一日一回
「竜人族って、なに」
リーナが聞いた。ガルドは、落とした鎚を拾い上げていた。拾って、柄を布で拭いて、背に戻して、それから言った。
「知らん」
「いま言ったじゃない」
「言った」
「じゃあ知ってるでしょ」
「言葉を知ってるだけだ」
彼は歩き出した。
「日が暮れる。ここを離れるぞ」
*
その夜の野営は、街道から外れた窪地でとった。火は小さくした。逃げた盗賊が二人いる。用心に越したことはない。
飯の支度をしながら、リーナが口を開いた。
「わたし、少しだけ知ってるわ」
俺は顔を上げた。ガルドは、鍋を見たまま動かなかった。
「里の書庫で読んだの。八百年ぶんの記録の、後ろのほうの棚。ほとんど誰も開けない場所に、竜人族の項目があった」
「なんて書いてありましたか」
「三行よ」彼女は指を三本立てた。「一行目。『竜の血を分けられし者たち』。二行目。『大戦にて最前線に立つ』。三行目——」
「三行目?」
「『戦後、危険と見なされ、灰の大地に移される』」
「灰の大地って、どこですか」
「大陸の北西の端。地図の外れよ」リーナは地面に指で線を引いた。「草木が育たない土地。行った人の話だと、地面が灰色で、風が吹くと粉が舞うんですって。人が住める場所じゃない」
「そこに、移された」
「移された、って書き方がね」彼女は、少し苦い顔をした。「移住じゃないの。移された、なの。誰が移したのかは書いてない」
「いま、何人くらいいるんですか」
「三千いないと言われてる。千年前は、もっといたはずよ」
*
俺は、火の向こうに座っている少女を見た。
レクスは、膝を抱えていた。顔は俺たちのほうを向いていない。火も見ていない。ただ、自分の膝小僧のあたりを見ている。話が自分のことだというのは、わかっているはずだった。
「レクス」
俺が呼ぶと、彼女は顔を上げた。目が、変わっていた。
昼間も縦だった。だが、いまは違う。昼は、細い縦の線だった。琥珀の中に、黒い糸が一本通っている、という程度だった。いまは、瞳孔が広がっている。広がったまま、縦だ。目の上下いっぱいに、黒い楕円が伸びている。火の明かりを浴びて、その黒が、濡れたように光っていた。
「……ど、し、た」
彼女が言った。俺は、息を呑んだ。言葉が、崩れていた。「どうした」と言おうとして、間の音が抜けている。舌が言うことを聞いていない、という崩れ方だった。
「なんでもない」俺は言った。
「なんでも、ない」
「はい」
「わ、かっ……た」
*
リーナが、立ち上がりかけて、止まった。彼女は、俺の顔を見た。それから、レクスの顔を見た。そして、静かに座り直した。
「セイン」
「はい」
「さっきの、続きを話すわ。……書庫の記録には、四行目があったの」
「三行だって言ってませんでしたか」
「言ったわ。……本文が三行なの。四行目は、欄外の書き込みだった。別の筆跡で、あとから足されてた」
彼女は、記憶をたどるように目を閉じた。
「『牙、一日に一度を限度とすべし。二度目より、人より遠ざかる』」
*
「リーナさん」
「なに」
「いま、少し止まりましたよね」
彼女は、答えなかった。
「五行目が、ありますか」
「……あるわ」
「読んでください」
「読まないわ」
「なんでですか」
彼女は、そこで、火を見た。
「本人が、そこにいるからよ」
*
レクスが、顔を上げた。
「言え」
「……」
「言え」
リーナは、しばらく黙っていた。そして、目を閉じた。記憶をたどるときの、あの閉じ方だった。
「『三度目に至りし者、目は戻らず』」
*
火が、鳴らなかった。
俺は、そこで、自分が音を探していることに気づいた。何か鳴ってくれれば、この一行を、少し薄められる気がしたのだと思う。
何も、鳴らなかった。
「レクス」
「聞いた」
「はい」
「知っていた」
「……知ってたんですか」
「知らない」彼女は、そう答えた。「だが、そうなると思っていた」
*
火が鳴った。俺は、レクスを見た。彼女は、また膝小僧を見ていた。
今日、二回。数えていたのは俺だ。頭目のときに一度。リーナを庇うときに、もう一度。意味のない数え方だと思っていた。
「レクス。今日、二回、使いましたよね」
彼女は、少し間を置いてから、頷いた。
「知ってましたか。一日一回だって」
もう一度、頷いた。
「……知ってた」
崩れていない声だった。この一言だけ、はっきり出た。
「知ってて、使ったんですか」
「使わないと」彼女は、俺のほうを見なかった。「使わないと、みんな、死ぬ」
*
誰も、何も言わなかった。言えなかった、が正しい。
フェンリスが焚き火に薪を放り込んだ。火の粉が上がった。彼はそのまま、しばらく火を睨んでいた。
「……なあ、エルフ」
「なに」
「その、遠ざかるってのは、どうなるんだ」
「わからないわ」
「わからねえのかよ」
「書いてないもの。ただ——」リーナは言葉を選んだ。「ただ、『人より遠ざかる』って書き方は、比喩じゃないと思う」
「どういう意味だ」
「そのままの意味よ。人から遠ざかる。人でなくなる方向へ、近づいていくってこと」
ガルドが、初めて口を開いた。
「嬢ちゃん。その書き込み、いつのものだ」
「筆跡から見て、四、五百年前ね」
「誰が書いた」
「わからない。署名がないの」
「……そうか」
彼は、それだけ言って、また黙った。リーナが苛立った顔をした。
「ねえ、ガルド。あなた、明らかに何か知ってるでしょう」
「知らん」
「嘘」
「知らんと言ってる」
「あなた、鎚を落としたのよ。九十二年握ってた鎚を。何も知らない人間が、あんな落とし方をする?」
ガルドは、答えなかった。代わりに、彼は火の向こうへ声を投げた。
「嬢ちゃん」
レクスが、顔を上げた。彼女への呼びかけだった。
「あんた、俺が怖いか」
レクスは、しばらく彼を見ていた。そして、首を横に振った。
「怖くない」
「そうか」
「あなたは、私を、殺さない」
「なんでわかる」
「わかる」彼女は、また膝小僧に目を落とした。「殺す人は、匂いが違う」
ガルドの顔が、そのとき、ほんの少しだけ歪んだ。痛みをこらえた顔だった。彼は立ち上がって、火から離れた。
「見張りは俺からだ。全員寝ろ」
*
その夜、俺は二番目の見張りだった。ガルドと交代して、俺は火のそばに座った。
三人が寝ている。ガルドは深く、フェンリスは浅く、時々うなされている。リーナはほとんど聞こえない。
四人目は、寝ていなかった。
レクスは、少し離れた岩に腰かけていた。背中を丸めて、両手を膝の上に置いている。火のほうを見ていない。俺のほうも見ていない。自分の手を、見ていた。
俺は、声をかけなかった。かけようとした。実際、口を開きかけた。
でも、そのとき、彼女の指が動いた。右手だった。指を、わずかに広げる。手の甲に力が入る。皮膚の下で、何かが動く気配があった。
牙。形成しようとしている。
俺は息を止めた。昼間、盗賊を斬ったときと同じ動き。ただし、ずっとずっと遅い。ゆっくりと、確かめるように。手の甲に、白いものの端が、わずかに浮いた。
そこで、止まった。
彼女は、はっとしたように——というのは、俺の推測だ。彼女の顔は、相変わらず何も語らない。ただ、その手を、勢いよく握りしめた。強く。爪が掌に食い込むくらい強く。白いものが、引っ込んだ。
そして、彼女は握った拳を、胸のあたりまで持ち上げて、そのまま動かなくなった。
*
俺は、見ていた。見ていることしかできなかった。
なんで、いま。戦いは終わっている。敵はいない。使う理由がない。なのに、彼女は牙を出そうとした。そして、慌てて引っ込めた。
たぶん、確かめたかったのだと思う。まだ出せるのか。あるいは、出したらどうなるのか。もしくは——出さずにいられるのか。
俺は、そこでようやく気づいた。
昼間、彼女は「使わないと、みんな死ぬ」と言った。その「みんな」の中に、俺が入っている。十七人に囲まれて、縄を張って、跨がれて、何もできなかった俺が。
彼女が一日の限度を超えて牙を使ったのは、俺が弱いからだ。俺が強ければ、二度目は要らなかった。
火が、小さくなっていた。俺は薪を足そうとして、手を止めた。音を立てたくなかった。
岩の上で、彼女はまだ拳を握っている。握ったまま、動かない。
——痛くは、ありませんか。
昨日、俺はそう聞いた。聞いておいて、俺は今日、彼女に二度、牙を使わせた。
その言葉が、いまは、ずいぶん軽く思えた。




