だ。文字はない。長方形に、表面が削られている。深さは指の腹ほど。周囲の石と質感が違う。ここに何かが刻んであって、それを削り取ったのだ。
「名前ね」彼女は言った。「像の下には、名前を刻むものよ。どの神殿でもそう」
「全部の台座が、こうですか」
彼女は立ち上がって、隣の台座を見た。次の台座も。
「……全部よ」
俺は、灯りを持ったまま、その並びを見た。顔のない像が、十一体。名前を削られた台座が、十一。
宛先がない。丘の上で気づいたことが、目の前に、そのままの形で立っていた。祈る行為は残っている。像も残っている。神殿も残っている。顔と、名前だけが、丁寧に抜き取られている。
「これ、公式の歴史に載っていない様式よ」リーナが炭筆を走らせながら言った。声が、上ずっていた。「柱の形も、床の張り方も、わたしが知ってるどの時代とも違う。……こんな建物、記録に一行もないの」
「一行もないんですか」
「ないの。おかしいでしょ。こんな大きなものが」彼女は手を止めて、顔を上げた。「わたし、八百年ぶんの記録を全部読んだのよ。それより古い記録は、里にもない」
「里にもない?」
「ないの」彼女は、削られた台座を見た。「気づいてる? わたしたちが持ってる記録って、全部、大戦のあとのものなの」
*
そのときだった。奥で、音がした。
金属の音だった。歯車が噛み合う音。それから、何かが張り詰める音。一度ではない。
奥のほう——灯りの届かない、いちばん大きな台座のさらに向こうから、それは順に、こちらへ近づいてくるように鳴った。
かちり。かちり。かちり。
俺の錠が落ちるときと、同じ音だった。




